商業都市・荊州(けいしゅう)があったら…
■ 商業都市・荊州(けいしゅう)があったら…
商業都市・荊州(けいしゅう)があったら…
やはりこれはとても大きいでしょう。
荊州は赤壁の戦いの後、ドタバタ劇の中で劉備(玄徳)が奪取。その後に呉に落とされるのですが、守っていたのは関羽。劉備(玄徳)の義兄弟の一人にして五虎大将軍の一人。そんな関羽に守らせていたのはそれだけ大切な場所だったからに他なりません。
そもそも蜀の本拠地でもある益州は言うなれば地方です。そのため、面積は大きいものの決して経済力に豊かな国とは言い難かったのです。その点荊州はいわば都会。収めることによって経済的な恩恵も多くあったのです。だからこそ蜀だけではなく、魏、呉も欲していたのです。
その荊州が落とされた時、蜀はもはや「守るので精一杯」な国になってしまったと言っても過言ではありません。
もしもですが、関羽が荊州を守り通していればその後の三国志の歴史は大きく変わったことが予想されます。
仮にですが、あのまま関羽が荊州の守備を担当していれば、当然ですが呉と蜀の争いもなく、国力も疲弊していなかったでしょう。
劉備(玄徳)とて呉に攻め込む理由がなくなるのです。
戦力を十分に魏だけに向けることが出来ていれば、或いは歴史が変わっていたかもしれませんね。
強力な経済力を生む広大な平野があれば…
■ 強力な経済力を生む広大な平野があれば…
強力な経済力を生む広大な平野があれば…
なかった訳ではないでしょう。ですがもっともっと広大な平野があれば蜀の命運はまた違ったものになっていたでしょう。山岳地帯ではどうしても農作物も上手く育てられません。
農作物の多さは、当時の国力に直結した部分なだけに、蜀は面積だけを見ればかなりの領土ではあるものの、実際にはそこまで国力は高くはなかったのです。
実際に魏・呉・蜀の国力は3:2:1とも言われています。
もちろんこの数字はあくまでも大まかな目安程度ではありますが、面積だけであればここまでの差が無いのに国力はここまでの差があるのも魏は平原が多いからこそです。そのため面積以上に国力の差が大きなものとなってしまっていたのです。
もしもですが、蜀が山岳地帯ではなく、大きな平野であれば劉備(玄徳)、そして諸葛亮孔明が益州に拠点を構えた際、大きな国力を持ち、その後の歴史の展開も大きく変わっていた可能性もあるでしょう。荊州とは異なり、こちらに関してはあれこれ言った所で変わる部分ではないのですが。
また、諸葛亮孔明が北伐にあれだけ苦労したのは、兵を進めるにせよ山岳地帯を進んで戦を仕掛けなければなりませんでした。
そのため、兵が疲弊したり、そもそも戦は兵士だけではなく兵糧も運ばなければなりません。いわゆる兵站という概念ですが、山岳地帯からの運搬は想像を絶する程大変なものだったでしょう。それだけにもっと平野があれば蜀は天下に近付けたかもしれません。
山岳地帯だからこそ海があったら
■ 山岳地帯だからこそ海があったら
山岳地帯だからこそ海があったら
魏と呉にあって蜀になかったものの一つに海が挙げられます。海があった所で…と思うかもしれませんが、海があれば異国と交流が出来ます。
異国との交流があれば様々な情報や独自技術も手に入ったでしょう。諸葛亮孔明は聡明な人間だっただけに、もしもですが異国からの情報があればそれをヒントに更なる良い物を生み出せたかもしれません。
ですが蜀はいわば内陸。更には山岳地帯です。
お世辞にも様々なものが入ってくるような環境ではなかっただけに、どうしても自分たちですべて開発しなければなりませんでした。
また、陸路よりも水路の方が時間がかからないのは当時の常識です。むしろこれは産業革命によって鉄道が生まれるまでの常識でもありました。
魏や呉は水運を上手く活用していたでしょう。蜀も川が無かった訳ではありませんが、海と川の違いは衰運技術の違いにも現れるのです。
それを承知で益州にその地を求めたとはいえ、魏や呉と比べるとどうしてもその点はお取っている部分です。
奇跡に期待するなら!?大砲されあれば…
■ 奇跡に期待するなら!?大砲されあれば…
奇跡に期待するなら!?大砲されあれば…
これもとんでも理論ですが、蜀は守りやすいエリアでした。繰り返しになりますが山岳地帯ですので攻められた場合、天然の要害があるので守りやすいエリアではあったのですが、北伐など「攻め」に転じていました。そこで必要になってくるのが長距離砲です。
仮にですが、山から放てるような兵器、つまりは現代の大砲のようなものがあればわざわざ兵士自身が動く必要もなくなりますので、相手からは手の届かない所から自分たちだけ攻撃が可能でした。
大砲があれば天然の要害がより強固になるだけではなく、守りながらに攻められるというミラクルが可能だったのですが、いうまでもなく大砲が技術として導入されるのはまだまだ先の話。
諸葛亮孔明クラスの人間がもっといたら…
■ 諸葛亮孔明クラスの人間がもっといたら…
諸葛亮孔明クラスの人間がもっといたら…
諸葛亮孔明がとても優秀であったのは言うまでもありませんが、一人だけ優秀な人間がいても組織としては限界があります。
ですが何人も諸葛亮のような人間がいればまた歴史は変わっていたのではないでしょうか。諸葛亮は劉備が亡くなると、いわば孤軍奮闘のような状況となってしまいました。
寝る間も惜しんで国力増強に励んだと言われていますが、裏を返せばそれだけ人材不足だったからでもあります。諸葛亮孔明以外に出来ないからこそ、彼自身がやるしかなかったのです。
そこでです。
もしも諸葛亮孔明クラスの人間があと何人かいれば、諸葛亮孔明の負担は軽減されていたでしょう。もしかしたら寿命も延びていたかもしれませんが、内政面と軍事面をそれぞれ別で考えることも出来たかもしれませんし、劉禅への教育にも力を入れられたかもしれません。
益州を奪取した頃は劉備(玄徳)だけではなく、関羽や張飛、趙雲といった素晴らしい武将も多く、法正など軍事面を支える人間も多数いました。
ですが次第に人材が薄くなっていき、北伐の頃には孔明自身も人材不足に嘆いた程。だからこそ劉備(玄徳)には注意されていたものの、馬謖を登用せざるを得なかった事情もあるでしょう。北伐も成功し三国のミリタリーバランスを崩すことに成功していたかもしれません。
まとめ
■ まとめ
まとめ
いくつか「これがあれば」というものを挙げてみたのですが、挙げれば挙げる程に蜀が義を倒すのが難しい事実だけが浮かび上がってきました。その中で奮闘した諸葛亮孔明がどれだけ素晴らしい人間だったのかが分かりますが、裏を返せば益州がそれだけ立地の面ではあまり良い場所ではなかったからこそ、劉備(玄徳)が付け入る隙があったとも言えるでしょう。
もしも上に挙げたような条件を揃えたエリアであれば、歴史の中で早々と曹操に攻め落とされていたかもしれませんしね。