項羽と関羽(雲長)時代は違えど部下を思う心は同じ
■ 項羽と関羽(雲長)時代は違えど部下を思う心は同じ
項羽と関羽(雲長)時代は違えど部下を思う心は同じ
関羽(雲長)にはとある歴史上の偉人に感化されたのでは?と思いたくなるエピソードがあります。
その偉人の名は項羽。楚漢戦争で漢の高祖劉邦と敵対した武将です。
関羽は常々読書に励み、人間関係や孝の精神、さらには兵法に至るまでを毎日勉強した努力家でもあります。
そんな関羽(雲長)は歴史を学ぶ上でどこか感化されたのでしょう。忠義の臣の代表格と知られる関羽(雲長)はかの有名な項羽に似ている部分があります。項羽とは楚漢戦争の折に漢の高祖劉邦と線戈を交えた人物です。
両者は悲劇のヒーローとして名高いのですが、関羽(雲長)が項羽に感化されたのではと思いたくなるようなエピソードを本記事で綴らせていただきたいと思います。
譜代の部下には優しく、外様を邪険に扱う
■ 譜代の部下には優しく、外様を邪険に扱う
譜代の部下には優しく、外様を邪険に扱う
譜代とは先祖代々仕える家臣のことを言います。一方外様の場合はもともと敵対していたか、あるいは新参者の家臣のことを言います。
項羽は秦の始皇帝の死後、祖国の恨みを忘れず戦で負かし楚に降伏した秦兵をやたらと邪険に扱いました。その様子を記す書物にはこのように記述されています。
「楚に下った秦兵は従軍してもろくに食料を与えてもらえず、脱走する者が多発した」、「脱走を企てた秦の兵士を項羽は容赦なく処刑した」、「食料が少なくなると、数万に及ぶ秦兵を谷間に落として生き埋めにした」などという恐ろしい記録が残されています。
関羽(雲長)もこのような嫌いがあり、新参者の家臣には冷たく古参の臣下に対しては、その者が負うべき罪を自分の責任としてかばったとする記録が見られます。
また、諸葛亮(孔明)が軍師として蜀に招かれた当初は「あの若造になにができようか?兄者は今まで苦楽をともにした我らをないがしろになさるのか?」と主君に対し異論を述べたことも有名です。
死に際が似ている二人
■ 死に際が似ている二人
死に際が似ている二人
項羽と関羽(雲長)はとにかく自分の部下に対してはとても優しかった武人として知られています。
項羽が自らの命を懸けて部下の罪の責任をとったことに感化されていたであろう関羽(雲長)も似たようなことをしています。
さらにこの二人は自分の命が危機に瀕している。その状況下にあっても家臣のことを思い続けた上司の鏡です。
四面楚歌で大打撃を食らった後の項羽
■ 四面楚歌で大打撃を食らった後の項羽
四面楚歌で大打撃を食らった後の項羽
項羽は高祖劉邦のとった背水の陣、四面楚歌などの作戦にはまってしまい、敗走します。項羽楚軍に下っていた兵士たちの大半は劉邦に降伏しており、敗走時に連れ立った兵士は古参の兵士を含めものの数百という数でした。
敗走する項羽軍に対し、何倍もの兵力を動員して執拗に劉邦は追撃しました。
項羽はもはや我等もこれまで…と覚悟を決めてどうにか家臣たちを逃がしてやれる手立てはないかと考えます。
野宿する折にも心ここにあらず…という面持ちで考えにふけります。
項羽がなぜここまで家臣に思いを馳せられたのかというと、妻の虞美人が夫の足でまといになることを恐れて最後の晩餐を楽しむ項羽の目の前で剣舞を舞いながら己の首を掻き切って自害をしたからでした。最早項羽にとっては、己の命を守るか部下の命を守るかその2択しかありませんでした。
項羽は野営で酒盛りをしている部下たちの表情をひとりひとり眺めて、このように思うのです。
「自分の本来の仕事は何なのか…?戦に勝とうが負けようが部下たちをより多く家族のもとへ帰すことこそが大将としての役目なのではないか」と。そして項羽は人生最後の作戦を立てるのです。その作戦とは「いかに味方の部下に悟られず避難させること」でした。
翌朝再び撤退を開始する項羽は水路での撤退を選択したということにして、船着き場に船の手配をさせました。
項羽、意地をはり通して部下と別れる
■ 項羽、意地をはり通して部下と別れる
項羽、意地をはり通して部下と別れる
項羽の軍は再び退却し、船着き場につくと食料や物資を優先的に船に積み、残すは人員だけとなりました。当然項羽は先に船に乗るように促されるのですが、「俺は楚の大将である。我が部下の人員を掌握することこそが我が務め。安心しろ、俺は強い。俺にかまわず先に乗れ」と言いました。それでも最後まで項羽のもとを離れなかった人々がいました。彼らはまだ項羽が叔父の項梁の庇護下にいたときからの古参の兵士で項羽の旗揚げ当初からその姿を見守ってきた兵士でした。
そして彼らはこのように言うのです。「項将軍、みなは騙せても我らは騙されません。項将軍はおひとりで漢軍と戦うつもりなのでしょう?我らは一心同体を誓った身。喜んでお供いたしまする」と。
項羽は彼らの言葉にジーンときたのですが、涙をこらえて「貴様ら、たださえ負けたことを恥じとあする俺にこれ以上恥をかかせるつもりか!!」と怒鳴ってひとりひとり川へと投げ捨てました。部下たちはそれでもなお、川から上がろうとします。
ついに項羽は槍を手にして「それ以上近づいたら、俺が貴様を殺す」と脅して涙ながらに部下たちと別れました。
そして、単身劉邦の追撃部隊を迎え討とうと大暴れし、無念にも360度を取り囲まれた項羽は全身を串刺しにされて生涯を閉じました。
味方からの支援を受けられず 絶対絶命の籠城戦を行った関羽(雲長)
■ 味方からの支援を受けられず 絶対絶命の籠城戦を行った関羽(雲長)
味方からの支援を受けられず 絶対絶命の籠城戦を行った関羽(雲長)
関羽(雲長)は呉軍と魏軍から挟撃され、樊城の戦いで敗走しました。それから味方である蜀の同僚たちを頼って援軍や庇護を求めるのですが、「疫病神めっこっちに来るな」と言わんばかりに次々に断られてしまいました。
関羽(雲長)はわずかな手勢を引き連れて麦城という小城に立て籠もりました。関羽(雲長)は自ら城壁の上に立ち、城を落とさんと攻め寄せてくる呉軍の兵士を撃退しながら一カ月も粘りました。
ところが呉軍との兵力差は一目瞭然で刻一刻と城内は疲弊していきました。
自身も3人の息子を育てる関羽(雲長)は自分に配給された食料を前線で戦う若者に分け与えるような優しさを見せていました。
そんな中、関羽(雲長)の部下たちの間で不穏な動きがありました。
麦城から逃亡した兵士
■ 麦城から逃亡した兵士
麦城から逃亡した兵士
関羽(雲長)が城内の夜間巡察をしていたところ、自分の配下の兵士が2人ほど脱走しようとする現場に居合わせました。
彼らはまだ20代で「俺が死んだら故郷にいる母ちゃんが一人になってしまう」、「里に嫁と子供を残して来たんだ、負け戦でみすみす死ねるか」と愚痴をこぼしながら城壁を降りるための縄梯子を下ろしていました。
そこにぬうぅっと現れた関羽(雲長)の姿を見て、その兵士たちはハトが豆鉄砲を食らったような顔で凍りつきました。
すると関羽(雲長)は「貴様ら、子はいるか?」という質問をしました。
そのうちの一人が「うちには2人います」。もう一人は「うちは嫁が妊娠しています」と答えました。すると関羽(雲長)は微笑んで「二人とも今日まで一緒に戦ってくれたことに礼を言う。今後は田をを耕し、なにがあっても必ず家族を守るように」と言葉を残すと、何事もなかったかのうようにその場を後にしました。
関羽(雲長)に降伏を勧める諸葛瑾(子喩)
■ 関羽(雲長)に降伏を勧める諸葛瑾(子喩)
関羽(雲長)に降伏を勧める諸葛瑾(子喩)
呉軍の使者として正式に麦城に参上した諸葛瑾(子喩)は蜀の軍師を務める諸葛亮(孔明)の実兄でもあります。諸葛瑾(子喩)は孫権(仲謀)が関羽(雲長)を欲しがっていることを告げ、降伏を勧めるのですが関羽(雲長)は断固拒否しました。
その際諸葛瑾(子喩)は「関将軍、命を捨てたもうな」と嘆願するのですが関羽(雲長)は「俺は命など持ち合わせておらん。俺の命は30年前のあの日桃園に置いてきた。今は兄者と我が部下のために有効に使いたい」と述べ、孫権(仲謀)宛てに蜀の兵士の助命嘆願書を提出しました。
死ぬための突撃をする関羽(雲長)
■ 死ぬための突撃をする関羽(雲長)
死ぬための突撃をする関羽(雲長)
関羽(雲長)は麦城からうって出て、人生最後の突撃をしました。おそらく関羽(雲長)は必ず負けると踏んでいてあえて城から出たものと考えます。
その際「生きたいものは麦城(ここ)に残れ、死にたいやつは俺について来い!!遠慮するな!!」と命令するのですが、ここまで残った兵士たちは自分の人生を戦いに捧げる真の武人しかいませんでした。
歩兵たちでさえ「武人の命は戦場で散らすもの!!最後まで戦ってこその我が人生」と自ら望んで最後の突撃に参加しました。
関羽(雲長)の軍は玉砕(全滅)しました。関羽(雲長)は潔く青龍偃月刀を地面に突き立て、胡坐をかいて呂蒙(子明)に斬首されました。
まとめ
■ まとめ
まとめ
いかがでしょうか?
どちらも古今東西稀に見る豪傑と謳われた武人、関羽(雲長)と項羽の死に際はとても似ていませんか?ふたりとも不器用ですが、部下のことを思う親心や真心が伝わる最期です。