呂布と同郷 強い男の名産地に生まれる
■ 呂布と同郷 強い男の名産地に生まれる
呂布と同郷 強い男の名産地に生まれる
後に魏の名将として名をのこす張遼は、并州(へいしゅう)の生まれです。この出身地が、張遼の強さを語るうえで重要になります。
并州は、現代の山西省や内モンゴル自治区の一部をふくむ地域です。当時の中国(漢民族の世界)が、北のモンゴル系異民族の領域と接する地点でした。そのためこの一帯で生まれ育つ男たちは、モンゴル流の騎馬民族の戦い方を身につけることとなり、馬や弓を使った戦いを得意としました。
ちなみに三国志最強の武将・呂布もまた、この地域の生まれです。并州出身者の武勇のほどがうかがえるでしょう。
この張遼ははじめ、并州の長官であった丁原(ていげん)に仕えます。丁原の軍は并州の強い男たちを多くそろえており、同郷の呂布も在籍していました。ここで呂布と一緒になったことが、張遼の運命を大きく変えることになります。
こう考えると、丁原という人はなかなかスゴイのかもしれません。呂布に張遼、三国志に名を残す歴史的な猛将たちを見出し、自分の部下にしているのです。
最初の主人 丁原
■ 最初の主人 丁原
最初の主人 丁原
張遼の最初の主人であった丁原は、強い男たちを率いているだけあって、彼自身も勇猛な人物でした。貧しい出身ながら武勇に優れていた丁原は、盗賊や反乱軍の鎮圧で功績をあげ、地方の長官にまで出世します。まさに腕ひとつで、乱世に頭角を現したのですから、なかなかの武人と言えるでしょう。
この丁原のもとに、なぜ呂布や張遼のような強い武将が集まったのか? まずひとつは并州には武勇に優れた人材が豊富にいたことがあるでしょう。なにしろ普通の漢民族より、騎馬でも弓でも優れている武人が多くいたのです。
さらにもうひとつ、丁原自身がたたき上げの軍人であることです。家柄も財産もなく、ただ戦いだけでのし上がってきた男なので、武将を見る目は確かだったと言えるでしょう。
こうしてみると、張遼の最初の主人である丁原、自身も戦に強いうえ、呂布や張遼といった猛将たちをかかえています。あの劉備(玄徳)が関羽と張飛を従えているようなものですよね。となれば、三国志の勢力争いで結構いいところまで行きそうな気もしますが…そうは問屋がおろさなかったのです。
2人目の主人 董卓
■ 2人目の主人 董卓
2人目の主人 董卓
并州を治めていた丁原ですが、乱世の時代のうねりは、地方の長官をも巻き込んでいきます。
当時、後漢王朝の朝廷でははげしい権力争いが起きていました。政争の当事者のひとり、大将軍・何進(かしん)は、地方の有力者たちに加勢させようと考え、軍を率いて都に来るように命じました。こうして丁原もまた、呂布らを率いて首都・洛陽(らくよう)に入ります。このとき同じように呼び集められた武将に、あの「三国志の魔王」董卓もいました。
この後、事態が急変し、武将たちを呼び集めた張本人の何進が、殺されてしまいます。都は大混乱となり、そのどさくさにまぎれて董卓が政権をにぎったのです。
天下を取ったとはいえ、董卓の兵力は不足していました。そこで董卓は「他の有力者(豪族)を殺し、その軍勢をうばう」という手を考え、精強なことで知られる丁原の軍をターゲットにしたのです。
ちょうど、丁原の部下には「軽はずみで乗せられやすい」人がいました。それは他ならぬ張遼の同僚・呂布でした。董卓は呂布をそそのかし、主人である丁原を殺させてしまいます。そしてその軍勢を、そっくりそのまま自分のものにしてしまったのです(乗せるほうも乗せるほうですが、乗せられるほうも乗せられるほうですね。ちなみに呂布は同じようなことを、この先も繰り返すことになります)。
これはちょっと、丁原がカワイソウな気もします……。丁原は呂布・張遼などの強い男を従えており、自身も勇猛な武将でした。しかし一方では性格が粗略(そりゃく)であったとの記録もあります。要は「いいかげんな人」だったようなのです。こういう人柄のため、強い男たちを従えながらも、最後に背かれたのかもしれません。
ともあれ、張遼にとってはいきなり主人が殺されてしまうという、とんでもない状況になったわけです。いろいろ思うところもあったのではないかと想像しますが、結局は呂布に従う形で、いっしょに董卓の配下となりました。こうして、この先しばらくは呂布に振り回される人生が続きます。
3人目の主人 呂布
■ 3人目の主人 呂布
3人目の主人 呂布
こうして張遼は呂布とともに董卓配下となりますが、董卓の政権は長続きしませんでした。
董卓は都に政治的基盤がないうえ、準備不足のまま急に天下を取ってしまったために、有力者たちの支持を取り付けるのに失敗します。さらには罪も無い少年皇帝を辞めさせるなどの強引な政治を進めたため、ついには反董卓の武将たちが決起し、都へ攻め寄せてくる事態をまねきました。
すると董卓は都を敵軍に近い洛陽から、西方の長安にうつし、さらには敵の追撃を止めるため、元首都である洛陽を焼け野原にしてしまったのです(こうした董卓の強引な政策も、それなりの事情があって行ったものでした。ご興味のある方は、筆者が担当した董卓の記事をご覧ください)。
このような暴政を続けた董卓にも、ついに最後のときがやってきます。この「暴君」にトドメをさしたのは、なんとあの呂布だったのです(呂布という人は、董卓にそそのかされて主人の丁原を殺したのに、こんどはまた主人の董卓を殺したわけです。なんだかスゴいですね)。
小説の「三国志演義」では、貂蝉(ちょうせん)という美女を用いた策略に引っかかり、呂布が董卓を殺してしまう…という展開が、序盤の見せ場として用意されています。もちろんフィクションなのですが、まったく根拠のないデタラメとも言えません。呂布は董卓の侍女に手を出していて、それが発覚するのを恐れていたという記録もあるのです。
呂布にふり回された若き日
■ 呂布にふり回された若き日
呂布にふり回された若き日
ともあれ呂布が董卓を討ち、またしても張遼は主人を失ってしまいます。彼もいろいろ思うとことはあったかもしれませんが、結局は呂布に従い、以後はその部下として働くことになります。
後に「泣く子もだまる」魏の名将として、歴史に名を残す張遼。そんな彼ですら、若いときに運命に翻弄されていたのですね。
次回は呂布のもとでの活躍、そして真の主人との出会いについてご紹介していきましょう。