姜維(きょうい)のプロフィール
■ 姜維(きょうい)のプロフィール
姜維(きょうい)のプロフィール
建安7年(202年)-景元5年1月18日(264年3月3日)
中国三国時代の人物。魏、蜀漢(蜀)に仕えた武将。
字は伯約。
涼州天水郡冀県の出身。姜冏。妻は柳氏。子孫に唐の姜恪がいる。
姜維の生い立ち
■ 姜維の生い立ち
姜維の生い立ち
幼少時に、父親が異民族の反乱鎮圧に従軍し戦死したため、母の手で育てられました。
そのため、姜維は母親想いとしても知られています。
元々は魏の臣下であった姜維。後に蜀に下った姜維と母は生き別れとなります。母は魏に戻るよう手紙を送ったが、姜維は「蜀で栄達するという大望があるため戻らない」と返事をしたというエピソードがあります。
蜀への降伏
■ 蜀への降伏
蜀への降伏
孔明が、はじめて北伐を行った際に、姜維は魏の太守である馬遵(ばじゅん)の配下として偵察に行きます。
ところが、馬遵は姜維が孔明と通じているという疑いを抱き、姜維を捨てて逃亡してしまいます。
姜維は馬遵を追いますが、城に入ることを拒まれてしまい、行き場をなくしてしまいました。
やむなく蜀に降伏した姜維ですが、孔明にその才を高く評価され、重く用いられるようになります。
孔明の姜維に対する評価
■ 孔明の姜維に対する評価
孔明の姜維に対する評価
孔明は姜維に対して「姜維は仕事を忠実に勤め、思慮精密である。涼州で最高の人物だろう」評しています。また「姜維は用兵に秀で、度胸があり、兵の気持ちを深く理解している」とも言っており、信頼の高さが伺えます。
孔明の遺志を継ぐ
■ 孔明の遺志を継ぐ
孔明の遺志を継ぐ
志半ばで倒れた孔明の遺志を継ぎ、北伐を志した姜維。
孔明亡き後、政治面での後を引き継いだ蒋琬(しょうわん)は姜維同様北伐賛成派でしたが、病気で亡くなります。
次に、政権を担った費禕(ひい)は、北伐には賛同しませんでした。「我々の力は丞相(孔明)に遥に及ばない。その丞相すら中原を定めることが出来なかったのだ。ましてや我々に至っては問題外である。今は内政に力を注ぎ、外征は人材の育成を待ってからにすべきだ。」と語ったと伝えられています。
しかし費禕が暗殺されると、その後を受けて蜀の軍権を掌握した姜維は、数万の兵を率いて北伐を敢行します。
北伐開始の翌年に魏の三県を制圧し、そのさらに翌年には、夏候覇らとともに魏の王経を逃水で大破し、功績を挙げます。
はじめは好調だった姜維の北伐ですが、その後は敗戦を繰り返すことになります。
国内では北伐への批判が高まり、姜維は孤立していきます。
また、元々は魏の臣下であった姜維は、蜀の官中では、少数派の派閥でした。それも彼の立場を弱くしていたと言えるでしょう。
優秀な人物であった姜維ですが、軍事を優先しすぎて、内政を顧みなかったことが、彼が最も批判されている点です。劉禅が黄皓を重用して酒色に溺れてしまい、国政の混乱を招くことになります。
蜀の滅亡
■ 蜀の滅亡
蜀の滅亡
国力の弱った蜀に対し、魏の侵攻が迫っていました。姜維はそれを察知し、劉禅に増援を要請します。しかし、神託を信じた宦官の黄皓は、敵が来ないと考えていたため、劉禅に姜維の進言を取り上げないよう意見します。群臣たちも姜維の上表を知らされませんでした。
魏の司馬昭の命を受けた鄧艾(とうがい)・鍾会(しょうかい)が侵攻して来て、ようやく劉禅は援軍を派遣します。姜維と鍾会が対峙しますが、その間に、鄧艾が諸葛瞻(しょかつせん:孔明の息子)を討ち取ってしまいます。
この知らせを聞いた劉禅はあっさりと降伏してしまいました。
劉禅が降伏してしまえば、姜維になすすべはありません。無念ながらも鍾会に降伏しました。こうして蜀の歴史は終焉を迎えました。将士らは皆怒り、剣で石を斬ったと伝えられています。
横山光輝の漫画『三国志』では、諸将と共に剣閣の要害に立て籠もり、連弩(れんど:一度の複数の矢を撃ち出す武器)で抵抗しています。このため魏軍が姜維との戦いを諦めて迂回し成都を攻め、劉禅を降伏させてしまうという展開になっています。
劉禅の勅使により姜維たちも降伏するように命を受けます。兵士たちは最後まで戦おうと声をあげますが、このまま戦い続ければ彼らは反逆者になってしまいます。また、姜維たちが戦い続ければ、既に降伏している劉禅の立場が悪くなります。
無念の思いで兵士らを諫める姜維。泣きながら岩に剣を叩きつけて折る兵士たち。その様子を見ながら姜維も、孔明の遺言を守れなかったと泣きながら、岩に剣を叩きつけて折るのでした。そして、兵士らと共に降伏する姿を以って、姜維は横山『三国志』の舞台から退場します。
姜維の最期
■ 姜維の最期
姜維の最期
降伏はしたものの、姜維は蜀の復興をまだ諦めてはいませんでした。鍾会の野心を見抜き、反逆をそそのかします。
姜維の目的は、まず鍾会を魏から独立させた上で、機会を見て鍾会と魏の将兵を殺害し、劉禅を迎え入れて蜀を復興しようというものでした。
鍾会は反乱を準備しますが、身の危険を感じた配下の将軍らが暴動を起こしたため、計画は失敗します。姜維は鍾会、および妻子らと共に殺されました。享年63歳でした。
英雄か愚将か
■ 英雄か愚将か
英雄か愚将か
小説「三国志演義」では、有能な武将として描かれ、大活躍を見せている姜維。
魏の臣下として登場した際は、孔明の計略を逆手にとって危機に陥らせたり、趙雲と一騎打ちで互角の勝負を演じたりもしています。孔明はその才能を高く見込んで、自らの後継者とするために計略を用いて姜維を蜀に投降させています。
その後も才能あふれる人物として描かれ、孔明の死後はその第一後継者として表現されています。北伐を続けて時に敗れる描写はあるものの、それによる国力衰退に関しては特筆されていません。
このため、三国志演義やそれを元にした小説では、姜維は蜀に忠義を貫いた英雄としての側面が強調されており、非は目立たない描かれ方をしています。
但し、姜維の優秀さが創作かというとそうではなく、姜維が孔明をはじめとする同時代の人物たちから、その才能や人格を高く評価されていたのは事実です。
一方で、歴史書としての『三国志』の撰者陳寿は「姜維は文武ともに優れていたが、多年に亘り国力を無視した北伐を敢行し、蜀の衰亡を早めた」と批評をしています。
姜維の無謀ともいえる北伐が、蜀の国力を弱めた点は否定することはできないでしょう。
ただ、姜維に代わるような人材は当時の蜀にはいませんでした。彼がいなければ蜀という国が永らえていたかというと、それはわからないですね。元々魏も呉も蜀を狙っていましたから、北伐がなければ、蜀は滅亡しなかったと単純には言い切れません。
姜維の蜀や孔明に対する忠誠心は確かなものであったと思われます。それゆえに、孔明のやり残した北伐にこだわりすぎてしまったのかもしれませんね。
最期まで蜀の再興を夢見て戦い続けた姜維。三国志を代表する英雄の一人であることは間違いないのではないでしょうか。