三国志の中には関羽や張飛などの豪傑が揃う中、一際その無双ぶりを放ち三国志の歴史に名を深く刻んだ豪傑中の豪傑、呂布。字は奉先。ある種不気味な光を放つ呂布は、武勇にまつわる様々なエピソードはもちろん、可愛がってもらっていた丁原を斬り殺し、次の主となった董卓は女性問題から董卓をも殺害。その後、放浪しながら最後は目の敵にされていた曹操の前に最後を迎えます。自分の欲望のままに突き進んだ武将、呂布は三国志を面白くした武将の一人です。
可愛がってもらった主を裏切った男、呂布
■ 可愛がってもらった主を裏切った男、呂布
可愛がってもらった主を裏切った男、呂布
呂布は五原九原にて生まれました。今でいうと内モンゴル自治区。父や母、先祖にまつわる記述が残っていないことから孤児だったのではないかと言われています。呂布は成長をするにつれて強靭な肉体を持つ巨漢となってゆきました。腕っぷしが強いだけではなく、生まれた環境のせいか、とりわけ馬術や弓術に優れていました。そんな呂布のもとに洴州刺史に任じられた丁原がやってきて、呂布の豪傑ぶりを一目見て気に入り自分の家臣とします。呂布はもともと野心的な性格であり、また自意識も一際強い男。自分の持って生まれた才能を小さな世界だけで振るうのは勿体ないと常々考えていた呂布は、この丁原の申し出を快諾。そして呂布は最初の主となる丁原の幕僚となりました。その後、西暦189年に霊帝が死去し、それに乗じて宮廷の体制を変えたいと思った大将軍何進は、丁原や董卓を洛陽に呼び寄せました。忠義を重んじる丁原はこの申し出を受け呂布を連れて洛陽に入りますが、呼び寄せた張本人である何進が宦官達の策略によって殺害。これによって何進の部下だった袁紹らが宦官を殺害。そして洛陽は混乱を迎えます。そんな混乱に乗じて自分の野望を果たそうとする人物が現れます。三国志の嫌われ者、董卓です。少帝を保護した董卓は帝を盾にして次々に横暴な振る舞いを行ないます。そんな振る舞いを許せなかった丁原は呂布を引き連れて董卓のもとに向かいます。その頃には呂布の武勇は董卓に知れ渡っていて、董卓は呂布を前にして最初こそひるみますが、次第にそんな豪傑を自分の配下に迎えたい欲望に駆られ、そしてそれを実行に移します。董卓は呂布に一日に千里を駆けるといわれる名馬「赤兎馬」と黄金を呂布に渡して丁原を斬って自分に下れと買収を計ります。野心が強いだけでなく、物欲も強かった呂布はこれを受け入れ、あっさりと自分を可愛がってくれた丁原を斬殺。そして董卓軍に下ります。
赤兎馬にまたがり反董卓軍を脅かした飛将、呂布
■ 赤兎馬にまたがり反董卓軍を脅かした飛将、呂布
赤兎馬にまたがり反董卓軍を脅かした飛将、呂布
名馬「赤兎馬」を董卓から与えられた呂布は、今度は董卓に可愛がられます。そこには簡単に主を裏切ってしまう軽薄な呂布が、再び自分を裏切るともかぎらないため、出来る限り厚い待遇をしようという董卓の思惑もあったかと思います。そこで董卓は呂布と親子の契りを交わし、自分を父と呼ばせました。
また董卓は呂布を側近として重宝し、常に一緒に行動させました。その頃、董卓の横暴に対し袁紹や曹操らが各地の武将に檄文を飛ばして仲間を募り「反董卓連合」が結成されました。その中にはまだ世に広く名前を知られていない劉備(玄徳)も加わっています。そして劉備(玄徳)の下には義兄弟である関羽や張飛といった名だたる豪傑が揃っています。反董卓軍が勢いに乗じて洛陽に攻め入ろうとすると、董卓もそれに対抗。呂布に継ぐ豪傑であった華雄を戦場に送りますが、勢いに乗った反董卓軍の前に破れ、ついに呂布を送ります。赤兎馬にまたがった呂布は並みいる豪傑たちの前でその豪腕を振るい、状況は一時膠着状態に。そこで董卓は次の手を打ちます。首都であった洛陽を焦土させ、長安に遷都します。この時、董卓は出来る限りの財産を持って長安へ移動。反董卓軍は荒らされた洛陽に入り、董卓の横暴にさらに怒りを募らせますが、それと同時にいろいろな武将が集まったためか、反董卓軍の中で小競り合いが起き亀裂が生じます。やがて反董卓連合は自然解散を迎え、そこからは各々がこの乱世を統一せんと各地の諸侯が野望を燃やしていきます。長安に遷都した董卓は相変わらず横暴を振るい続けていきますが、そこに董卓に怒りを抱く一人の男が董卓の暗殺を企てます。司徒である王允です。
女性関係から義理の父である董卓をも斬殺
■ 女性関係から義理の父である董卓をも斬殺
女性関係から義理の父である董卓をも斬殺
親子の契りを交わした董卓と呂布ですが、呂布には董卓に隠していることがありました。野望や物欲に加え、色欲も強かった呂布は董卓に仕える侍女と関係を持つようになったのです。そんな呂布の弱みに付け込んだのが王允。董卓の暗殺を計るために王允は呂布に近づき盛大にもてなします。ガードの緩んだ呂布は自分の悩みを思いきって王允に打ち明けます。王允の思う壷です。王允はその侍女と一緒なることを呂布に勧めますが、親子の契りを交わした董卓にそんなことは出来ないと粘る呂布に対し、「あなたがたは形こそ親子であっても血肉を分けた間柄ではなく、あかの他人同士ではないですか」と呂布を口説き落とし、呂布はまたも私欲のため董卓の殺害を企てます。そんな状況になっているとは知らない董卓はいつものように参内すると王允たちの手によって城門内に閉じ込めれます。そして呂布自ら義理の父親である董卓を斬殺してしまいます。これによって長安は平和を迎えたように思えましたが、王允に対して怒りを募らせた李傕らが手勢を引き連れて蜂起。この状況を鎮圧させるために呂布が向かいますが、数で勝る李傕軍の前に破れ、長安を後にしてしまいます。この董卓と呂布を巡る女性問題ですが、その時の女性が三国志随一の美女だと言われる貂蝉ではないかという説もあります。しかしこれはこの話を面白くするためにした後に付け加えられた架空の女性ではないか、という噂もあります。
転々と放浪を続けた呂布の最後
■ 転々と放浪を続けた呂布の最後
転々と放浪を続けた呂布の最後
丁原を裏切り、董卓をも裏切った呂布は長安を離れ落ち着ける場所を見つけるために各地を放浪します。最初に頼ったのは袁術。追い返しはしないものの、2人の主を裏切った呂布を自軍に取り込もうとはしませんでした。しかし呂布が袁術の領内で好き勝手に振る舞い始めると袁術は呂布を追い出しにかかります。その状況を察知した呂布は袁術のもとを離れ次なる地へ移っていきます。
その後、反董卓軍であった袁紹を頼るも追い払われ、今度は張邈のもとへ。そこで曹操の元参謀だった陳宮の策で、遠征のために留守中だった曹操の領土である兗州を攻め落とします。怒りに満ちた曹操は呂布から再び兗州を奪い返すために戦力を差し向け、その結果、曹操の粘り勝ち。
呂布は再びはじき出される形で放浪し、今度は徐州の劉備(玄徳)を頼ります。劉備(玄徳)は呂布を受け入れますが、ここでも呂布は自分の欲をこらえきれず、逆に徐州を劉備(玄徳)から乗っ取ってしまいます。
そのころ、袁術と交戦中だった劉備(玄徳)は自分の領土も奪われ、さらに迫り来る袁術の軍勢を察知すると今度は呂布に降伏し徐州へ身を置きます。そこへ進軍してきた袁術の紀霊は劉備(玄徳)を差し出せと呂布に迫りますが、呂布がそこである一つの提案をすることに。自分が放った矢が遠くに刺さった銛に見事当たれば、天が劉備(玄徳)を味方したと思って軍を引けと紀霊に提案します。当たるはずはないと思った紀霊はその提案を受けますが、呂布は見事その矢を銛に命中させます。劉備(玄徳)を救い、またゆくゆくは自分自身を救う形となって呂布の策は成功しますが、それでも呂布は徐州の人々から嫌われていました。
そんな中、呂布に反感を持っていた陳登陳珪親子の策によって呂布軍は下邳へと追い込まれることに。その時を待っていた曹操は自ら軍を率いて呂布軍へ攻略を試みますが、下邳は難攻不落の城。戦いは長期戦となりますが篭城のために暗く沈みがちのムードを変えようと呂布の家臣であった候成が残りわずかとなった酒を振る舞いまい士気を高めようとします。しかしこれが呂布の怒りを買い候成は罰を受けます。そして候成は曹操へと下っていきます。このことがきっかけとなり、呂布は曹操に降伏し斬首されてしまいます。
呂布は、押さえきれない野心や欲のために主を裏切り続け、女性にうつつを抜かし、様々な場所で厄介者扱いをされるという散々な生涯であったにも関わらず、今になっても私たちを魅了する人物の一人であるといえます。ある意味、自分の感情に従い続けてきた呂布はストレートで分かりやすく、また子どものような無邪気さをもった豪傑だったのではないでしょうか。私もそんな呂布のような生き方に、どこか魅了されてしまう一人です。