三国志・老黄忠はなぜ五虎大将の一人に選ばれたのか

三国志・老黄忠はなぜ五虎大将の一人に選ばれたのか

蜀の五虎大将の一人に数えられる黄忠。老将だったこと以外はあまり知られていません。なぜ老将で新参者の黄忠が五虎大将に選ばれたのか、その理由に迫ります。


最初は荊州の牧・劉表の配下

最初は荊州の牧・劉表の配下

最初は荊州の牧・劉表の配下

黄忠、字は漢升。荊州南陽郡の生まれです。父親の名前も記録されておらず、どのような人生を歩んできたのかほとんどわかっていません。三国志演義に記されている年齢からすると148年以前の生まれということになり、曹操よりもはるかに年上になります。
仮に南陽郡にずっと住み続けていたのであれば、黄忠が40歳ごろには南陽郡は袁術の支配下に入っています。もしかすると袁術の配下として董卓軍と戦っていたのかもしれません。
黄忠が正式に登場するのは荊州の牧である劉表の配下としてです。中郎将に任じられています。家柄で出世したわけではなさそうですので、黄忠は現場叩き上げの武将だったのではないでしょうか。それなりに武功があったはずです。
劉表の血族で、猛勇で知られた劉磐とともに長沙郡の攸県の守備についています。劉磐の武勇を隣国の孫策は恐れていたといいます。そこから推測すると、この話は孫策が暗殺される200年以前の話になります。

曹操の配下となる

曹操の配下となる

曹操の配下となる

208年に劉表が病没します。後継は次子の劉琮でした。長子の劉琦との家督相続は揉めていましたが、最終的には外戚の蔡瑁が押し切ったようです。長沙にいる黄忠にとっては中央の事情はよく把握できていなかったことでしょう。
8月に劉琮が荊州牧を継ぎますが、9月には曹操に降伏しています。そして10月には赤壁の戦いへと雪崩れ込むのです。
曹操が荊州を支配すると、劉磐は官を辞して下野します。長沙の太守であったのは韓玄でしたが、はたしてもともと長沙の太守であったのか、曹操に送り込まれたのかは不明です。
黄忠はそのまま韓玄に従っています。曹操によって仮の裨将軍に任じられたと「正史」には記されています。
つまり黄忠は一時期の間は劉琮の配下であり、降伏したためにそのまま曹操の配下になったわけです。ちなみに同じ五虎大将に選ばれる関羽も一時期は曹操の配下でした。

劉備(玄徳)の配下となる

劉備(玄徳)の配下となる

劉備(玄徳)の配下となる

赤壁の戦い後、荊州南部の統制まで手が回らなくなった曹操の間隙を突いて、劉備(玄徳)が荊州南部の四郡を侵略します。長沙の攻略を命じられたのは関羽でした。このとき関羽と一騎打ちを演じたのが黄忠です。三国志演義ではこのときの黄忠の年齢がだいたい60歳としています。還暦ですね。そんな老将があの猛将・関羽と互角の戦いをするのです。関羽も驚いたことでしょう。互いの武勇を尊敬しあい、敬愛の情を抱いたようです。奇しくももと曹操の配下同士になります。
最終的に長沙は魏延の内応によって落城しました。
このときから黄忠は劉備(玄徳)の配下の将となるのです。劉備(玄徳)は関羽・張飛・趙雲に続き、黄忠、魏延といった猛将を獲得します。そしてここから劉備(玄徳)は領地、人材ともに拡大していくのです。

益州侵略

益州侵略

益州侵略

黄忠が活躍したのは大きく分けて二つです。
その一つが益州への侵攻になります。曹操や張魯の影におびえる益州牧の劉璋は、同族である劉備(玄徳)に援軍を求めます。劉璋の配下で張松、法正、孟達らは初めから劉備に内応する予定でした。劉備も領地拡大の目的で益州に向かうのですが、関羽・張飛・趙雲が一緒だと劉璋に警戒される懸念があり、新参の黄忠、魏延を従えていきます。
最後には張飛や趙雲、さらには諸葛亮まで益州の侵略に出向くことになるのですが、黄忠の活躍は素晴らしく、常に一番先に敵陣を攻略していたと記されています。
足掛け約3年という月日をかけて益州を攻略した劉備(玄徳)は黄忠を討虜将軍に任じました。これはこれで大出世なのですが、これまで劉備(玄徳)を支えてきた関羽・張飛・趙雲の功績には届きません。
しかし黄忠はそれらの英雄たちと肩を並べて五虎大将に選ばれています。なぜでしょうか。

定軍山の戦い

定軍山の戦い

定軍山の戦い

三国志の中でも有名な激戦に「定軍山の戦い」があります。これが黄忠活躍の二つ目になります。219年の曹操軍VS劉備軍の戦いです。黄忠は三国志演義の年齢で考えるとほぼ70歳です。
215年にはすでに漢中を支配していた張魯は曹操に降伏しています。前年に益州を征服していた劉備(玄徳)でしたが、この漢中は益州の喉元であり、曹操に奪われるわけにはいかない要所でした。張飛や馬超らがしきりに漢中攻めを行っています。
そして219年1月、劉備軍にとって好機が訪れました。曹操軍の張郃が苦戦したために、その援軍として総司令官の夏侯淵は兵を分けたのです。劉備軍の軍師・法正はこのチャンスを逃すものかと進言し、劉備(玄徳)は黄忠に夏侯淵本陣攻めを命じます。
黄忠は決死の逆落としで敵陣に突撃し、見事に夏侯淵の首を討つのです。夏侯淵といえば曹操の旗上げ以来の重臣です。曹操の血族でもあり、その名は全国に知れ渡っていた名将でした。夏侯淵戦死の報は衝撃的なニュースとして全国を駆け巡ります。

老黄忠

老黄忠

老黄忠

実際に黄忠がどれほど高齢の老将だったのかは三国志正史には記されていません。さすがに70歳で猛将・夏侯淵を討ち取るのは無理があり過ぎですので、本当はもう少し若かったのではないでしょうか。
ちなみに当時の劉備軍で曹操相手にここまでの結果を出した武将はいません(直後に関羽が于禁や龐徳を倒しますが)。黄忠の武功は劉備軍随一になったのです。黄忠は征西将軍に出世し、さらに後将軍に任じられました。
五虎大将という称号も実は三国志演義の虚構なのですが、正史において関羽、張飛、馬超、趙雲と並んで列伝に記されているのは事実です。
現在では黄忠のように老いても活躍することを、「老いて益々壮んである」として「老黄忠」と尊敬の念を込めて呼びます。
個性豊かな劉備(玄徳)の陣営にあって、老人ながら最強レベルを誇った黄忠はインパクトが大きいですね。

まとめ・黄忠の死

まとめ・黄忠の死

まとめ・黄忠の死

正史では220年に病没している黄忠ですが、三国志演義ではもう少しだけ長生きしています。そして222年の「夷陵の戦い」に参加しているのです。関羽の敵討ちのために劉備が孫権を攻めて大敗した戦いです。黄忠は劉備(玄徳)に年寄り扱いされたことを憤慨し、激烈な突撃を孫権軍に対し繰り返します。しかし最期は力尽きて討ち取られました。見事な武者ぶりというほかありません。さらに三国志演義ではこのとき黄忠は75歳であったと記しています。まさに老黄忠の真骨頂でした。
ちなみに子は早世しており、ここで黄忠の家は断絶したとも伝わっています。


この記事の三国志ライター

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