孫堅文台
■ 孫堅文台
孫堅文台
江東の虎
■ 江東の虎
江東の虎
黄巾党の残党の一味を率いる韓忠が守備している宛城を劉備と皇甫嵩が攻めているとき、官軍からの援軍として孫軍と義勇軍を従えて駆けつける孫堅の初登場シーンで、彼の容貌を「広い額に大きな顔、虎のごとき体には熊のごとき腰がついている」と威風堂々なマッチョマンとして描かれます。
何かとすぐにキレて怒号をまき散らす彼は容姿も性格も「虎」そのもの。これに出身地の「江東」が合体して「江東の虎」と呼ばれました。
孫策伯符
■ 孫策伯符
孫策伯符
江東の麒麟児
■ 江東の麒麟児
江東の麒麟児
孫堅の長男で呉を建国した孫権の実兄。若干16歳で父の偉業を継ぎ、ほぼゼロの状態から「益を得ようとすれば、奉仕から」の精神でいやいやながら袁術を頼って力をつけ、切り札である「伝国の玉璽」を袁術に献上するのと引き換えに孫呉の古株の将軍や兵士を取り戻しました。
以上のような真似は常人にはなかなかできないことだと孫呉譜代の臣下は「江東の麒麟児」として、将来の活躍を期待しました。
小覇王
■ 小覇王
小覇王
たった数年で父が支配した江東の領地を奪い返し、さらに領土拡大をものすごいスピードでやってのけた孫策の獅子奮迅の活躍は楚漢戦争で高祖劉邦と対立した楚の項羽大将軍を彷彿させるものがありました。
「もしや、孫策は項羽の生まれ変わりで!?」ということでついたあだ名が「小覇王」です。「覇王」は項羽が楚王を追放したときに名乗った尊称です。「小覇王」の「小」は幼い、若いという意味があるので、項羽に対して敬意を払い「覇王」を拝借しますよという意味でつけられたものではないかと思われます。
孫権仲謀
■ 孫権仲謀
孫権仲謀
碧眼児
■ 碧眼児
碧眼児
孫権は、孫堅の次男で孫策の実弟。劉備に嫁いだ孫尚香(孫麗)とは異母兄弟になります。父の孫堅と兄の孫策が相次いで早世したため、若干18歳で孫呉を引き継ぎ、三国の内のひとつ呉を建国します。
三国志演義で孫権の人相は「あごが張って、口が大きく、瞳は碧眼(ブルーの瞳)」であったので、「碧眼児」というあだ名がついてます。ブルーの瞳をしていたと言うので、到底アジア人とは思えない顔立ちをしていたらしいです。
紫髯
■ 紫髯
紫髯
山陽公載記によれば「背は高いが胴長短足で、紫髯(赤ひげ)の持ち主」とあります。日焼けで髭が赤く変化したのか、もともと赤毛だったのか定かではありませんが、碧眼(ブルーの瞳)で赤毛が事実だとすれば、ヨーロッパ地方の出身で実は孫堅の実子ではなく養子であったかも知れないという新たな謎をもたらす可能性があります。
呂蒙の罠にハメられて生け捕りになった際、関羽を心服させようと孫権がスカウトしたが「碧眼の小僧、紫髯の鼠野郎」と罵声を浴びせています。
周瑜公瑾
■ 周瑜公瑾
周瑜公瑾
美周郎
■ 美周郎
美周郎
周瑜は孫策の親友であり、ともに呉の礎を築いた人物です。孫策との友情は「断金の交わり」として有名です。知略・武勇・学問に秀で、容姿端麗なイケメンでその上音楽の才能にも優れているという男なら誰しもが嫉妬する武将です。
「美周郎」の「郎」は貴公子という意味があり、「美しき周さんちの貴公子」というあだ名になります。江東では周瑜のイケメンっぷりが広く知られており、若い女性から壮年のマダムたちまでが「美周郎」と呼びはじめたそうです。
行軍や凱旋の行列があった際は周瑜の姿を一目でも見ようと、若い女性が殺到し「美周郎、美周郎」と黄色い声援を送っていたとか。
孫尚香(孫麗)
■ 孫尚香(孫麗)
孫尚香(孫麗)
腰弓姫(きゅうようき)
■ 腰弓姫(きゅうようき)
腰弓姫(きゅうようき)
孫堅と呉国太との間に生まれ、孫策、孫権の異母妹にあたり、孫劉同盟を結ぶ際に劉備(玄徳)の後妻として嫁いでいます。当時の女性としては珍しく後世に名前を残す実在の人物で、京劇の演目「甘露寺」では主役級の役割を得ています。
孫尚香は幼い頃から気が強く、兵士の練兵に混ざって薙刀の鍛錬をするなど武芸を好んだ女性です。そんな彼女は常に腰に短弓を佩いていたため、自分のことを「腰弓姫」と呼ばせたとあります。
孫権と劉備(玄徳)の関係が悪化して「母親が危篤」という偽情報によって帰国命令が出ると阿斗を引き連れて呉に帰省することになりました。このとき、彼女は馬車には乗らず武装し、騎馬にて長江まで行ったとされています。彼女が刀を抜いて阿斗を取り返そうとした張飛や趙雲を威嚇しますが、張飛が捨て身で彼女の従者を斬り殺し阿斗を奪いました。そのあと、船に乗ったあとも彼女が甲板で剣を振りかざして睨みを利かせたので、蜀軍は呉軍の船に攻撃ができなかったそうです。
甘寧(かんねい)興覇
■ 甘寧(かんねい)興覇
甘寧(かんねい)興覇
錦帆賊(きんぱんぞく)
■ 錦帆賊(きんぱんぞく)
錦帆賊(きんぱんぞく)
甘寧は孫権に仕える武勇に優れた武将で、孫権が「曹操には張遼がいるが、わしには甘寧がいる」とまで言わせるほど重用されていました。
このあだ名の由来は、孫権と出会う前に「錦帆賊」という水賊を組織していたことからつきました。
鈴の甘寧
■ 鈴の甘寧
鈴の甘寧
陳寿が記した正史「呉書」によれば、「甘寧は若い頃から男気があって遊侠を好み、不良の若者を集めて徒党を結成。派手に武装させ、自ら頭領となった。仲間たちは皆、羽飾りを背負って鈴を常に携えていたので、民衆は鈴の音を聞いただけでそれが甘寧一味だと分かったという。派手な装いで外出し、陸路や水路を闊歩した」とあります。
また、どんなことをしていたかを調べると「人に出会った時は、小役人だろうと長官だろうと自分達を盛大に歓待させ、そうしない者には手下を使って財産を没収した。また自分が属する地方の長官の領内で犯罪があれば摘発と制裁を行った」というただのチンピラなのか、任侠に生きるヤクザ者なのかよくわからない乱暴を働いていたそうです。
孫権に仕えてからも武装して鈴をつける習慣は続いたそうで、戦場で「チリン、チリン」と鈴の音が響けば甘寧とその配下が現れたそうです。
大喬、小喬
■ 大喬、小喬
大喬、小喬
江東の二喬
■ 江東の二喬
江東の二喬
絶世の美女姉妹として名を広めた姉の大喬と妹の小喬をひとまとめにして「江東の二喬」と呼んでいました。
「二喬」という文字は曹操の5男曹植の詠んだ詩にも出てきており、諸葛亮がこれをダシにして周瑜を挑発して焚き付け、赤壁大戦前降伏派が圧倒的優勢だった呉の陣営を抗戦させるに踏み切りました。
呉はオシャレなあだ名が多い
■ 呉はオシャレなあだ名が多い
呉はオシャレなあだ名が多い
あだ名列伝呉編をお送りしました。
周瑜の「美周郎」や孫権の「碧眼児」、甘寧の「鈴の甘寧」など呉の武将にはオシャレなあだ名をつけられている人物が多いですね。
他に魏や蜀にもあだ名がついている武将をご紹介します。