王允と呂布から見る処世術!

王允と呂布から見る処世術!

歴史からいろいろなものを学んで現代社会に役立たせなければいけないということは多々あります。戦国の時代と言えど現代にも通づる考え方は多岐にわたって存在します。王允と呂布を参考に処世術を学んでみましょう。


どうしようもできない董卓

どうしようもできない董卓

どうしようもできない董卓

内政のトップである王允(役職は司徒)は漢王朝が滅びようとしていることしているのを嘆いていた。そしてその原因は全て董卓にありとしていた王允は策を立てる。その策が曹操よる董卓暗殺だ。いつも董卓の傍らにいる最強武将呂布が董卓のところから離れ、寝ているすきに暗殺しようとした。しかし王允から授かった宝剣を振り上げた瞬間董卓にその姿を見られてしまい、とっさに「この宝剣を献上します」と言ってあっけなく暗殺失敗。
その後も董卓の悪行の限りを尽くしいよいよ誰も董卓に手が付けられなくなった。
そんな中出た策が反董卓連合を結成することだった。

反董卓連合崩壊

反董卓連合崩壊

反董卓連合崩壊

反董卓連合は袁紹、曹操を中心とし、袁術、孫権、公孫瓚が集まった。さらには劉備(玄徳)もこれに加わりまさに三国志のオールスターと言ったメンバーが集結し董卓に勝るとも劣らぬ巨大戦力を作り上げることができた。
両軍の力は拮抗し各地で勝ったり負けたりと言った戦が続いていた。そうなってくると不利になってくるのは反董卓連合軍の方だ。
結託しうまくいっていればいいが敗戦が起きると一枚岩になりきれない反董卓連合軍は内輪もめが起きてしまい董卓を討ち破ることはできなかった。結局反董卓連合軍という夢のような軍は空中分裂した。

王允の登場

王允の登場

王允の登場

それでも董卓の悪行を見逃すことができない王允は次の一手を打つ。董卓軍が強い理由として一つ挙げられるのが呂布の存在ということに着目した。「人中の呂布、馬中の赤兎」(人間では呂布が、馬では赤兎馬が最上とする言葉)ができるほど最強の武将だった。実際虎牢関の戦いでは方悦、穆順、武安国、公孫瓚の軍を次々と撃破した。この戦いで最終的に呂布を止めたのは劉備(玄徳)、張飛、関羽の軍だった。とは言えここで呂布を討てたわけではなく、引き分けに終わった。
そんな呂布がいたため董卓を討つのは至難の業だった。そこで王允がとった策は呂布を董卓と仲たがいさせて二人の関係を裂くことだった。

連関の計が見事にはまる!

連関の計が見事にはまる!

連関の計が見事にはまる!

連関の計とは「美人計」と「離間計」を連動させた作戦名である。
王允はまず呂布を自宅に招いて貂蝉に引き合わせた。貂蝉は「中国四大美人」と称されるほどの美人で呂布を魅了するのは容易かった。ちなみに中国四大美人は、春秋時代の西施、漢時代の王昭君、後漢時代の貂蝉、唐時代の楊貴妃とされている。王允は呂布に対し「貂蝉を嫁がせたい」と申し出るのだった。
話はそこで終わりではない。王允は次に董卓を自宅に招き貂蝉と引き合わせなんと董卓に貂蝉を献上してしまったのだ。

王允の策が炸裂!

王允の策が炸裂!

王允の策が炸裂!

呂布としては「約束が違う」と王允に詰めよる。王允は「董卓様は呂布将軍に貂蝉を娶らせることに承知している」という嘘をついた。王允の策にはまった二人は貂蝉を取り合うこととなり仲たがいが勃発する。
さらに王允は嘘を重ねた。董卓に対して「献帝が董卓に皇位を譲りたい」といい董卓を長安城に向かわせた。まんまと罠にかかった董卓は長安城に入ったところで王允たちに囲まれた。最後は呂布が董卓の背後に現れて喉を刺し抜いたとされる。
王允の策略が見事にはまり、ようやく董卓という三国志史上最強の悪人を討つことができたのである。

貂蝉の話

貂蝉の話

貂蝉の話

董卓を討つのになくてはならない貂蝉であるが実は架空の人物とされている。もちろんモデルはいるのであるが董卓の侍女だった。王允の計算通り動く貂蝉は見事董卓と呂布の仲を裂くことに成功させた。実際董卓は呂布に貂蝉を与えてもいいと考えていた。しかしそうなってしまったら二人の仲は割れず丸く収まってしまう。そうなっては董卓討伐は一層難しくなってしまうと思った貂蝉は機転を利かせ「私は呂布のもとに行きたくない」といい董卓に自分を守ってくれるよう懇願する。それにより貂蝉、董卓、呂布の感情が複雑に絡み合い見事王允・貂蝉の思惑は成功するのであった。
この策は王允の思惑通り行ったわけだが貂蝉の機転が利いたおかげでうまくはまったと言っても過言ではないだろう。現代で言うハニートラップのようなものだが、貂蝉は容姿だけでなく頭の切れもよかったと考えるのが妥当だ。

最後にどうなったか~呂布~

最後にどうなったか~呂布~

最後にどうなったか~呂布~

さて、董卓を見事討ち取った呂布と王允だが二人のその後はどうなったのか。まず呂布の方から見てみよう。
呂布は董卓軍から追われることになったが見事逃げ切ることになる。その後も裏切りと持ち前の武力でその後も長きにわたり続く三国志を盛り上げることとなる。そういうところも最強の武将と言われる所以なのかもしれない。
「こいつはいつか裏切られるかもしれない」と思われながらも「こいつを仲間にしておけば相手の大将軍を討つことができる」そう思わせてくれる呂布はやはり魅力的なのだろう。さらに
そう思わせる背景に自己PRがうまかったのではないかというのが予想される。強いだけでなく世渡り上手。現代でも参考になりそうな呂布の処世術は見習うべき点がある。

最後にどうなったか~王允~

最後にどうなったか~王允~

最後にどうなったか~王允~

一方王允はここで董卓軍の残党兵に討たれることになる。王允は「危機に際し、逃げることはできない」と言い人生の最後を迎える。潔いと言えば潔いが、呂布との違いはここかもしれない。もし王允が生き延びたら今後彼の知略により歴史は変わっていたかもしれない。しかし、歴史に「たら、れば」を使ってしまったら歴史にならないかもしれないがもうちょっと王允の奇抜な作戦というのを見てみたかったというのが筆者の個人的な感想である。

潔い王允はここで終わり、よほどの三国志ファンでしか分からない存在となる。逆に貪欲に生き延びようとする呂布は世界にその名を刻み後世にまで語り継がれる。二人の生きざまの違いは面白いものではないだろうか。

まとめ

まとめ

まとめ

董卓を討つため、オールスターともいえるメンバーが集結し、反董卓連合を作った。
しかし呂布を傍らに置く董卓軍は難攻不落で打つ手がなく、結局先に反董卓連合の瓦解が起き董卓の討伐は困難を極めた。
そこで出てきたのが王允。中国四大美人と称される貂蝉を使い董卓と呂布の仲たがいに成功させる。
王允の策略にはまった呂布は董卓を討ちとってしまう。
呂布は持ち前の能力と処世術により董卓軍の襲撃をかわし生き延び今後の三国志を大いに盛り上げる。
王允は潔く逃げずここで三国志からの舞台からおり、その知略を今後に役立てることはなかった。





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