司馬懿に見出されて蜀を滅ぼした魏の名将【鄧艾】

司馬懿に見出されて蜀を滅ぼした魏の名将【鄧艾】

曹操(孟徳)が建国に大いなる貢献した魏にとって、晩年は裏切りが続出しました。中でも国家を裏切るわけではなく、味方に裏切られて捕えられた将軍といえば、鄧艾が悲運ともいえるでしょう。鄧艾は司馬懿によって才能を見出され、数々の武功を立てて蜀を降伏させるまでになった鄧艾とはどのような人物だったのでしょうか。


政策に知己があり、魏の国力発展に貢献する鄧艾

政策に知己があり、魏の国力発展に貢献する鄧艾

政策に知己があり、魏の国力発展に貢献する鄧艾

鄧艾(士載)は幼少時から吃音症に悩まされ、現代社会と違い、理解を得られなかったために周囲からは疎まれていました。時に理解を示してくれる人物に出会うと、その聡明さに感心されることもありましたが、中々出世には遠い人生を歩んでいました。

鄧艾は魏に仕えるようになると、権力者でもある司馬懿(仲達)によって見出され、出世を果たしていきます。勉学に励んでいたこともあって、国家政策の知識を有していました。

呉の討伐に向けた富国強兵策では、鄧艾は担当した地域を実際に視察し、田んぼの質は良くても水が少ないことを見抜き、運河を整備して水路を確保すれば、十万規模の遠征軍の食料を5年間保有できるという計算をします。

また、鄧艾はそれに充てる労働者の割合を細かく計算し、何万人を交代で稼働すれば何年でどれだけ人材が必要でどのくらい収獲できるかといった内容をまとめて、司馬懿に進言しています。司馬懿もさすがで、その進言をすべて受け入れて実行に移しており、241年には運河が完成して魏はますます強大になっていきました。

姜維を退けて武功でも活躍する

姜維を退けて武功でも活躍する

姜維を退けて武功でも活躍する

鄧艾は南安太守に昇進し、249年には蜀の軍事面を担当する姜維(伯約)の北伐と対決することになります。鄧艾は対蜀の総司令官だった郭淮に従い、姜維の行動を的確に読みながら進言を行い、遂には姜維を退却させる活躍をも見せました。

鄧艾は正攻法の戦闘において、姜維が裏をかいて行動しようとしても、不確かな現実があると考えをめぐらしてその行動に至った経緯を勘ぐり、読みを的中させていました。

的確な分析で国に貢献していく

的確な分析で国に貢献していく

的確な分析で国に貢献していく

鄧艾の読みは敵の行動だけでなく、性格にまで細部に渡り、司馬懿の後継者となった司馬師(子元)にまで信頼されていました。鄧艾は辺境の異民族に対してもその歴史から紐解き、的確な助言をしていきます。勢力争いをわざと起させて国を二分し、片方には恩賞を与えて懐柔し、国境の整備を自軍以外で担うようにし、その隙をついて辺境の地にまで開拓を進めて国力をさらに高めていきました。

この鄧艾の助言には司馬師もいたく感服し、その意見をほとんど採用していました。

鄧艾の分析力は強大な呉に対しても行われました。孫権(仲謀)の死後に魏は大敗を喫しますが、その後、呉の将軍諸葛格が大軍をもって攻めてきた合肥新城を守り抜くと、鄧艾は諸葛格が呉の新皇帝をないがしろにして周囲を固めず、いずれ自ら滅ぶであろうと考え、その旨を司馬師に進言しています。

諸葛格は鄧艾の言う通り、帰国後にクーデターに遭って殺害されています。鄧艾は出世を重ねていき、常に軍備を興すときには農地を耕すことを忘れず、兵や民が飢えないように配慮している人材を評価するべきであると上奏しています。

武功を重ねる鄧艾

武功を重ねる鄧艾

武功を重ねる鄧艾

鄧艾は255年に起きたカン丘倹の反乱の鎮圧にも功績を残しています。反乱の文書を都に送りつけて大混乱を起こすようにした策略を見抜いて防ぎ、鄧艾自ら兵を率いて参戦し、故意に隙を見せて誘い込み、反乱軍を撃破しました。また、この反乱に乗じて呉軍が攻めてきますが、鄧艾によって敗走させられ、反乱は鎮圧されました。

蜀を降服させる

蜀を降服させる

蜀を降服させる

鄧艾は255年~262年の間、姜維の北伐をたびたび死守しています。特に255年の侵攻では、序盤の魏軍の敗戦を盛り返し、姜維を後退させて諸将が力尽きたと感じるまでに至りました。

多くの将が姜維に対する備えを解こうとするところ、鄧艾は情勢を的確に分析し、姜維が再び侵攻してくる可能性を述べています。鄧艾の思惑通り、姜維は侵攻してきますが、守りが固いのを見越すと進路を変更しています。しかし、鄧艾はそれも見越して姜維の進路を先回りして対峙し、進軍を防いでいます。姜維は鄧艾の隙を突いて伏兵を配し、魏軍の後方を取ろうとしますが、鄧艾はそれすらも先読みし、粘る姜維を退却させています。姜維ら蜀軍は鄧艾の猛追撃を受けて散々に打ち砕かれ、その撃破数は1万人を超えていたといいます。

その後も数度に渡り、姜維の侵攻を防ぎ、鄧艾が対峙している以上、蜀軍は北伐を敢行できませんでした。

体を張りながら険しい道を進んで裏をかく

体を張りながら険しい道を進んで裏をかく

体を張りながら険しい道を進んで裏をかく

その頃司馬師の跡をついだ弟の司馬昭は、263年に大規模な蜀遠征軍を興しており、鄧艾も駆付け姜維の部隊を孤立させています。しかし、姜維も盛り返し、孤立状態から脱出して蜀の街道を死守します。蜀の命運を分けるだけに、姜維の奮闘にさすがの鄧艾も攻め込んで降伏させるのは不可能だろうと推測し、魏軍を蜀の本拠地に向けて険しい進路を敢えて行軍し、奇襲をかけようとします。

この無人ともいえる地を駆け抜け、橋を作りながら行軍していき、山や谷を死にもの狂いで越えていきます。鄧艾自身も体を張りながら進み、遂に蜀の都である成都にまで進出しました。

蜀の最後の砦ともいえる衛将軍の諸葛瞻を討ち破り、主力を割いていた蜀の皇帝劉禅は遂に降伏の決断を下します。

不遇の死を迎える

不遇の死を迎える

不遇の死を迎える

鄧艾は成都に入城しても、劉禅ら臣下を決して不遇な扱いをせず、略奪も禁止しました。姜維を初め、降服者は処罰せずに在職に復帰させており、蜀の民衆からは大いに崇められていました。しかし、鄧艾は蜀の重臣たちの処罰や待遇を魏の朝廷に進言せずに独断で行っており、魏の諸将にとって、鄧艾への信頼官は少しずつ歯車が歪み始めていました。

鄧艾は蜀から魏へ帰らず、呉へ侵攻し、中華平定する計画を立てます。劉禅の財産を戻して厚遇することで、呉への牽制になるように仕向けましたが、司馬昭はそれを許さず、独断で動くべきでないと叱ります。

しかし、鄧艾はその計画を譲らずにいたために、随行していた有能な将軍である鍾会によって国家反逆罪であると申告され、魏への反乱は近いものであると訴えられました。司馬昭は魏の発展に大いに貢献した鄧艾を逮捕するように命じ、多くの兵は納得いかないジレンマを抱いていたといいます。鄧艾が捕らわれると、これは鍾会の策略でもあることがわかり、鍾会は姜維とともにクーデターを起こしています。

鍾会は蜀を得て独立した王になりかけましたが、この反乱は失敗に終わり、姜維ともども殺されました。成都を出発していた鄧艾の護送者は、元配下の将兵たちによって救出され、成都へ戻ろうとしています。しかしながら、鄧艾を逮捕することに関与した諸将は、報復を恐れて軍勢をけしかけて鄧艾を捕え、その場で鄧艾や身内の者を殺害していきました。





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