「力と力のぶつかり合い」三国志の一騎打ち名場面集4選

「力と力のぶつかり合い」三国志の一騎打ち名場面集4選

三国志を語る上で武将と武将が1対1で正々堂々と槍や刀、戟を打ち合って戦いを繰り広げる一騎打ちはどうしても欠かすことができません。 三国志では一騎打ちがくたびも出てきますが、その中からこれはと思う一騎打ちをピックアップしました。


汜水関の戦い 華雄VS関羽(雲長)

三国志演義第5回に関羽(雲長)が董卓軍の大将華雄を斬ったという話が登場します。劉備(玄徳)率いる部隊は袁紹(本初)を盟主とする連合軍の一員として汜水関で華雄の軍と対峙しました。
華雄は猛将で知られ、連合軍から鮑忠が戦いを挑んだものの、一刀のもとに斬り捨てられてしまいました。次に連合軍からは勇将と名高い兪渉と大斧の達人潘鳳らが戦いを挑みましたが、華雄の敵ではありません。2人とも簡単に討ち取られてしまいました。連合軍の陣営ではなかなか意気が上がりません。そこで、名乗りを上げたのが当時はまだ無名だった関羽(雲長)です。
「私が華雄の首をここに持って参りましょう」と威勢よく声を上げました。曹操(孟徳)は関羽(雲長)を戦場に送り出す前に熱燗を一杯振舞おうとするのですが、関羽(雲長)は「注いでおいてくだされ。すぐに戻ります。」と言って、馬に飛び乗りました。

一太刀で華雄を斬り殺す

華雄の前に現れた関羽(雲長)は声高らかに挑発します。「貴様が華雄かっ。礼儀や道理も知らぬ者に仕えるとは憐れなやつよ…。」華雄は売り言葉に買い言葉で「そういうお前はどこのどいつだ?貴様猛将華雄の名を聞いて現れるとは命知らずのすることよ。」と問答を繰り広げた後、「いざっ」と声をかけて馬蹄を踏みしめました。
関羽(雲長)は大きく振りかぶって自分を切り伏せようとする華雄を目にも止まらぬ速さで青龍偃月刀を切り上げたった一太刀で猛将華雄を斬り殺しました。
まもなく華雄の首を手に提げて連合軍の陣営に関羽(雲長)戻ると、群雄たちは目を丸くして華雄の首を見つめていました。
関羽(雲長)は袁紹(本初)の前に華雄の首を投げると、「これが華雄の首です」と言って曹操(孟徳)が注いだ熱燗を飲み干しました。その熱燗はまだ温かったと言われています。

白馬の戦い 顔良VS関羽(雲長)

関羽(雲長)が劉備(玄徳)と散り散りになり、曹操(孟徳)のもとにいるときのことです。袁紹(本初)がが顔良を大将にして白馬県に侵入しました。かつて呂布の大将を務め、曹操(孟徳)の幕下にあった宋憲が顔良に一騎打ちを挑んだものの、たちまち斬り殺されました。続いて、仲間を殺された元呂布軍の大将だった魏続が顔良に打ちかかっても太刀打ちできずに身体を真っ二つにされてしまいました。
やむなく曹操(孟徳)は関羽(雲長)を呼び寄せます。関羽(雲長)は青龍偃月刀を持ち、曹操(孟徳)から贈られた赤兎馬に跨って登場しました。
袁軍の様子を見ると、衣笠の下に薙刀を持って馬に乗る男の姿を確認します。「あれが顔良だ」と教えられた関羽(雲長)はためらいもなく敵陣めがけて突撃しました。
袁軍の兵士は鬼のような形相の関羽(雲長)に恐れおののき、大波のように2つに分かれて真ん中に道ができます。関羽(雲長)は大軍の波を掻き分けて真っ直ぐに顔良に向かっていくと青龍偃月刀を一閃して顔良をたった一太刀で斬り倒してしまいました。

関羽(雲長)が顔良を斬ったのは実話

三国志演義は実話が7割、フィクションが3割の物語であると言われています。関羽(雲長)が顔良を斬り殺したドラマチックな話もフィクションであると思われがちですが、これは正史三国志にも「大軍の真っただ中で、顔良を突き刺し、首を切り取って戻ってきた」とあることから実話である可能性が高いです。関羽(雲長)の強さがよくわかるエピソードのひとつです。

潼関の戦い 許褚(仲康)VS馬超(猛起)

虎痴と錦馬超の異名を持つ許褚(仲康)と馬超(猛起)の一騎打ちも三国志演義で5本指に入るほどの名場面です。許褚(仲康)は信長が8尺もある偉丈夫。怪力の持主で牛の尾を掴み100歩以上引きずり歩いたとも言われています。
一方の馬超(猛起)は曹操(孟徳)から「呂布にも劣らぬ勇者」と評価した怪力の持主です。まさに横綱同士の夢の対決と言ってもよい三国志のドリームマッチが実現したのが潼関の戦いにおける一騎打ちです。
最初は馬に乗って、100合余り打ち合ったものの、馬の息が上がったので馬を取り換えるとさらに100合打ち合いました。その後、許褚(仲康)は急いで自陣へ帰ると鎧兜を脱ぎ捨て裸になりました。馬超(猛起)は許褚(仲康)に渾身の一突きを浴びせましたが、なんと許褚(仲康)はそれを受け止めて力を込めると馬超(猛起)の槍は真ん中でポキリと折れてしまいました。やがて二人は折れた槍を半分ずつ握って殴り合うという肉弾戦になりました。そうしているうちに両軍の兵士が殺到したことで勝負の決着はつかず、痛み分けとなりました。

史実では許褚(仲康)のひと睨みで決着した一騎打ちだった

正史三国志では潼関の戦いにおける許褚(仲康)と馬超(猛起)の一騎打ちは超短期決戦であると書かれています。なんでも曹操(孟徳)が一騎打ちの将に許褚(仲康)を指名すると、許褚(仲康)が目をカッと見開いて睨みつけたので、馬超(猛起)は何もできず、そのまま引き上げたとあります。眼力勝負では許褚(仲康)の圧勝。残念ながら合計200合以上の打ち合いと半分に折れた槍による殴り合いの肉弾戦は三国志演義のフィクションでした。

定軍山の戦い 夏侯淵(妙才)VS黄忠(漢升)

定軍山の戦いは三国志演義中盤に出てくる戦いです。その主役を務めるのが曹操(孟徳)の親戚で古参の配下である夏侯淵(妙才)と蜀の老将の黄忠(漢升)です。
定軍山の戦いは魏と蜀が争った戦いですが、夏侯淵(妙才)と黄忠(漢升)の一騎打ちの末に黄忠(漢升)が勝利し、その勢いに乗って蜀が大勝しました。
三国志演義によると、一騎打ちの火蓋が切られたのは両軍が対峙したときに黄忠(漢升)が放った矢が夏侯淵(妙才)の息子に的中し、怒った夏侯淵(妙才)が黄忠(漢升)に一騎打ちを申し込んだことで始まります。
夏侯淵(妙才)と黄忠(漢升)は当初20合ばかり斬り合いましたが、なかなか決着がつきません。やがて引き上げの合図のドラが鳴らされたため、二人とも馬を切り返し、この日は引き分けに終わりました。
翌日、蜀軍は定軍山の正面の山を制圧し、頂上に黄忠(漢升)が立ちました。魏軍はさんざんあざけ笑いましたが、蜀軍は動きません。数時間経過し、魏軍の士気が下がったころを見計らって参謀役の法正が攻撃の合図を出しました。蜀軍は鬨の声を上げて、一斉に山を下りました。
黄忠(漢升)が目指すのは夏侯淵(妙才)ただ一人。まっしぐらに挑みかかると、応戦する暇も与えず、夏侯淵(妙才)を頭から肩まで真っ二つにしました。総大将が討たれたことで魏軍は総崩れとなり、バラバラになって敗走を開始しました。

まとめ

一騎打ちは武将と武将がただ純粋に己の力と力をぶつけ合う戦いです。複雑な作戦や用兵などはなく、シンプルに己の武器を扱う攻防の技術と相手に負けまいとする不屈の精神が一騎打ちには込められています。
古くから受け継がれる三国志の一騎打ちの場面がフィクションであれ実話であれ色あせずに今なおこうして我々の心を掴んで離さないのは、正々堂々勝つも負けるも己の腕次第という覚悟のもと、家や軍の代表者として、そして国の代表者としてみんなの期待を一身に背負って一騎打ちを挑む武将たちの姿に誰しもが憧れを抱き、自分もこのような人になりたいと思わせてくれるからではないでしょうか。

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