冷静に判断して視野が広い程昱
■ 冷静に判断して視野が広い程昱
冷静に判断して視野が広い程昱
程昱(仲徳)は大柄で、身長は190cmを超える巨漢で、髭を蓄えていたころから、周囲には驚異的に見えたといいます。程昱の住んでいた東阿県に黄巾の乱の影響が出始めると、県令は現場を離れてそのまま場外に逃げ出してしまいます。城のトップが逃亡したことを受け、ますます混乱を極めてしまい、民衆や役人は家族とともに山へと避難をしていきました。
そんな中、程昱は一人冷静に周囲を観察し、首謀者が城を掌握していないことを察します。程昱は城内の豪族たちを捕まえて逃亡した県令を探して城を守れば勝てると言い放ちます。程昱の気迫に押されたかのように豪族たちは同意し、城外に逃げた民衆と役人たちも計略をもって城内に引き入れ、程昱は県令も探し当てます。こうして役人や民衆を率いた程昱によって城が守られていきました。
先を見通す目を持つ
■ 先を見通す目を持つ
先を見通す目を持つ
河北の一帯を担っていたのが袁紹と公孫サンの2人でした。両者の対立が始まると、周辺の有力者たちはどちらに付こうか迷ってしまう者もいました。程昱は故郷のエン州(中国東部)刺史を務めていた劉岱から相談を受けると、袁紹に付くべきであると述べています。その通りに袁紹が勝利すると、改めて劉岱から士官するように勧められますが、程昱は拒否しています。
劉岱が戦死すると、実力者の曹操が招かれてエン州を支配していきます。曹操は程昱の噂を聞きつけて士官を誘うと、程昱はあっさりと承諾しました。故郷の人々は程昱の行動に疑問を持ちますが、程昱の視線には劉岱では混乱を収める力は無く、曹操ならば飛躍を遂げるに違いないと映ったのでしょう。程昱は曹操に気に入られて県令代行を任されています。
曹操配下で活躍
■ 曹操配下で活躍
曹操配下で活躍
曹操が徐州に遠征すると、留守を任されていた陳宮と張バクが呂布を引き連れて反乱を起してしまいます。幕臣の夏候惇が捕えられ、エン州の大部分が呂布を恐れて反乱に参加しました。しかし、荀彧と程昱が籠る3城だけは反乱に加わらず、程昱は攻撃してきた陳宮を撃退しました。その結果、曹操が帰還するまで3城を守り抜きました。
曹操は一時期呂布に押され気味になり、袁紹に家族を人質に差し出すように促され、その通りに実行しようと決意しますが、程昱は曹操を説得して押しとどめました。
洛陽を追われた献帝に対して、程昱は曹操に献帝を迎え入れるように進言しています。献帝が許昌に遷都すると、エン州の都督として治安に専念しました。同時期、劉備が呂布の裏切りに遭って曹操のもとへ身を寄せていましたが、程昱は参謀の郭嘉とともに劉備を今の内に暗殺するように提案しています。
曹操は聞き入れませんでしたが、身の危険を感じた劉備は曹操の元を離れて、袁紹に近づきます。後の展開を考えるとこの案を実行していれば、もしかしたら曹操は天下を統一できていたのかもしれません。
袁紹にも怯まない程昱
■ 袁紹にも怯まない程昱
袁紹にも怯まない程昱
袁紹が大軍で南下してくる知らせが入り、通過点の程昱の守備していた城兵はわずか700名と少数で、間違いなく落城の危機にありました。曹操は心配し、2000名の増援を派遣しようとしますが、程昱は何と断っています。
袁紹の自尊心から、わずかの手勢しかいない小規模の城は格好つけて見逃すであろうと推測しています。万一、援軍が来れば相手も必死に戦う恐れがあるからです。程昱の読み通りに袁紹はまったく攻撃をしてこず、曹操は程昱の度胸に感嘆しました。
曹氏2代に評価を受ける
■ 曹氏2代に評価を受ける
曹氏2代に評価を受ける
程昱は晩年になっても先見の明があり、曹操が荊州を支配したころ、劉備(玄徳)は孫権と同盟を結ぶために呉へ向かいましたが、多くの幕臣は孫権が劉備(玄徳)を殺してしまうと述べていました。しかし程昱は、今の劉備(玄徳)を殺すのは不可能であるとして、孫権と劉備(玄徳)は同盟を結ぶことを予測しています。その通りになり、孫権と劉備(玄徳)は連合して赤壁の戦いで曹操の大軍を破っています。
曹操が涼州の馬超討伐に向かうと、曹丕は留守を任され、程昱はその傘下に入りました。曹操の居ない隙をついて、河間で反乱が起こりますが、程昱は冷静に対処し、将軍の賈信を派遣して鎮圧しています。反乱軍が降伏を願い出ており、包囲された後の降伏は処刑するのが従来の法律で、圧倒的多数の中、程昱は反対しています。
処刑するときと時代が違い、今回は自国の領土内でもあり、降伏以外に生き残る道はありませんでした。程昱は処刑するにしても曹操に確認を取ってからの方がいいと曹丕に訴えます。
会議では処刑するべきとの意見が多く、程昱は黙り込みました。不思議に思った曹丕は程昱を陰で呼び、他に言い足りないことがあれば述べるように促します。程昱は「今回は緊急でもなく、事態が急変するわけでもない。強行で処置を急がなくても大丈夫」と言い、曹丕は程昱の言葉に感心し、曹操の判断を仰ぐことにしました。
曹操は程昱の言う通り、処刑することを許さなかったので、勝手な判断をしなかった曹丕も程昱に頭が上がらなかったといいます。
老臣として引退を申し出る
■ 老臣として引退を申し出る
老臣として引退を申し出る
曹操は程昱に対して、呂布に敗れた後にもしも家族を差しだしていたら、現在の地位は無かったといい、程昱のおかげで今日の自分があるとまで述べて感謝しています。程昱の縁者は一様に祝宴を開いて盛大に祝いましたが、程昱は満足感以上のことを望むのは良くないことであり、もう引退するときだと感じ、曹操に兵権を返上して引退を申し出ています。
多くの成功者は出世を勝ち取り、望むべく地位にまで来たら諌言を受けてしまい、処断される人物もいます。確かに程昱は強情さが仇となり、周囲の人と意見の衝突が多いことから謀反の疑いをかけられることも少なくありませんでした。しかし、最後まで曹操の信頼は変わることなく続いていました。
これは曹丕が後継者になった後も同じで、程昱は復職して三公に推薦される矢先に80歳で亡くなりました。曹丕は父の代からの功臣で、自分と曹操の間を取り持った程昱に感謝し、涙を流していたといいます。
魏では評価がかなり高い程昱
■ 魏では評価がかなり高い程昱
魏では評価がかなり高い程昱
魏王朝での程昱の評価は高く、曹丕の跡を継いだ曹エイは魏の功臣を選ぶ際、夏候惇や曹仁といった一族出身者に続いて程昱を選びました。祀られた功臣は以降も多く選ばれていますが、知将として最初の3人に選ばれた程昱は、荀彧や荀攸、郭嘉といった武将よりも評価が高かったのが見て取れます。
三国志演義では徐庶の引き抜きで母親を人質に取るエピソードがあることから、曹操の悪役ぶりに貢献する幕臣として描かれており、今日では荀彧や郭嘉らに後れをとっているイメージが先行しています。しかし、これらのことを踏まえると、程昱がいかに魏国で評価され、また貢献していったのかがうかがえます。