規律正しく法を裁く
■ 規律正しく法を裁く
規律正しく法を裁く
満寵は190cmほどあったと云われており、当時ではかなり大柄であったと伝えられています。満寵は18歳の時には県の役人に就いており、私兵を率いて暴れまわっていた人物を捕えると、その相手は委縮してしまい、二度と乱暴をすることはなかったといいます。
また、県令を代行したときには、上級役人の横暴に憤り、その役人を逮捕して即座に取り調べました。当然ながら報復の恐れがあるものの、満寵は自分の行いに恥じることなく、自ら官職を捨て、故郷へ帰っています。
曹操配下になっても変わらず厳格な態度を貫く
■ 曹操配下になっても変わらず厳格な態度を貫く
曹操配下になっても変わらず厳格な態度を貫く
満寵は曹操に仕えると、ここでも法に厳しい姿勢を貫きます。あるとき、古参の武将であった曹洪の配下が、権威を盾にして横暴な略奪を行っていました。満寵は躊躇せずにこの人物を逮捕しています。曹洪は曹操へと働きかけを行い、配下を解放しようとしましたが、満寵はその一報を受けると、即座に処刑しています。一族の配下を許可なく処刑してしまった満寵は、通常ならば恨みを買って取り押さえられるところですが、曹操は逆に満寵の度胸と決断力を賞賛しています。
献帝の側近であった楊彪は曹操に恐れられており、袁術と婚姻関係(妻が袁術の妹)があったため逮捕に至りました。満寵は幕臣の荀彧や孔融に手心を加えるよう依頼をされましたが、満寵はこれを聞かず規則に則りに訊問しています。さらに曹操には確かな罪を明確にしてこそ処罰するべきであると直訴し、確かな理由もなかった曹操は楊彪の罪を許しています。
軍功を挙げていく
■ 軍功を挙げていく
軍功を挙げていく
曹操が飛躍するきっかけになった官渡の戦いの頃、満寵は袁紹の郷里である汝南の太守を務めており、残党を滅ぼして治安の安定を図り、農耕に励みました。満寵は順調に出世を重ねていき、激戦であった荊州の樊城に赴任しました。ここでは曹仁の参謀役として期待され、相手は劉備(玄徳)の配下で歴戦の猛者【関羽】でした。
219年、関羽が攻めてくると、援軍に訪れた于禁ら七軍が洪水によって壊滅状態に陥り、曹仁たちが籠る樊城も水没していきました。関羽は水軍を使って兵糧攻めを行っており、食料も付きかけていました。曹仁に関羽へ降伏するよう進言した者もいましたが、満寵は水の流れを読み、水攻めも長くは続かないだろうと推測して曹仁に抗戦を続けるよう進言しています。曹仁は満寵の意見を採用すると、ほどなく徐晃が援軍として駆付けて関羽を打ち破り、樊城は解放されました。
死力を尽くした呉との戦い
■ 死力を尽くした呉との戦い
死力を尽くした呉との戦い
曹丕(文帝)の時代にも重宝されており、224年には前将軍にまで出世し、呉との戦いでは確実に呉軍を打ち破る活躍を見せていきます。228年には魏の都督を務めていた曹休が総大将として、司馬懿や賈逵を引き連れて総勢10万もの大軍で呉に侵攻しました。しかし、曹休は呉軍の偽りの投降に騙されており、呉の大都督である陸遜によって急襲されて大敗を喫しています。
この石亭の戦い後、曹休の後任として満寵が赴任し、以後は呉への対応を強いられました。満寵は汝南からの転任となり、多くの民衆や兵士が後を追うようになり、満寵の仁徳が知らされることとなりました。勝手に付いていったものは、罪にも問われることになりましたが、朝廷によって満寵は専任の親衛隊を引き連れることと、離れた民衆や兵士たちは罪に問われないことが下されました。
これには魏にとって石亭の敗北が大きく、満寵に期待するところが大きかったことも挙げられます。呉にとっては逆に司令官が交代したことを受けて進軍を開始しますが、満寵は名将であることから、容易には攻めることが難しくなりました。
合肥での活躍
■ 合肥での活躍
合肥での活躍
230年には呉軍が攻めてきますが、満寵は侵攻に備えており、呉軍は撤退していきます。しかし、これは孫権再度の罠でもあり、偽装の計略でした。満寵は朝廷から撤退の勅令がくだりますが、満寵はその計略を読んでおり、備えを怠ることはしませんでした。孫権は再度侵攻していきますが、満寵はこれをよく防いで呉軍を退却させています。
翌231年には、呉の武将が投降してきました。満寵は偽りの投降であると見抜き、出迎えたいという将軍の王リョウを諌めます。しかし、満寵は都から急きょ呼び出しを受けて戦地を離れることになります。これは満寵が邪魔になった王リョウの策略でしたが、満寵は軍の担当者に王リョウに兵士を与えないように厳命して都に戻りました。
王リョウは勝手に兵を持ちだして、自分の配下に迎えに行かせます。すると満寵の指摘したとおりに、その武将に裏切られて呉軍の夜襲を受けてしまい、王リョウは大敗を喫してしまいます。満寵の冷静に戦況を見る眼は確かなものがあったのは事実といえるでしょう。
合肥に新城を建築
■ 合肥に新城を建築
合肥に新城を建築
孫権が毎年のように合肥に水軍を用いて侵攻しているのを受け、満寵は立地の悪さを指摘し、233年に新たな新城を築くことを訴えます。反対派の意見も出ますが、満寵は兵法と現場の体感してきた戦略をもって主張を重ね、皇帝の曹エイを動かします。
合肥新城が急ピッチで築かれると、間もなく呉軍が攻めてきました。孫権は合肥新城が岸から遠いのを受けて、上陸をせずに待機していました。孫権の動きから退却するかと思われましたが、満寵は孫権が必ず急襲してくるに違いないと読み、伏兵を用意して待ち伏せを行っています。
孫権は意を決して上陸し、合肥新城を目指しますが、満寵が用意した伏兵によって攻められて敗れ、退却を余儀なくされています。
合肥を守り抜く
■ 合肥を守り抜く
合肥を守り抜く
234年には蜀の諸葛亮(孔明)によって北伐に合わせて、孫権は陸遜を引き連れて大軍で合肥新城に攻めてきます。諸葛亮には司馬懿が対応し、孫権・陸遜には満寵があたりました。満寵は合肥新城へ救援に行くと、わずか数十人の義勇兵を募って、呉の攻城兵器を焼き払い、孫権の甥を射殺する活躍を果たしました。
西では諸葛亮が陣中で没して蜀軍が退却し、東では皇帝の曹エイが自ら援軍を率いて駆け付けるなど、総力戦となりました。満寵は曹エイの援軍を待たずに孫権を退却させています。
魏に大きく貢献していた満寵
■ 魏に大きく貢献していた満寵
魏に大きく貢献していた満寵
満寵は孫権の軍を防ぎ、合肥を守り抜くことができました。諸葛亮の北伐が成功しなかったのも、同時侵攻していた呉軍が満寵によって撃退されたことも要因としてあるのでしょう。満寵は魏に対して多大な貢献を残し、また誰に対しても公明正大で法に厳しい姿勢を貫きながら傲慢な性格ではなかったことから、人民からも多く慕われていました。魏の建国に欠かせない人物だったのは間違いありません。