蜀の老将コンビ・黄忠と厳顔の老いてますます盛んっぷり

蜀の老将コンビ・黄忠と厳顔の老いてますます盛んっぷり

「老いてますます盛ん」という言い回しの典型例として有名な、蜀の武将・黄忠と厳顔の、主には『三国志演義』における活躍をご紹介します。


老当益壮―老いてますます壮んなり、の語源は

老当益壮―老いてますます壮んなり、の語源は

老当益壮―老いてますます壮んなり、の語源は

 「老いてますます盛ん」という有名な言葉があります。『三国志』で老将・黄忠が劉備に向かって述べた台詞、というと話が早いのですが、違います。この言葉の初出は『後漢書』「馬援伝」。後漢の建国者である光武帝に仕えた馬援という武将の言葉です。原文では「老当益壮」、老いてますます壮んなりと書きます。

 馬援は紀元前14年生まれ、西暦49年没とされていますので、老人と言うに足る年まで実際に生きた人物ですが、後漢書の記録を見る限り、この言葉自体は若い頃、まだ光武帝の部下になる前に言っていた口癖だったようです。なお、この人物、黄忠と並んで五虎大将軍の一人に数えられる、馬超の先祖でもあります。

 ですが今の世の中では、馬援の言葉としてよりも、黄忠の代名詞としての方が、この言葉はよく知られていると言えるでしょう。

黄忠と厳顔の実像ー本当は何歳だったのか?

黄忠と厳顔の実像ー本当は何歳だったのか?

黄忠と厳顔の実像ー本当は何歳だったのか?

 厳顔について正史に記録があるのは、劉備(玄徳)の益州攻めの時に張飛に捕えられ、威勢のいい台詞を吐いて逆に張飛に気に入られた、という逸話程度です。黄忠についてはもうちょっと分かっていることは多いですが、いわゆる五虎将の五人の中では記録は最も少なく、魏の武将である夏侯淵を定軍山で討ち取った、というのが主な事績になります。 

 さて、では『三国志演義』で老将コンビとして描かれている黄忠と厳顔ですが、正史『三国志』その他から見られる実像における、実際の年齢はいくつだったのでしょうか。

 結論から言うと、「分からない」というのが答えです。黄忠の没年はかろうじて判明していて、220年ですが、生年は不詳です。厳顔に至っては生没年ともに不詳です。ですので、特に厳顔については、老将とするのは後世の創作と見てほぼ間違いないでしょう。

関羽に老兵と呼ばれた黄忠

関羽に老兵と呼ばれた黄忠

関羽に老兵と呼ばれた黄忠

 黄忠の年齢については、ほんの少しだけですが手がかりがあります。関羽の言葉とされるものの中に、黄忠を「老兵」であると言っているものがあるのです。

 この台詞が出てくるのは、関羽の生涯からいえば晩年と言うべき時期です。関羽も実は生年は分からないのですが、黄巾の乱の時には既に戦場を駆けまわっていて、黄忠と知り合ったのは何十年も後なわけですから、言っている本人ももう結構な年だったはずです。

 そこから推論すると、関羽よりはかなり年齢が上だったことになり、そうであるならば老人だった、という解釈は成り立ちます。裏付けとしては微妙なところではあるのですが。

厳顔と黄忠のコンビ結成

厳顔と黄忠のコンビ結成

厳顔と黄忠のコンビ結成

張飛と厳顔

張飛と厳顔

張飛と厳顔

 さて、それでは正史は正史、演義は演義ということで、『三国志演義』に見られる老将コンビの活躍ぶりに目を向けてみましょう。

 厳顔は劉璋の家臣でした。劉璋が劉備を益州に招いた時、「自分の身を守るといって、虎を家に入れるようなものだ」と呆れたそうですが、果たして彼の予感は当たり、張飛の軍勢と衝突することになります。

 張飛は厳顔を老将と侮った態度を取るので、厳顔の方も張飛を単純馬鹿と思い込み、計略にかけようとして逆に張飛の伏兵にはまり、捕まってしまいます。ここで、厳顔の堂々たる態度に張飛が敬意を表したので、厳顔は感激して劉備軍に下り、益州攻めの案内を買って出るようになります。劉璋の配下としては名の知れた将であったので、多くの人が戦わずして厳顔に下った、とあります。

 益州が劉備(玄徳)の手中に収まった後、厳顔はその前将軍の地位に任ぜられました。

漢中を巡る戦い

漢中を巡る戦い

漢中を巡る戦い

 益州を支配下に収めたのち、劉備(玄徳)は曹操との間に、漢中を巡っての戦いを勃発させます。瓦口関というところを、魏の将軍・張郃が守っていました。

 軍議の席で、黄忠が進み出、張郃を自分が討ち取ってくる、と主張しました。お年を考えられたら如何か、とたしなめる人があったので、黄忠は「なんの、まだ三人張りの弓を引ける」と言い放ち(なお、黄忠は弓の達人とされています)、厳顔を副将に指名しました。これが、二人の実質的なコンビデビューです。

 ちなみに魏の武将たちも二人が年寄りなので侮って笑いものにしますが、二人は逆に「若い者に目に物見せてやりましょう」と意気投合、張郃に黄忠が一騎打ちを持ちかけ、20合ほども打ち合いながら、その隙に厳顔が背後から奇襲を仕掛け、散々に魏軍を破りました。

 また、援軍としてやってきた韓浩(かつて黄忠が仕えていた長沙太守韓玄の弟)と夏候徳(夏候淵の甥の一人)の二人は、火計に遭って混乱したところでそれぞれ黄忠・厳顔の手によって討ち取られたのでした。

コンビ解散?そして黄忠戦場に死す

コンビ解散?そして黄忠戦場に死す

コンビ解散?そして黄忠戦場に死す

 で、厳顔がこの後どうなったのかですが、『三国志演義』においてもまったく登場しないので、分かりません。ただ、のちに夷陵の戦いにおいて黄忠が例によって「年寄りは役に立たない」みたいなことを言われて怒って出撃していくシーンがあるのですが、この時の台詞がこうあります。

 「陛下(劉備のこと)は老人は役に立たないとおっしゃられたそうですが、それなら一つ手柄を立てて敵将を討ち取ってご覧に入れましょう」。しかしこの時、厳顔は姿を見せていないのです。

 老人コンビは解散してしまったのでしょうか。喧嘩別れした様子もないですから、厳顔は先に病気か何かで死んだのかもしれません。でなければ、この場面、この文脈で、その場にいたなら絶対に黄忠は厳顔を例によって連れて行ったものと思われます。

 さて、この時は劉備のはからいによって関羽・張飛の子である関興・張苞が加勢につけられました。

関羽と同じく馬忠に破れた黄忠

関羽と同じく馬忠に破れた黄忠

関羽と同じく馬忠に破れた黄忠

 黄忠は潘璋という呉の武将と一騎打ちをします。なお、この時、潘璋は関羽から奪った、その愛刀であった青龍刀を用いていました。一騎打ちでは黄忠が優勢で、潘璋は逃げていきます。

 しかし追いかけていくところで伏兵に遭い、黄忠は肩に矢を受けてしまいました。弓を射たのは、以前に関羽を生け捕りにしたのと同じ武将、馬忠でした。

 関興・張苞によってその場からは落ち延びますが、結局黄忠はその傷がもとで死にます。なお、死の場面で劉備が見舞いにやってくるのですが、そこで黄忠は自分の年を75歳であると言っています。たまにここから逆算して黄忠の生年を求めようとする人がいますが、演義による創作であり、根拠となるものではありませんので注意しましょう。

厳顔の墓

厳顔の墓

厳顔の墓

 厳顔についてはもう語れることはほとんど残っていないのですが、彼の墓とされるものについて少し。厳顔の墓である、と称せられるものは二つあります。一つは四川省巴中市の、厳顔墓と称せられる場所です。といっても、明らかに後世に建てられた碑がひそやかに建っているだけで、何の根拠があってここが墓だと主張されるのかは分かりません。

 もう一つ、こちらは近年になって見つかったものですが、湖北省鄂州市で三国時代の墓が発掘されこれが厳顔とその一族の墓所である、と一部で主張されたことがありました。

 しかし、こちらも根拠らしい根拠があるわけでもなく、そして証拠らしい証拠が見つかるでもなく、眉唾ものとして扱われているというのが現実のようです。

 というわけで、三国志の老人コンビ、黄忠と厳顔のお話でした。


この記事の三国志ライター

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