「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(4) 名将の条件とは

「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(4) 名将の条件とは

曹操は官渡の戦いで袁紹を破った後、華北を順調に平定し、いよいよ南方へと軍を向けました。ところが赤壁の戦いで、孫権・劉備(玄徳)の連合軍に思わぬ敗北を喫したのです。この敗戦を受け、曹操に反旗をひるがえす武将も現れました。曹操軍の有力武将となった張遼にとっても、ここからが腕の見せ所となるのです。


曹操、思わぬ敗北! どうなる張遼の未来?

曹操、思わぬ敗北! どうなる張遼の未来?

曹操、思わぬ敗北! どうなる張遼の未来?

華北を平定した曹操は、本格的に南方へ進出します。208年には、荊州(けいしゅう/注)を支配していた劉琮(りゅうそう)を降伏させました。その勢いに乗って江南を攻め、孫権(そんけん)・劉備(りゅうび)の連合軍と戦いますが、船団が火攻めにあい敗退します(赤壁の戦い)。

(注)荊州(けいしゅう)……現在の湖北省を中心とする一帯。当時は群雄のひとり劉表(りゅうひょう)が支配していたが、その死後にあとを継いだ息子(劉琮)は曹操に降伏する。
(注)江南(こうなん)……長江下流の南岸地域。後に呉王朝を建国する孫権が支配していた。

赤壁での敗北は、曹操の中国支配を少なからず動揺させました。これまで仕方なく曹操に従っていた武将たちのなかには、「いまこそ曹操を倒すチャンスだ!」と考え、反乱する者も出てきたのです。
思わぬところで足元をすくわれた曹操軍団。ピンチを救うのは、やはり張遼でした。

反乱に断固として対処

反乱に断固として対処

反乱に断固として対処

こうして曹操に反旗をひるがえした武将のひとりが、陳蘭(ちんらん)でした。彼はもともと、後漢末の群雄のひとり袁術(えんじゅつ)に仕えましたが、その後独立し、山賊となって暴れまわっていました。しかし曹操の勢力が大きくなると、山賊稼業にピリオドを打って、大人しくしていたようです。
こうした人物ですので、世の中が乱れれば、また暴れたいと思っているわけです。曹操が赤壁で敗れたのを機に、彼は異民族とともにふたたび挙兵します。さらには呉の孫権の支援もとりつけます。

曹操は張遼らの有力武将を、乱の鎮圧に派遣しました。対する陳蘭は山にこもって抵抗する構えをみせます。このとき陳蘭を助けるべく、孫権の援軍も現地へ向かっていたのです。
これは曹操陣営にとってはやっかいな事態でした。陳蘭のみならず、異民族まで加勢しているのですから、地域の安定にとっては重大な危機です。さらには鎮圧にもたついていると、孫権の介入をまねき、反乱が大きく拡大するリスクがあります。とにかく陳蘭の乱は、傷口が広がらないうちに、すばやく片付ける必要がありました。そしてそのことを最もよく理解していたのは、張遼だったのです。

陳蘭も山賊として頑張ってきた(?)男だけあって、しぶとい抵抗を見せました。山の地形を頼りに守りぬき、孫権の援軍を待つという戦術です。
陳蘭のこもった山はとても高いうえに険しいため、曹操軍の武将たちも攻撃をためらいました。しかし張遼は断固として攻めかかるべきだと主張したのです。

「勇者たるもの、ただ前進あるのみ!」

こうして張遼は反対意見を押し切って、陳蘭の砦を攻撃します。険しい地形をものともせずに攻め寄せて、ついに陳蘭ら反乱首謀者の首を討ち、その軍勢をすべて捕虜としたのです。

曹操が何よりも評価した点

曹操が何よりも評価した点

曹操が何よりも評価した点

反乱の鎮圧後、曹操は諸将の論功(注)にあたり、特に張遼の手柄を賞賛しました。高く険しい山を攻略した決断力・実行力を高く評価し、張遼の領地を加増したのです。

(注)論功(ろんこう)……功績を評価すること。功績を評価したうえでほうびを与えることを「論功行賞」という。

曹操がここまでの評価を与えたのは、攻めにくい山をあえて攻撃したことはもちろん、張遼の状況判断が見事だった点にあります。
陳蘭の反乱がやっかいな点は、孫権が反乱に加勢するため援軍を送ってきていたことです。援軍が現地に到着すれば、曹操軍にとってさらに状況は不利になるうえ、反乱が拡大しないとも限りません。
よって、この状況でなにより大切なのは「孫権の援軍が来る前に、反乱を片付ける」ことでした。だからこそ張遼は高く険しい山をあえて攻撃し、反乱をスピーディーに鎮圧しようとしたのです。
ただ戦いに強いだけではなく、状況に応じて的確な判断ができる―――それが張遼という武将の強みであり、曹操に評価された点でもあるのでしょう。

兵は神速を尊ぶ―――優れた人材の条件

兵は神速を尊ぶ―――優れた人材の条件

兵は神速を尊ぶ―――優れた人材の条件

張遼と同じく曹操に重用された人物に、郭嘉(かくか)という参謀がいました。
彼の曹操への進言として、
「兵は神速を尊ぶ」(へいは しんそくを たっとぶ)
という言葉が残っています。
ここでの兵とは軍事全般のことを指します。つまり「戦争においてはスピードこそが何よりも大切だ」という趣旨の言葉です。まさに張遼の反乱鎮圧にも通じる言葉といえるでしょう。

張遼や郭嘉を見ていると、曹操に評価される人物には共通点があるのが分かります。
まず第一に「何事にもスピーディーな対応ができること」
そして「状況を的確に判断できること」
この2点こそ、危機管理において最も重要な項目であり、曹操が配下に求めていた要素でもあります。いまも昔も、優秀な人材の条件というのは変わらないのですね。

孫権軍との抗争へ―――要地・合肥(がっぴ)の守将に

孫権軍との抗争へ―――要地・合肥(がっぴ)の守将に

孫権軍との抗争へ―――要地・合肥(がっぴ)の守将に

赤壁の戦いの後、呉の孫権は江南での勢力を確立し、劉備(玄徳)は荊州南部を拠点とします。両者は同盟者であり、協調して勢力拡張に乗り出したため、曹操にとって非常にやっかいな状況となりました。曹操は荊州北部の一部を孫権に奪われるなど、この方面で守勢に回ることになったのです。この時点で、曹操軍の南方戦線における主敵は、呉の孫権となっていました(なお一方の劉備(玄徳)は、荊州から西進して蜀(しょく/注)の攻略を目指すことになります)。

(注)蜀(しょく)……現在の四川省を中心とする一帯。劉備(玄徳)はこの地を拠点として蜀漢を建国する。

曹操軍と孫権軍の争点になるのは、合肥(がっぴ)という地でした。曹操は早くからこの地が呉との攻防に重要だと考え、劉馥(りゅうふく)という優秀な人物を送り込み、都市の開発を行わせました。三国志ではあまり有名ではない劉馥ですが、都市開発や農地の拡大に手腕を発揮し、短期間で合肥を豊かな土地にしました。劉馥は208年に死去しますが、彼の築いた防御施設や、蓄えた物資は、後の孫権軍との戦いに大きく役立ったといいます。

その劉馥の死後、合肥の守備を任されたのが張遼でした。合肥は孫権軍との戦いで最重要拠点となる場所でした。曹操は最も信頼する武将である張遼に、その防衛を託したのです。
次回は、張遼と孫権軍との熾烈な戦いについて、見ていきたいと思います。





この記事の三国志ライター

関連するキーワード


張遼 曹操 孫権

関連する投稿


魏軍武勇筆頭! 義にも厚かった猛将・張遼

曹操配下の将軍の中でもトップクラスの評価を受けるのが張遼だ。幾度か主君を変えた後に曹操に巡り合い、武名を大いに轟かせる。最後まで前線に立ち続けた武人の生涯をたどる。


「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(1) 呂布にふり回された若き日

「泣く子もだまる」という言葉、読者の皆さんも耳にしたことがあるでしょう。「だだをこねて泣いている子供も、恐怖のあまり泣き止んでしまうほど、恐ろしい存在」という意味だそうです。この言葉は、三国志の武将が語源になっているといいます。その武将は、魏の名将である張遼(ちょうりょう)。どんな男だったのでしょうか。


「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(2) 真の主人との出会い

後に魏の名将となる張遼は、若いころは安住の地を得ることができず、苦労もしました。なにしろ主人の董卓が、同僚の呂布に殺されてしまうのです。結局彼はそのまま呂布の配下となるのですが、そこからさらに運命は急展開していきます。


【三国志】英雄あだ名列伝~魏編その2~

三国志演義だけでなく、正史にもあだ名や異名を残している武将がいます。正史の三国志は、「史記」、「漢書」に続く正式な歴史書です。ほぼリアルタイムに書かれているので信憑性があります。


「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(3) 危機管理も完璧だった男

若き日の張遼は、丁原、董卓、呂布といった猛将たちに仕えました。しかしこれらの主人たちは皆、志半ばにして討たれてしまい、張遼はそのつど新たな主人に仕えなくてはならなかったのです。呂布が滅んだ後、張遼は曹操に仕えます。後に魏王朝の始祖となるこの男こそ、張遼にとって運命の主人だったのです。


最新の投稿


燃ゆる背に風が鳴る。黄蓋・苦肉の計、苦肉の策

西暦二〇八年、長江の水面に、ひとつの決意が沈んでいた。曹操、北の地をほぼ制し、南へ。押し寄せる黒い雲のような大軍に、江東は揺れる。主戦の旗を掲げた周瑜に、ためらう声が重なる、「降れば命は繋がる」。だが、その軍議の輪の外で、ひとりの老将が背を伸ばしていた。名は黄蓋。


人中に呂布あり ― 奉先、馬中に赤兎あり、呂布入門!

後漢の末、彼の名は風のように戦場を駆け抜けた。呂布、字は奉先。人は「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と讃えたが、同時に「三姓の家奴」と蔑んだ。最強の矛と、最も軽い信。――この二つが、彼の生涯を裂いたのだが、強さ上の人気、呂布について、初めての方に紹介しよう。


馬氏五常、白眉最良」~兄弟の中で最も優れた者~

中国三国時代、馬氏5人兄弟は、みんな優秀な人物でした。その中で蜀の馬良が、最も才能があったそうです。そして、眉に白い毛が混じっていたことから「白眉」とあだ名され、「馬氏の五常、白眉最もよし」と称えられて、故事になりました。どうして、それほど優秀だったのでしょう? エピソードを見てみましょう。


長坂坡の橋で一喝 - 単騎、敵軍を睨み据える

三国志の数ある名場面の中でも、ファンに強烈な印象を残すのが「長坂坡(ちょうはんは)の戦い」での張飛のエピソードです。 「我こそは燕人張飛である!」――たった一人の叫びが、数万の曹操軍を押しとどめたと言われています。


錦の袋の三つの計 ― 周瑜の包囲を破る諸葛亮の知略

周瑜の罠に落ち、孤立無援の劉備軍。だが趙雲の懐には、諸葛亮が託した「錦の袋」があった。三つの計略が、絶体絶命の状況を逆転へと導く。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング