曹丕に仕えて病弱ながらも出世していく
■ 曹丕に仕えて病弱ながらも出世していく
曹丕に仕えて病弱ながらも出世していく
郭淮は曹操の漢中征伐に参戦し、夏侯淵の幕臣として仕えました。劉備軍との戦いがあった定軍山の戦いで、大将の夏侯淵が討たれる際、魏軍は大きな混乱を招きました。郭淮はこのままでは劉備軍に惨敗を喫すると考え、混乱する兵士たちを取りまとめることに尽力していきました。郭淮は夏侯淵亡き後に指揮官にふさわしいのは張コウであると進言し、劉備軍の侵攻を防いでいます。
曹操は劉備(玄徳)に対抗するため、漢中に入るとその混乱ぶりを取りまとめた郭淮の働きに満足し、そのまま張コウを夏侯淵の後任の司令官として配し、郭淮はその幕僚に加えられました。曹操亡き後、郭淮は後継者に付いた曹丕によって爵位を与えられ、曹真の配下に転じています。郭淮は周辺の賊を撃退して民衆からも指示されていました。
人心掌握に長けていた郭淮
■ 人心掌握に長けていた郭淮
人心掌握に長けていた郭淮
曹丕(文帝)が帝位に就くと、諸将が祝福に訪れていきました。郭淮も例外ではなく、都へと進みますが、道中で病気になってしまいます。郭淮は都までの道のりを計算し、無理をせずに療養しながら向かいました。
郭淮が参内するころにはすでに祝宴が行われており、曹丕は遅れてきた郭淮に対して非難しました。しかし、郭淮は自身が健康上の理由を元に、命をかけてまで参内しようとした行為から、曹丕の意見を逆手にとって諭しています。曹丕は郭淮の主張に感心し、信頼をおくようになっていきました。
郭淮は曹丕から雍州刺史に任命されており、羌族の反乱を鎮めています。郭淮は降伏の面会者の素性をあらかじめ調べており、相手の心情をつかむように言葉を選んで話をしていました。このことから、郭淮は相手の心をつかむのに長けていたことがうかがえます。
一進一退となった諸葛亮との戦い
■ 一進一退となった諸葛亮との戦い
一進一退となった諸葛亮との戦い
228年、蜀の諸葛亮が北伐を開始し、祁山に侵攻してくると、郭淮も参戦しています。諸葛亮は街亭の守備に馬謖を派遣しています。馬謖が諸葛亮の指示に背き山に陣を取ったため、水路を遮断して張コウが馬謖を破ります。また、郭淮も蜀の武将である高翔を攻め破りました。これを受けて蜀軍は退却を余儀なくされています。
しかし、229年の第三次北伐では、蜀の陳式が武都・陰平の2郡を攻めてきました。郭淮は迎撃に出ますが、諸葛亮が自ら出陣し、郭淮の退路を断ったために敗北を喫しています。結果、両郡を奪われてしまいました。231年の第四次北伐では、指揮官が司馬懿になり、諸葛亮と対峙して敗れています。また、食料不足で退却した蜀軍を尻目に、郭淮は羌族に食料を提供させることに成功しています。
五丈原の戦い
■ 五丈原の戦い
五丈原の戦い
諸葛亮の最後の北伐となった234年、五丈原の戦いにおいて、郭淮も出撃します。諸葛亮は長期戦と見せかけて長安への攻撃を計画しますが、郭淮はこれを見破り、撃退しています。
一方で今度は諸葛亮が西へ進軍すると、郭淮は動きを読んで待ち受けて諸葛亮を再度防ぎました。この働きによって、魏は持久戦に持ち込め、陣中で諸葛亮が没すると蜀軍は退却していきました。この郭淮の働きがなければ、魏軍の損害も大きかったかもしれません。それだけに諸葛亮を2度も防いだのは大きな貢献だったといえるでしょう。
姜維との戦いでたびたび貢献
■ 姜維との戦いでたびたび貢献
姜維との戦いでたびたび貢献
諸葛亮の亡き後、蜀の姜維がたびたび侵攻してきます。240年には姜維が隴西に攻めてきますが、迎撃しました。また、姜維に味方した羌族の部族を攻めて降服させています。
244年には中央で司馬懿との権力闘争に奮起した曹爽が、蜀征伐の軍を起こして郭淮も参戦しています。郭淮は夏侯玄の指揮下に入り、先鋒を務めますが、蜀軍の王平の奮闘もあって、魏軍は劣勢を強いられてしまいます。蜀本国から大将軍の費イが参戦すると、行軍の疲れもあった魏軍は長期戦の不利から退却を余儀なくされます。
この退却を好機に、費イは曹爽の退路を断とうとします。追撃戦でまたしても被害を出した魏軍ですが、形勢不利をいち早く察した郭淮が奮闘して味方を大いに助けることに成功しています
姜維は248年、歴将の廖化と羌族の一部とともに魏に攻め込みます。郭淮は軍を分けて姜維と廖化に当たる策を出します。郭淮は魏の諸将の反対を押し切り、自身は廖化を攻めて姜維には夏候覇を当てました。郭淮は姜維が廖化を助けに戻ることを予想し、夏候覇と挟み討ちにしようとします。その通りに姜維が引き返してきたので、これを攻めて敗走させています。
子どもたちのために妻を守る
■ 子どもたちのために妻を守る
子どもたちのために妻を守る
郭淮は長年の功績を受けて蜀の総司令官として君臨し、中央での官位も受けました。251年には妻の兄が司馬懿の傀儡となっていた皇帝廃立を目論見ますが、露見されて処罰されます。郭淮の妻も連座となり捕まりますが、配下から助命を嘆願されますが、厳格な郭淮は一切聞き入れませんでした。
しかし、郭淮の5人の子どもらが揃って額を地面に打ち付けて血を流すほど助命を嘆願し、さすがに郭淮も忍びきれずに妻を取り返しました。反逆罪に当たる行為に、郭淮は司馬懿宛に「母が亡くなれば5人の子どもらも死に、子どもらが死ねば自分も続くでしょう。これが許されないのならば、どんな処罰もお受けいたす」と手紙を書いています。司馬懿はこれまでの郭淮の貢献から罪に問わないことを述べ、妻も許されました。
魏を守り抜いた郭淮の評価
■ 魏を守り抜いた郭淮の評価
魏を守り抜いた郭淮の評価
郭淮は「三國無双」(コーエーテクモ)のゲームでは、病弱で気弱なキャラクターとして存在しています。また、小説の三国志演義では蜀を有利に描かれていることも影響して、姜維に殺されるなどしており、正史以上の活躍が描かれていません。
曹丕以降の魏は司馬一族によって衰退していきますが、中央の権力闘争を尻目に長く前線で体を張り続けていた郭淮は、魏にとってなくてはならない存在でした。郭淮は曹操から曹丕、曹エイ、曹芳、曹ボウと魏の5代に仕えた貴重な将軍でもあり、魏が諸葛亮や姜維といった、蜀の軍事面での有力者を退け、漢中以北を守り抜けたのは一様に郭淮による功績が高いといえるでしょう。
郭淮は255年に死去しています。その死後には大将軍に追贈され、一族は国が晋に変わっても変わらず重役に上っています。このことからも郭淮は三国志の時代において有能な将軍であることに異論はないことがうかがえます。