【三国志with日本史】その頃日本は…〇〇があった(4)

【三国志with日本史】その頃日本は…〇〇があった(4)

このシリーズも4作目となり、三国志の筋書きでは中国全土をさせるほどの大規模な戦争となり、絶望的な兵力差がありつつも蜀と呉の連合軍が歴史的な勝利をおさめた赤壁大戦が勃発した頃になります。


三国志と日本古代史を比較して

三国志と日本古代史を比較して

三国志と日本古代史を比較して

本記事で4作目となるこのシリーズを執筆するための取材で、三国志と日本古代史を勉強してきました。正史三国志は正確な歴史書であり、事実を事細かくたんたんと書き綴られていますが、古事記や日本書紀にはあいまいな点が多く、魏志倭人伝と相違がある部分や在位が150年以上である天皇がいたとする記述まであります。
また、古事記や日本書紀に出てくる人物や伝説には一部架空のものがあるという意見も文学者や考古学者の間で飛び交っているのも事実です。

それもそのはず、古事記や日本書紀が書かれたのは神武天皇が即位してから約1300年を経た頃で、時の天皇が皇室の系図や偉業についてあいまいな部分が多かったので正確な文書を作成するように命じて作成させたものであるからです。さらに、メイキング作業も稗田阿礼(ひえだのあれ)という超記憶術に優れた人物が書を読みあさって記憶し、稗田阿礼が暗誦しているのを太安万侶(おおのやすまろ)が紙に書いていくという作業方法でした。

対して正史三国志を記した陳寿は三国志の末期をリアルタイムに生きた人物だし、書き残された書物や武将の遺族、子息などに取材をして正しく記録することに努めていました。
その努力の甲斐があってか、今こうして三国志と日本古代史を平行して読むことができるのです。
さて、本記事では映画「レッドクリフ」の題材となり、世界中に知られることとなった赤壁大戦が起きた以降の両国のできごとを並行して進めていきます。

諸葛亮(孔明)仕官 80万VS5万の赤壁大戦

諸葛亮(孔明)仕官 80万VS5万の赤壁大戦

諸葛亮(孔明)仕官 80万VS5万の赤壁大戦

劉備(玄徳)は曹操(孟徳)に敗れた後、同族である劉表を頼って身を寄せました。それから約7年もの間、戦争で活躍するわけでもなく破滅するわけでもなく、何の成果もあげられず他人の力にすがって生き続けている状況に涙する低迷期を迎えていました。
張飛(翼徳)、関羽(雲長)といった1人で1万の兵に匹敵するといわれる豪傑を抱えていても用兵に長けた参謀が蜀軍に不在であることが自分たちの躍進を抑制する要因となっていることも自覚していました。そんなとき、水鏡先生こと司馬徽と出会い「臥龍(がりょう)・鳳雛(ほうすう)」のことを知ります。そして、ターゲットを臥龍こと諸葛亮(孔明)に絞って荊州へと赴き、三顧の礼によって彼を幕下に加えます。

ちょうどそのころ、曹操(孟徳)は長年漢の領地に度々侵攻してきた異民族の烏丸の討伐に成功。孫権(仲謀)は父親の孫堅(文台)暗殺で実行犯となった黄祖を殺害して親の仇討ちに成功します。

名門袁家を滅ぼした曹操(孟徳)は、同年に呉の領土を奪わんと急ピッチで大船団と水軍を作り、孫権(仲謀)に挑戦状を叩きつけました。その挑戦状には「罪を認めて南に軍を進めれば、劉琮(りゅうそう:劉表の次男)は何の抵抗もなく降伏した。次は80万の軍勢を従え、呉の地で狩りをしようと思う」とありました。つまり「80万の軍隊に襲われたくなければさっさと降伏しろ」ということです。
このとき孫権(仲謀)は20歳を過ぎたばかりの青年君主でした。圧倒的兵力差で勝ち目のないことは重々承知の上でしたが、父と兄の偉業を引き継いだプレッシャーもあり、どうすればよいのか迷っていました。そんな中、諸葛亮(孔明)が周瑜(公瑾)のもとを蜀の使臣として訪れ劉備(玄徳)と孫権(仲謀)の同盟を締結することを提案しました。さらに、魏軍の兵士が連戦によって疲弊していること、水軍が即席であること、兵士の大半が元他勢力で離反しやすいことなど軍事的な勝算を説いたあと窮めつきには「曹操(孟徳)が奥方を欲しがってるぞ」と挑発して周瑜(公瑾)と魯粛を抗戦派に引き込みました。
老臣たちが降伏論をこぞって唱える中、若手の周瑜(公瑾)と魯粛は頑なに抗戦を主張します。孫権(仲謀)が抗戦すると決心し、劉備(玄徳)と同盟を結んだことで赤壁大戦の火蓋が切って落とされました。

神功皇后による摂政が開始 香坂皇子・忍熊皇子による反乱

神功皇后による摂政が開始 香坂皇子・忍熊皇子による反乱

神功皇后による摂政が開始 香坂皇子・忍熊皇子による反乱

第14代仲哀天皇が崩御なさると皇后である神功皇后が天皇に代わって政治を行う摂政を行いました。以来神功皇后が崩御なさるまでの約70年に渡って摂政を続けます。
神功皇后が熊襲・三韓征伐を終えて凱旋帰国する際、神功皇后と仲哀天皇の皇子である第15代応神天皇の異母兄にあたる香坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)が、次期天皇に幼い皇子が就くことを恐れて反旗を翻しました。

香坂皇子と忍熊皇子は父の仲哀天皇の御陵(お墓)造設のためと偽って播磨の赤石(現:兵庫県明石市)に布陣し、奴国から凱旋帰国する神功皇后の軍隊を迎撃せんと共謀しました。
香坂皇子と忍熊皇子は倉見別(くらみのわかれ)と五十狭茅宿禰(いさちのすくね)を将軍に任命して東国軍を編成しました。しかし、菟餓野(とがの)で反乱の成否を占うための狩りを行った際、香坂皇子は猪に襲われて食い殺されてしまい、不吉な前兆を恐れた忍熊皇子は、住吉まで退いてそこに布陣しました。

神功皇后が瀬戸内海を渡海して紀伊に上陸すると忍熊皇子は菟道(うじ:宇治)まで後退して陣を敷き、武内宿禰(たけうちのすくね)と武振熊(たけふるくま)を将軍とする皇后軍との戦闘を開始しました。東国軍は武内宿禰の策略によって弓と刀剣を失って逢坂まで敗走し、そこで敗れました。忍熊皇子の最期は、逃げ場を失った皇子が五十狭茅宿禰とともに瀬田川(現:淀川)に身投げして亡くなりました。

曹操(孟徳)魏公就任 劉備(玄徳)益州を領収

曹操(孟徳)魏公就任 劉備(玄徳)益州を領収

曹操(孟徳)魏公就任 劉備(玄徳)益州を領収

周瑜(公瑾)が江陵(こうりょう)にて曹仁と戦闘繰り広げている間に劉備(玄徳)は江南4郡をちゃっかり平定して領土を拡張します。その後も曹操(孟徳)は呉を攻めたので孫権(仲謀)も周瑜(公瑾)もこれを迎え討つため、劉備(玄徳)の動向にまで視野を向けることができませんでした。

曹操(孟徳)は呉への侵攻と同時進行で不安因子の討伐を開始しました。まず矛先が向けられたのは漢中を治めていた張魯。当時益州牧だった劉璋もこれに便乗しようとしましたが、自軍を出兵させることを恐れて劉備(玄徳)に張魯討伐を依頼しました。
張魯に軍を差し向けた曹操(孟徳)に馬超(孟起)と韓遂が反発して潼関にて戦いましたが、曹操(孟徳)に敵わず敗走しました。同年劉備(玄徳)は諸葛亮(孔明)の進言により、劉璋に反旗を翻して戦闘を開始します。
曹操(孟徳)は魏公就任前、旗揚げの序盤から支え続けてくれていた忠臣の荀彧(文若)ともめてしまい「御役御免」を空の食器を用いて伝えます。それを受け取った荀彧(文若)はもう曹操(孟徳)に付き従っていくことができないと悟り自害しました。その翌年曹操(孟徳)は魏公に就任します。

曹操が魏公に就任し、孫権(仲謀)が合肥に進駐と撤退を繰り返している頃、諸葛亮が張飛(翼徳)、趙雲(子龍)を伴って益州に侵攻。益州城の城門まで差し迫られた劉璋は官印と州牧譲位の文書を持参し籠城戦で開始することなく降伏し、劉備(玄徳)は益州を得ました。

新羅侵攻に失敗する

新羅侵攻に失敗する

新羅侵攻に失敗する

三韓征伐から15年が経ち、百済王、新羅王、高句麗王は世代交代や三国間で戦争をしていました。神功皇后はこれに干渉し、新羅再度軍隊を派遣して侵攻させました。
同時に百済からも侵攻を受けた新羅でしたが、当時の新羅王の奈解尼師今(なかいにしきん)が太子の昔于老(せきうろう)と、王子の昔利音(せきりおん)を将軍に任命して反撃させました。
このときの新羅征伐では海から陸地へ上陸するのに苦戦し、倭の軍勢は高波にのまれたり激しい迎撃を受けてほとんどが海の底に沈められたそうです。

まとめ

まとめ

まとめ

本記事で取り上げた年代から中国では魏、呉、蜀による三国鼎立時代が始まります。対して日本は、国内の反乱や跡目争い、海外への出兵など混乱の最中にありました。
三国鼎立が成立し始めると、曹操(孟徳)や劉備(玄徳)など三国志の第一世代と呼ぶべき人物が次々に亡くなっていき、諸葛亮(孔明)や曹丕(子桓)ら第二世代が活躍する時代に突入します。
以降どのような出来事が両国であったのか、次回に乞うご期待。





この記事の三国志ライター

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