一体どんな人がいるの? 夏候惇を筆頭とした夏候一族

一体どんな人がいるの? 夏候惇を筆頭とした夏候一族

三国志には多くの氏があります。特に権力を有していたり、名門の家柄だったりすると、宗家や分家でも相当数の人物がいます。中でも劉氏や孫氏、曹氏、司馬氏といった皇帝の系列は多く存在しています。そこで、長らく魏に仕えていた武将の夏候氏について、ここでご紹介していきます。


代表格は魏の名将で曹操の親友だった猛将「夏候惇」

夏候氏はもともと前漢の立役者である夏侯嬰(カコウエイ)の末裔で、三国志においては魏の夏候惇(カコウトン 生年不明―220年)や夏侯淵(カコウエン 生年不明―219年)が有名です。二人はともに主君となる曹操(ソウソウ 155年―220年)と従兄弟どうしであり、曹操の挙兵時から駆けつけていました。

夏候惇は時代的に珍しい隻眼武将であり、多くの戦地で曹操を助けました。また、夏候惇は不臣の礼(配下として扱わない特別待遇)という特別待遇を受けていました。

あまりにも有名な、矢で射ぬかれて隻眼となる

夏候惇が隻眼なのは、呂布(リョフ 生年不明―198年)との戦いで弓矢の攻撃を受けて負傷したこととなっています。小説の三国志演義では有名なシーンとして描かれており、呂布配下の武将に目を射抜かれ、夏候惇はその矢を眼球ごとくり抜き、「親からもらったこの体、捨てることはできない」と言い放ち、食べてしまいました。その気迫に恐れをなした敵将をいとも簡単に切り捨ててしまっています。

夏候惇は曹操が死んだ数か月後に後を追うようにして亡くなりました。曹操にとって夏候惇は部下ではなく、苦楽を共にしてきた盟友だったに違いありません。

曹操の配下として長らく活躍した矢の名手「夏侯淵」

曹操のもう一人の従兄弟には夏侯淵(カコウエン 生年不明―219年)がいます。夏侯淵は夏候惇と同じく、曹操の挙兵時から駆けつけており、多くの戦地で活躍しました。前線で体を張る夏候惇とは違い、序盤は後方支援を得意としていました。

また、夏侯淵は兵糧管理に優れており、事務的な仕事を卓越しながらも、魏の優秀な武将たちを指揮する立場にありました。張コウ(チョウコウ 生年不明―231年)や徐晃(ジョコウ 生年不明―227年)といった歴戦の強者を従え、後方に陣を構えながらも前線の指揮を執っていました。

馬超を倒して漢中を支配する

210年を過ぎると、義は侵攻してきた涼州の馬超(バチョウ 176年―222年)と激突します。夏侯淵も馬超征伐に参戦し、魏軍は馬超を退け、曹操は帰還しますが、夏侯淵は残党を制圧して涼州を平定しました。その後、漢中に逃れた馬超がまたも挙兵し、味方勢力を攻撃してきます。その恐ろしさを知る配下たちは曹操の指示を仰ごうとしますが、夏侯淵は冷静な口調で報告している間に負けると言い放ちます。

夏侯淵は馬超を退け、漢中を平定しました。夏侯淵は曹操から漢中の守備に就くように命じられました。この頃蜀を平定していた劉備(リュウビ 161年―223年)が漢中に進軍し、夏侯淵は劉備軍と対決しました。

定軍山の戦いで黄忠・法正に敗れる

この戦いは2年にも及ぶ長い戦闘になり、最初は劉備軍が張飛(チョウヒ 生年不明―221年)の活躍で張コウの部隊を壊滅させて勢いを増します。曹操は曹洪(ソウコウ)や曹休(ソウキュウ)といった一族の救援隊を送り、張飛や馬超といった強力な劉備軍を押し返します。夏侯淵は徐晃や張コウを指揮して劉備軍を討ち破っています。

218年に劉備軍が5万もの大軍で定軍山に出陣すると、夏侯淵は主力を率いて決戦に挑みます。劉備(玄徳)は黄忠(コウチュウ 生年不明―220年)と法正(ホウセイ 176年―220年)を組ませました。法正は夏侯淵を孤立する策を黄忠に進言します。張コウは蜀軍の火計によって壊滅しかけ、夏侯淵は半数の軍を割いて救援に駆けつけます。法正はすかさず本隊を攻撃するよう指示し、黄忠の奇襲によって夏侯淵は逃げ場を失い、切り殺されてしまいました。

夏侯淵を失った魏軍は大いに悲しみ、漢中の守備隊も浮き足だちましたが、腹心として支えてきた張コウが守りを固め、諸葛亮の北伐まで耐え抜きました。なお、徐晃は激戦となっていた荊州に赴き、新兵を率いながらも関羽を撃破する活躍を見せています。

三国志演義では弓の名手として描かれており、三国志系のゲームでは忠義に厚く、武力の高い武将として認識されています。

あまり活躍できなかった夏候惇と夏侯淵の子息たち

夏候惇と夏侯淵は魏にとってあまりにも偉大な父親たちであり、その後を継ぐのが難しかったとはいえますが、どの人物も大活躍をしているとはいえません。

武力に欠けており逮捕されてしまった夏候楙

夏候楙(カコウボウ)は夏候惇の次男であり、叔父の夏侯淵が戦死したあと、漢中の軍勢を指揮しました。しかし、従来より武力に長けていたわけではなく、蜀の武将からは臆病者と指摘されていました。しかし、夏候楙は弟たちの無礼を何度も叱っているなど、規律には厳しい面を見せており、都に報告されるのを恐れた弟たちによって罪を偽装されて逮捕となりました。

皇帝の曹叡(ソウエイ)は処罰しようとしますが、魏の建国に貢献した一族とあって側近たちのとりなしにより、夏候楙は赦されます。しかし、蜀軍の抑えにするには頼りないことから、洛陽に戻されて文官となっています。

父の敵・蜀へ亡命する羽目になった夏侯覇

夏侯覇(カコウハ)は夏侯淵の次男で、武芸に秀でていました。父が定軍山で戦死すると、蜀への恨みを晴らすべく230年の魏軍の南征では先鋒を務めました。しかし、249年に魏の権力者だった司馬懿(シバイ 179年―251年)がクーデターを起こすと、夏侯覇と仲の悪かった郭淮(カクワイ)が出世して蜀への総司令官にまで登りつめました。夏侯覇は自分の身にも危険が伴うと感じ、父の敵である蜀へ亡命しました。

蜀では重宝されており、姜維(キョウイ 202年―264年)と共に魏軍を討ち破る活躍を見せています。夏侯覇は祖国を裏切った形になりましたが、彼の家族は夏侯淵の一族ということもあって、処罰はされずに済んでいます。

後の皇帝たちと友人になり若くしてこの世を去った夏侯称と夏侯栄

夏侯淵の三男・夏侯称(カコウショウ)は武芸に優れ、16歳で虎を射殺するほどの腕前を披露していました。魏の初代皇帝になった曹丕(ソウヒ 187年―226年)と幼いころから親交があり、身分を越えた友人であったといいます。残念ながら18歳という若さで亡くなりますが、存命していたら、奇しくも叔父の夏候惇や曹操のような間柄になっていたことでしょう。

夏侯淵の五男に当たる夏侯栄(カコウエイ)は早くから父の従軍をし、定軍山の戦いに参戦しました。父が戦死したのを受けると、退却命令に背き「父や兄弟たちが戦っているのに自分だけ逃げることは許されない」と側近に言い放ち、蜀軍へ突撃して戦死しました。

夏侯栄は後の第二代皇帝・曹叡と子供の頃に友人になっていました。10代前半で命を落としましたが、存命していれば、夏侯称同様に魏のために活躍していたに違いありません。

同族で名士の扱いをうけた夏侯尚と夏侯玄親子

夏候惇や夏侯淵の甥にあたるのが夏侯尚(カコウショウ 生年不明― 226年)で、智略に長けていました。曹丕の信頼も厚く、側近として重宝されています。222年に曹丕が呉を攻めると、夏侯尚は夜襲をかけて呉の水軍を壊滅させています。曹丕に信頼され、病に倒れたときも曹丕自らが見舞いに訪れるほどでした。

夏侯玄(カコウゲン 209年― 254年)は夏侯尚の息子で、魏の実力者であった司馬懿に意見をするなど常に堂々として人望もありました。従兄弟の曹爽(ソウソウ)が大将軍に出世すると、縁戚の夏侯尚も取り立てられます。

しかし、曹爽が蜀遠征で結果を残せずにいると、司馬懿との権力争いに敗れて失脚します。司馬懿が存命中は監視程度でしたが、跡を継いだ司馬師(シバシ)や司馬昭(シバショウ)は自分に遠慮はしないだろうと考えていました。

夏侯玄を慕う者たちは司馬一族を倒すためにクーデターを計画しますが、事前に露呈してしまいます。夏侯玄は反逆罪によって投獄されてしまいますが、取り調べや処刑されるときも堂々した振る舞いで威厳を保っていたといいます。

まとめ

夏候氏は魏の中枢を担いますが、実は曹操もこの一族出身です。宦官の曹氏に養子になったのが曹操の父親であり、曹操は夏候惇や夏侯淵と親戚になります。このことからも分かる通り、夏候氏は一族結束して魏の建国発展に貢献していきました。

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