曹操、思わぬ敗北! どうなる張遼の未来?
■ 曹操、思わぬ敗北! どうなる張遼の未来?
曹操、思わぬ敗北! どうなる張遼の未来?
華北を平定した曹操は、本格的に南方へ進出します。208年には、荊州(けいしゅう/注)を支配していた劉琮(りゅうそう)を降伏させました。その勢いに乗って江南を攻め、孫権(そんけん)・劉備(りゅうび)の連合軍と戦いますが、船団が火攻めにあい敗退します(赤壁の戦い)。
(注)荊州(けいしゅう)……現在の湖北省を中心とする一帯。当時は群雄のひとり劉表(りゅうひょう)が支配していたが、その死後にあとを継いだ息子(劉琮)は曹操に降伏する。
(注)江南(こうなん)……長江下流の南岸地域。後に呉王朝を建国する孫権が支配していた。
赤壁での敗北は、曹操の中国支配を少なからず動揺させました。これまで仕方なく曹操に従っていた武将たちのなかには、「いまこそ曹操を倒すチャンスだ!」と考え、反乱する者も出てきたのです。
思わぬところで足元をすくわれた曹操軍団。ピンチを救うのは、やはり張遼でした。
反乱に断固として対処
■ 反乱に断固として対処
反乱に断固として対処
こうして曹操に反旗をひるがえした武将のひとりが、陳蘭(ちんらん)でした。彼はもともと、後漢末の群雄のひとり袁術(えんじゅつ)に仕えましたが、その後独立し、山賊となって暴れまわっていました。しかし曹操の勢力が大きくなると、山賊稼業にピリオドを打って、大人しくしていたようです。
こうした人物ですので、世の中が乱れれば、また暴れたいと思っているわけです。曹操が赤壁で敗れたのを機に、彼は異民族とともにふたたび挙兵します。さらには呉の孫権の支援もとりつけます。
曹操は張遼らの有力武将を、乱の鎮圧に派遣しました。対する陳蘭は山にこもって抵抗する構えをみせます。このとき陳蘭を助けるべく、孫権の援軍も現地へ向かっていたのです。
これは曹操陣営にとってはやっかいな事態でした。陳蘭のみならず、異民族まで加勢しているのですから、地域の安定にとっては重大な危機です。さらには鎮圧にもたついていると、孫権の介入をまねき、反乱が大きく拡大するリスクがあります。とにかく陳蘭の乱は、傷口が広がらないうちに、すばやく片付ける必要がありました。そしてそのことを最もよく理解していたのは、張遼だったのです。
陳蘭も山賊として頑張ってきた(?)男だけあって、しぶとい抵抗を見せました。山の地形を頼りに守りぬき、孫権の援軍を待つという戦術です。
陳蘭のこもった山はとても高いうえに険しいため、曹操軍の武将たちも攻撃をためらいました。しかし張遼は断固として攻めかかるべきだと主張したのです。
「勇者たるもの、ただ前進あるのみ!」
こうして張遼は反対意見を押し切って、陳蘭の砦を攻撃します。険しい地形をものともせずに攻め寄せて、ついに陳蘭ら反乱首謀者の首を討ち、その軍勢をすべて捕虜としたのです。
曹操が何よりも評価した点
■ 曹操が何よりも評価した点
曹操が何よりも評価した点
反乱の鎮圧後、曹操は諸将の論功(注)にあたり、特に張遼の手柄を賞賛しました。高く険しい山を攻略した決断力・実行力を高く評価し、張遼の領地を加増したのです。
(注)論功(ろんこう)……功績を評価すること。功績を評価したうえでほうびを与えることを「論功行賞」という。
曹操がここまでの評価を与えたのは、攻めにくい山をあえて攻撃したことはもちろん、張遼の状況判断が見事だった点にあります。
陳蘭の反乱がやっかいな点は、孫権が反乱に加勢するため援軍を送ってきていたことです。援軍が現地に到着すれば、曹操軍にとってさらに状況は不利になるうえ、反乱が拡大しないとも限りません。
よって、この状況でなにより大切なのは「孫権の援軍が来る前に、反乱を片付ける」ことでした。だからこそ張遼は高く険しい山をあえて攻撃し、反乱をスピーディーに鎮圧しようとしたのです。
ただ戦いに強いだけではなく、状況に応じて的確な判断ができる―――それが張遼という武将の強みであり、曹操に評価された点でもあるのでしょう。
兵は神速を尊ぶ―――優れた人材の条件
■ 兵は神速を尊ぶ―――優れた人材の条件
兵は神速を尊ぶ―――優れた人材の条件
張遼と同じく曹操に重用された人物に、郭嘉(かくか)という参謀がいました。
彼の曹操への進言として、
「兵は神速を尊ぶ」(へいは しんそくを たっとぶ)
という言葉が残っています。
ここでの兵とは軍事全般のことを指します。つまり「戦争においてはスピードこそが何よりも大切だ」という趣旨の言葉です。まさに張遼の反乱鎮圧にも通じる言葉といえるでしょう。
張遼や郭嘉を見ていると、曹操に評価される人物には共通点があるのが分かります。
まず第一に「何事にもスピーディーな対応ができること」
そして「状況を的確に判断できること」
この2点こそ、危機管理において最も重要な項目であり、曹操が配下に求めていた要素でもあります。いまも昔も、優秀な人材の条件というのは変わらないのですね。
孫権軍との抗争へ―――要地・合肥(がっぴ)の守将に
■ 孫権軍との抗争へ―――要地・合肥(がっぴ)の守将に
孫権軍との抗争へ―――要地・合肥(がっぴ)の守将に
赤壁の戦いの後、呉の孫権は江南での勢力を確立し、劉備(玄徳)は荊州南部を拠点とします。両者は同盟者であり、協調して勢力拡張に乗り出したため、曹操にとって非常にやっかいな状況となりました。曹操は荊州北部の一部を孫権に奪われるなど、この方面で守勢に回ることになったのです。この時点で、曹操軍の南方戦線における主敵は、呉の孫権となっていました(なお一方の劉備(玄徳)は、荊州から西進して蜀(しょく/注)の攻略を目指すことになります)。
(注)蜀(しょく)……現在の四川省を中心とする一帯。劉備(玄徳)はこの地を拠点として蜀漢を建国する。
曹操軍と孫権軍の争点になるのは、合肥(がっぴ)という地でした。曹操は早くからこの地が呉との攻防に重要だと考え、劉馥(りゅうふく)という優秀な人物を送り込み、都市の開発を行わせました。三国志ではあまり有名ではない劉馥ですが、都市開発や農地の拡大に手腕を発揮し、短期間で合肥を豊かな土地にしました。劉馥は208年に死去しますが、彼の築いた防御施設や、蓄えた物資は、後の孫権軍との戦いに大きく役立ったといいます。
その劉馥の死後、合肥の守備を任されたのが張遼でした。合肥は孫権軍との戦いで最重要拠点となる場所でした。曹操は最も信頼する武将である張遼に、その防衛を託したのです。
次回は、張遼と孫権軍との熾烈な戦いについて、見ていきたいと思います。