荊州にて人望を集める日々
■ 荊州にて人望を集める日々
荊州にて人望を集める日々
201年、新野の城では、劉備が着実に基盤を築いていた。
彼のもとには、関羽、張飛、趙雲といった歴戦の勇将たちがおり、その人徳を慕う者も少なくなかった。
ある日、劉備が町を巡視していると、一人の老農が近づいてきて言った。
「劉備様、あなたが来られてから、賊の襲来が減り、年貢の取り立ても穏やかになりました。これこそ仁政というものです」
劉備は深く頭を下げた。
「私はただ、人として当然のことをしているまでです。この地の平和が、一日でも長く続くことを願うばかり」
しかし、内では深い焦りがあった。
歳月が過ぎるごとに、曹操は北で勢力を拡大している。
自分は、このまま劉表の客将として、平和な日々を送っていていいのか。
天下の民を苦しみから救うという大義は、いったいどこへ行ってしまったのか。
夜、独り書斎に座り、天を仰ぐ。
「私はいまだ、龍が昇るべき雲を得ていない。水はあれど、天に駆ける風がない」
その風が現れるのは、まだ少し先の話だった。
冬の茅廬
■ 冬の茅廬
冬の茅廬
建安十二年、冬。
新野の城は、浅い雪に覆われていた。
劉備は書斎で、地図を見つめながら深く息をついた。荊州北部の守りを任されてから数年、歳月だけが過ぎていく。北では曹操が華北を統一し、その視線は確実に南へと向けられている。
「私は何をしているのか……」
窓の外では、関羽と張飛が兵士を訓練する声が聞こえる。信頼できる義兄弟と、わずかな手勢。仁徳を慕って集まる民は増えても、天下を動かすほどの力はない。
「皇叔、またそんな顔を」
簡雍がそっと声をかける。
「憲和よ、私はまるで籠の中の鳥のようだ。翼はあるが、飛ぶべき空を知らない」
その時、一人の客が劉備を訪ねてくる。水鏡先生こと司馬徽だった。
「玄徳公、ご無事で何よりです」
「水鏡先生、こんな雪の中、よくいらしてくれました」
温かい茶をすすりながら、司馬徽は静かに語り始める。
「この地には、伏龍と鳳雛と呼ばれる二人の俊英がおります。どちらか一人を得れば、天下は安らかになるでしょう」
劉備の目が輝く。
「そのお方はどこに?」
「伏龍は諸葛亮、孔明と名乗る若者。襄陽の西、隆中に草廬を構え、晴耕雨読の日々を送っております。年は二十余りですが、その才は管仲や楽毅にも匹敵すると噂されています」
司馬徽が去った後、劉備は直ちに関羽と張飛を呼び寄せる。
「雲長、益徳、私を隆中に連れていってくれ。天才の軍師に会いに行く」
張飛は満面の笑みを浮かべる。
「はは、ついに面白いことが始まるな!すぐに馬を用意する!」
関羽は冷静にうなずいた。
「評判だけの人物かもしれませんが、兄上があそこまで言うなら、付き従いましょう」
初めての訪問
■ 初めての訪問
初めての訪問
雪の降る道を、三人は馬を進めた。
山あいの小さな村に、茅葺き屋根の粗末な家が見えてくる。
「ここが、かの諸葛亮の住まいか」
劉備は戸を叩く。
出てきたのは、若い小作人らしい男だった。
「ご主人の諸葛亮さんにお目にかかりたいのですが」
「申し訳ございません。主人は今朝、友人を訪ねて出かけております。いつお帰りになるかも……」
張飛が舌打ちする。
「ついてないな、兄者。帰ろう」
劉備はため息をつき、懐から短冊を取り出す。
「では、これをご主人に渡してほしい。劉備が訪ねたと」
短冊には、たった一行がしたためられていた。
「漢室末裔、劉備玄徳、賢才を求めて参ず」
帰り道、張飛が不平を言う。
「一体どんな偉い人物だ?わざわざ会いに行ったのに、留守とは!」
関羽がたしなめる。
「益徳、賢人は簡単には会わぬものだ。それだけの価値があると心得よ」
劉備は振り返り、雪に覆われた茅廬を見つめた。
「必ずまた来よう。たとえ十度でも」
二度目の挫折
■ 二度目の挫折
二度目の挫折
春が訪れ、新野の柳が芽吹く頃、劉備は再び隆中へ向かった。
「今度こそ会えるだろう」
張飛も期待に胸を膨らませている。
しかし、運命は残酷だった。
応対に出てきたのは、前回と同じ小作人ではないか。
「ご主人はまたしても外出されておりまして……」
「どこへ?」
「名も告げず、ただ旅立たれました」
張飛の我慢は限界に達していた。
「ふざけるな!わざと逃げ回っているのではないか!こんな田舎者、放っておけばいい!」
「益徳!」
劉備の一声に、張飛はうつむく。
関羽が冷静に分析する。
「兄上、もしかすると本当に不運なだけかもしれません。しかし二度も空振りとは……わざとらしくも感じます」
劉備は再び短冊を残す。
前回と同じ言葉の下に、新たに一行を加えた。
「再び参ず。是非を請わんと欲す」
帰路、劉備は沈黙を守った。
疑念が胸をよぎる。もしかすると、諸葛亮は会う気がないのかもしれない。あるいは、本当に大した人物ではないのか。
しかし、司馬徽の言葉が脳裏に響く。
「伏龍と鳳雛、どちらか一人を得れば、天下は安らかになる」
「……もう一度だけ」
劉備は呟く。
「もう一度だけ、訪ねてみよう」
三度目の真実
■ 三度目の真実
三度目の真実
それから数ヶ月、劉備はじっと時を待った。
秋が深まり、紅葉が山を染める頃、彼は決意する。
「雲長、益徳、もう一度だけ付き合ってほしい」
張飛は憤慨する。
「兄者!あんな傲慢な者、縄で縛って連れてくればよい!わざわざ三度も出向くことはない!」
関羽も同意する。
「確かに、兄上の身分を考えれば、これ以上は沽券に関わります」
劉備は二人の肩に手を置く。
「私が天下のために膝を屈するのは、恥ずかしいことではない。もし真の賢才なら、十度でも二十度でも訪ねよう。お前たちの兄は、そんなに度量の小さい男か?」
二人はしばし黙り、やがて深々と頭を下げた。
三度目の道は、前とは違って見えた。
まるで山そのものが、真摯な訪問者を迎え入れているようだった。
茅廬の前にたどり着くと、小作人が待ち構えていた。
「ご主人はおります。どうぞお入りください」
天下三分の計
■ 天下三分の計
天下三分の計
草廬の中は、驚くほど質素だった。
書物が積まれ、地図が壁に掛けられている。
そして、部屋の中央で、若い男が目を閉じて座っていた。
目を開けると、その瞳は深い知性に満ちていた。
「劉備様、ついにご対面できました」
声は穏やかだが、芯の通った響きがあった。
「孔明先生……」
劉備は感極まり、言葉を詰まらせる。
「三度も足を運んでくださるとは、恐れ多いことです」
諸葛亮は深々と頭を下げる。
「実は、初めの二度は確かに避けておりました」
「なぜです?」
「劉備様が、どのような方かを確かめたかったのです。一度や二度の挫折で諦めるような方なら、私の力を必要とされないでしょうから」
張飛が口を開こうとするが、関羽に制止される。
諸葛亮は続ける。
「しかし、三度目に雪の中をやって来られるのを見て、わかりました。劉備様こそが、私が仕えるべき主君だと」
劉備の目から涙がこぼれた。
「先生……どうか、この愚かな私を導いてください。漢室は傾き、民は苦しんでいる。どうすればよいのか、もうわかりません」
諸葛亮は静かに立ち上がり、壁の地図の前に立つ。
「では、天下の形勢を申し上げましょう」
彼の指が地図の上を滑る。
「まず曹操。百万の軍勢を擁し、天子を奉じて諸侯を号令しています。今すぐ対抗することはできません」
「次に孫権。江東に三代続く基盤があり、民も心を寄せています。これも味方にすることはできませんが……」
ここで諸葛亮の目が鋭く光る。
「援軍として頼ることはできます」
劉備の息が詰まる。
「では、我々はどこへ向かえばよいのでしょう?」
関羽が真剣な面持ちで尋ねる。
諸葛亮の指が、荊州と益州を指す。
「ここです」
「まず、荊州。北は漢水、沔水に臨み、南海の利を尽くし、東は呉や会稽と繋がり、西は巴や蜀に通じる。これは用兵の地であり、その主・劉表は守ることもできません。これは天が将軍に与えた土地です」
「次に益州。険しい土地で肥沃な野は千里、天府の土と呼ばれます。高祖皇帝(劉邦)はここを拠点に天下を統一されました。その主・劉璋は暗愚で、民は困窮しています。賢君を待ち望んでいるのです」
張飛が興奮して立ち上がる。
「つまり、この二州を手に入れろというのか!」
諸葛亮はうなずく。
「荊州と益州を手に入れた後は、西の諸戎、南の夷越を和睦させ、外には孫権と結び、内では政治を修めます」
「そして時機を見て――」
諸葛亮の声が力強くなる。
「一軍を荊州から率いて宛や洛陽へ向かい、もう一軍を益州から率いて秦川へ出る。そうすれば、霸業は成就し、漢室は再興されるでしょう」
静寂が部屋を包んだ。
劉備は震える手で顔を覆う。
涙が止まらない。
「これが……これが私が探し求めていた答えだ……」
長い間、暗闇の中で手探りしていた。何度も敗れ、何度も逃げ、ただ「民を救いたい」という思いだけを頼りに生きてきた。
そして今、この若き軍師が、明確な道筋を指し示してくれた。
「先生!」
劉備はひざまずく。
「どうか、私と共にこの道を歩んでください!この劉備の、愚かで未熟な主君でよければ!」
諸葛亮もひざまずき、劉備の手を取る。
「私は、野に伏していた一匹の龍に過ぎません。しかし劉備様が、私を天へ昇らせてくださるのであれば……」
「私の全ての知恵を、全ての力を、劉備様と天下万民のために捧げましょう」
関羽と張飛も、自然とひざまずいた。
涙さえ浮かべる張飛の顔は、感動に輝いている。
「先生……私、張飛はがさつで無学ですが、この命、先生と兄者のために使わせてください!」
関羽は深く頭を下げる。
「関羽もまた、この剣を先生のご策略のために捧げます」
その日、草廬を出る時、夕日が山々を黄金に染めていた。
劉備は振り返り、茅廬を見つめる。
「先生、ここで暮らす日々に、未練はありませんか」
諸葛亮は穏やかに微笑む。
「晴耕雨読の日々も良いものでした。しかし、書物の中の天下を救うより、現実の天下を救う方が良いでしょう」
四人は馬に乗り、新野へと向かう。
道すがら、諸葛亮が言う。
「まずは荊州の情勢を整えましょう。そして孫権との連携を模索します。曹操が南へ下ってくるのは、時間の問題ですから」
劉備は深くうなずく。
「全て、先生のご指示に従います」
背後で、張飛が関羽に囁く。
「雲長、なんだか……ついに、本当の戦いが始まる気がするな」
関羽は目を細めて前方を見つめる。
「ああ……長かった流浪の日々に、終わりが告げられる。そして新たな戦いの始まりだ」
劉備は胸を張って馬を進める。
これまで何度も敗れ、何度も逃げてきた。
しかし今回は違う。明確なビジョンと、天才の軍師がいる。
暗かった未来に、一筋の光が差し込んだ。
長く苦しい道のりではあるが、確かな道筋が見えた。
天下三分の計――
それは、ただの戦略ではなかった。
劉備と彼に従う者たち全てに、希望を与える壮大な物語の始まりだった。
やがて来るべき戦いのために。
そして、乱世に喘ぐ民すべてのために。
新野の城へと続く道を、四人の影は夕日に長く伸びていく。
歴史は、この日から、新たなページをめくり始めるのである。
古代の雑学を発信