三国志 外伝 絶世の美女 貂蝉(ちょうせん)

三国志 外伝 絶世の美女 貂蝉(ちょうせん)

皆さんは貂蝉(ちょうせん)という女性をご存知でしょうか。三国志 演義にその名をとどめる傾城の美女・貂蝉(ちょうせん)のはかなくも美しい生き様をご紹介します。


はじめに・・・三国志

はじめに・・・三国志

はじめに・・・三国志

三国志と聞いて、皆さんは真っ先に何を思い浮かべますか?諸葛亮、劉備(玄徳)、曹操などあまたの英雄たちでしょうか。それとも赤壁の戦いなど数々の名いくさでしょうか。どうしても名だたる武将たちの権謀術数渦巻く熱い戦いに目が行きがちですが、その陰で、ひっそりと咲きはかなくも散っていった美しき女性たちがいることをご存知でしょうか。その中でも、絶世の美女と巷間で称えられているのが貂蝉(ちょうせん)です。春秋時代の西施、前漢の王昭君、唐の楊貴妃らとともに、中国四大美女の一人に数え上げられる貂蝉(ちょうせん)。彼女は歌や舞踊に秀でた三国志 随一の美女とされております。戦乱の世に生まれ、その美しさ故、時代に翻弄された数奇な女性の人生を少し見てみましょう。

貂蝉(ちょうせん)その美しさゆえに

貂蝉(ちょうせん)その美しさゆえに

貂蝉(ちょうせん)その美しさゆえに

生い立ち

生い立ち

生い立ち

貂蝉(ちょうせん)の出生については、詳しいことはあまり知られていません。山西省忻州市、あるいは河北省邯鄲永年の出身ともいわれています。その素性は明らかではありませんが、早くに両親を亡くし孤児であったとも伝えられており、幼いころ市場で売られていたのを後漢の司徒王允に見いだされたという説が有力です。王允は、美しくまた心の優しい貂蝉(ちょうせん)を養女にし、実の娘のようにかわいがりました。身なりを整え、住まいを与え、王允自身の身の回りの世話などさせ養っていました。

美女連環の計

美女連環の計

美女連環の計

その頃、後漢末期の政治的混乱に乗じて、辺境の一将軍にすぎなかった董卓が政権を握り、傍若無人なふるまいを繰り返していました。董卓はその残虐性から人々に恐れられ、民衆も困窮していきました。その董卓から政務を任されていたのが王允です。その時の気分によって突然人民を皆殺しにしたりするような董卓の繰り返される暴挙に手を焼いていた王允は、そこで一計を案じました。

董卓は同郷の呂布という若者を養子にしてかわいがっていました。呂布は武勇に優れ、三国志でも関羽とともに一二を競う最強の武将の一人とされております。彼は董卓の身辺警護をも担っていました。王允はそんな二人を仲違いさせ、呂布に董卓を殺害させようと企てました。そこに一役買ったのが傾城の美女、貂蝉(ちょうせん)です。王允はまず呂布のもとに美しく装わせた貂蝉を遣わしました。一目見るなり、そのあまりの美しさにすっかり彼女の虜となってしまった呂布は、早速彼女と婚姻の儀を挙げます。王允の策略で、呂布の目を盗んで董卓のもとにも遣わされた貂蝉は、言うまでもなく董卓をも惑わせることに成功。見事董卓の妾となります。これが絶世の美女・貂蝉を介して、董卓と呂布二人の武将を惑わせ、仲違いさせようという「美女連環の計」と称される策略です。董卓からひどい仕打ちを受けたと涙ながらに呂布に打ち明ける貂蝉。無理やり妾にさせられたと思い込んだ呂布は、怒りを爆発させます。また一方で董卓も呂布と貂蝉二人の仲を怪しんでおり、東屋で思いがけず呂布と遭遇した際、事実やいかにと彼に詰め寄りましたが呂布は明確な返答をしなかったため、その場で呂布ののど元に剣を突き立てました。呂布はなんとかその剣をかわして逃走します。
それ以来呂布と董卓の関係はますます悪化してゆきます。お互い貂蝉は自分のものとばかりにただただ猜疑心にまみれ、嫉妬に狂い、一戦を交える機をうかがっていたのです。機は熟しました。ついにその時がきたのです。愛する貂蝉をただただ守りたい一心の呂布は養父董卓を殺害、見事王允の美女連環の計は成功しました。一見王允の見事な策略勝ちに見えますが、その実は、自分を引き取り育ててくれた養父王允の恩に報いるため、わが身の危険をも顧みず呂布と董卓二人の元へ忍んでいった貂蝉の力によるところが大きいのです。戦乱の世に生きた女性ならではの勇気と芯の強さ、また忠義を重んじる彼女の姿勢に女性として、人間としての魅力を感じます。

董卓亡き後

董卓亡き後

董卓亡き後

その後、呂布と貂蝉は夫婦として幸せな日々を送っていましたが、それもつかの間、曹操率いる魏軍に攻め込まれ、ついに孤立無援状態となってしまいます。周囲を曹操軍に囲まれ、策も尽き果て、呂布はついに貂蝉ら家族を後に残し、無謀にも一人前衛突破を試みようとします。貂蝉は、愛する夫を一人だけ死にゆかせたくないと、彼を引き留めましたが、結局城内にまで攻め込まれ、呂布は投降。曹操によって殺害されました。40歳を少し過ぎていたとされています。

後日談

後日談

後日談

その後の貂蝉(ちょうせん)について詳しいことはあまり分かっていません。歴史の常で様々な説がありますが、蜀の英雄関羽と夫婦になったという後日談まであります。

呂布亡き後、貂蝉は捕虜として魏の都、許都に送られました。かの曹操でさえそのあまりの美しさに言葉を失ったと伝えられています。当時そんな曹操と行動を共にしていた関羽が美しい貂蝉を一目見るなり惚れ込み、彼女との結婚を切望したという、なんとも英雄関羽らしくないエピソードまであるのです。無口で不器用ですが仁義に熱い猛勇関羽が、絶世の美女貂蝉を前にしてただただ赤面、うつむきながらどぎまぎしている姿を想像するだけでも、戦いに明け暮れるこの乱世、心温まる数少ないエピソードとして我々の心を和ませてくれます。また一方で、魏には行かずに呂布の後を追って自害したという説もあります。

真実の姿

真実の姿

真実の姿

このように数々の魅力的なエピソードに事欠かない貂蝉(ちょうせん)ですが、実は貂蝉という女性は実在しません。三国志には、「三国志」と「三国志演義」の二種類があります。いわゆる歴史的史実に忠実に基づいて西晋時代に陳寿によって書かれたのが「三国志」、それに対してかなり歴史が下った明代に発行された大衆向け娯楽本は「三国志演義」と呼ばれ、羅漢中によって書かれました(諸説あり)。架空の人物である貂蝉は三国志には一切出てきません。娯楽的傾向の強い三国志演義にのみ登場し、花を添えています。

エピソード

エピソード

エピソード

彼女の美しさを物語る素敵なエピソードがあります。
貂蝉が花園で月を眺めていたとき、突然そよ風が吹いてきて、雲が流れ、月を隠してしまいました。これを見ていた王允は、「月までもが彼女を見て、その美しさに気後れし、雲の後ろに隠れてしまった」と感嘆したといいます。「閉月美人」と称される所以です。またあまた居並ぶ英雄たちの誰を倒すことのできなかった暴君・董卓を殺害にまで至らしめ、見事呂布と董卓を仲違いさせたのもその美しさによるものです。董卓の妾であったとある女性がそのモデルとされ、もともと王允とは無関係であるという説もあります。

まとめ

まとめ

まとめ

いかがでしたでしょうか。三国志というと英雄たちの熱い戦いにばかり注目が集まりがちですが、その陰に多くの女性たちの美しくもはかない人生がありました。2002年には中国甘粛省に貂蝉湖公園が設立されました。高さ2.8メートルの、上質な白玉で作られた美しい貂蝉の彫像を目にすることができます。英雄たちの武勇伝ももちろん魅力ですが、歴史の陰でひっそりと咲いては散っていった女性たちに思いをはせてみるのもいかがでしょうか。三国志のまた違った面白さが見えてきます。





この記事の三国志ライター

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