建安五年、冬。
官渡の野に、ようやく静けさが戻りつつあった。
十万の大軍を打ち破った陣営には、勝利の余韻と疲労が入り混じっている。
しかし、一人の男の目に安堵はなかった。
曹操。
地図を見つめるその瞳には、すでに「次」が映っていた。
袁紹の名の横に、もう一つの名が刻まれている。
――劉備。
「勝った。確かに勝った。だが、袁紹はまだ生きている。そして……あの男も、まだ生きている」
脳裏に甦るのは、ほんの数ヶ月前の記憶。
徐州で独立した劉備を、袁紹との決戦を控えた緊迫の最中に、自ら急襲したあの戦い。
劉備は敗走した。しかし、その影は消えなかった。
あの男は、何度叩き潰しても立ち上がる。
城を失い、兵を失い、家族すら奪われても、不死鳥のように甦る。
「全てを終わらせる。袁紹も、劉備も。この乱世の終止符は、私が打つ」
その決意が、苛烈な時代の次の幕を開けた。
引き裂かれた義兄弟
■ 引き裂かれた義兄弟
引き裂かれた義兄弟
時は少し遡る。
徐州・下邳。
劉備は袁紹からの密使と向き合っていた。
「玄徳公。今こそ手を携え、曹操を南北から挟み撃ちにすべき時です」
張飛が声を荒げる。
「兄者! ようやく徐州を取り戻したというのに、また戦か!?」
劉備は静かに首を振った。
「益徳よ。我々だけでは曹操には勝てぬ。袁紹の大軍と連携するのだ」
だが、その作戦は実行に移される前に粉砕された。
軍師・郭嘉の進言を受けた曹操は、袁紹の動きが鈍い一瞬の隙を突いて、劉備を急襲する。
「まさか……ここまで速く来るとは!」
曹操自ら率いる精鋭が、嵐のように徐州に押し寄せた。
戦いは一方的だった。
劉備軍は蹴散らされ、劉備は命からがら逃走する。
そしてこの日、三人の兄弟は引き裂かれた。
関羽は下邳城に残され、曹操の策に囲まれ、進退窮まる。
張飛は乱戦の中で劉備を見失い、山中へと姿を消した。
劉備は――ただ一人、北へ。袁紹を頼って。
妻子も、義弟も、兵も、城も。
すべてを置いて、劉備は逃げた。
逃げるしかなかった。
曹操と関羽
■ 曹操と関羽
曹操と関羽
曹操は、捕らえた関羽を殺さなかった。
それどころか、手厚く遇した。
邸宅を与え、金を贈り、宴に招いた。
曹操には、関羽という男の価値が分かっていた。
一騎で万人に匹敵するその武勇。揺るがぬ忠義の心。
この男が本気で自分に仕えるなら、天下統一の歩みは一気に加速する。
「雲長よ。私と共に天下を治めよう。劉備に未来はない」
関羽は重い口を開いた。
「曹公の厚情、感謝する。――だが、私が降ったのは、皇叔の家族をお守りいただけるという条件あってのこと。いずれ皇叔の所在が分かり次第、私は去らねばならぬ」
曹操は苦笑した。
「ほう……それでもよい。時が来れば、私の真心が分かるだろう」
曹操は、関羽をつなぎ止められると思っていた。
恩義を積み重ねれば、いずれ心が動く。そう信じていた。
しかし曹操は、一つだけ見誤っていた。
関羽にとって「恩義」とは、受けるものではなく、すでに捧げているものだった。
桃園で劉備と交わした誓い。あの日の約束。
それは、天下の富をもってしても、買い換えることのできないものだった。
戦場で見た顔
■ 戦場で見た顔
戦場で見た顔
袁紹の本陣。
劉備は憔悴しきっていた。
雲長は今、どうしているのか。
益徳は生きているのか。
何も分からない。何もできない。
ただ他人の陣営に身を寄せ、焦りと悔恨に苛まれる日々。
ある日、報せが入った。
袁紹軍の勇将・顔良が、白馬の戦いで討ち取られたという。
「何だと!? 顔良を討ったのは誰だ!?」
斥候が震える声で答える。
「赤い顔に長い髯の大男……名は、関羽と申します」
劉備の心臓が凍りついた。
関羽が――曹操の将として、袁紹軍と戦っている。
自分がいるこの陣営の将を、義弟が斬ったのだ。
袁紹が激昂する。
「劉備! お前の義弟が、わが大将を討ったというではないか!」
劉備は平静を装った。そうするしかなかった。
「袁公、落ち着いてお聞きください。世の中に似た者は多うございます。赤い顔に長い髯の者が、皆、関羽ではございません」
苦しい弁明だった。
しかし劉備の胸の内では、もう一つの感情がせめぎ合っていた。
雲長は、生きている。
あの男は、あの激しい男は、まだ戦場に立っている。
たとえ敵味方に分かれていても――生きているというだけで、どれほど心が救われたか。
三つの道、一つの約束
■ 三つの道、一つの約束
三つの道、一つの約束
官渡の決着がつき、袁紹が敗れた。
劉備はこの混乱に乗じて袁紹のもとを離れ、汝南の地で再起を図る。
そこに、一人の武者が現れた。
乱雑な髪。汚れた鎧。痩せこけた頬。
しかし、その目だけは――どんな将軍よりも鋭く、熱かった。
「益徳……!?」
「兄者……ついに、見つけた」
張飛だった。
山賊の巣窟に紛れ、野を越え、谷を渡り、ただ劉備の消息だけを追い続けていた。
何ヶ月も。たった一人で。
二人が手を取り合ったその時、さらに蹄の音が響いた。
「皇叔! 私が参りました!」
馬上から降り立ったのは、赤い顔に美しい長い髯をたくわえた大男。
関羽だった。
曹操の厚遇をすべて返し、授かった官位を辞し、劉備の家族を連れて曹操のもとを去った。
幾つもの関所を突破し、千里の道を越えて、ここまで来た。
「雲長……!」
三人は、固く抱き合った。
言葉にならなかった。
何ヶ月も。それぞれが死地をくぐり抜けた。
張飛は山中で飢えに耐え、関羽は敵陣で孤独に耐え、劉備は他人の屋根の下で屈辱に耐えた。
それでも――三人は、ここにいる。
桃園の誓いは、嘘ではなかった。
新野の灯
■ 新野の灯
新野の灯
だが、安堵の時間は長くは続かなかった。
関羽の脱走を知った曹操は、曹仁に命じて劉備討伐の軍を差し向ける。
劉備は二人の義弟を見つめ、静かに言った。
「雲長、益徳……またしても負け戦になるかもしれぬ。だが今度は、共に戦おう」
張飛が吼えた。
「何を弱気なことを! 兄者がいて、雲長がいて、この俺がいれば、どこへだって行ける!」
関羽は静かにうなずいた。
「皇叔の行く先が地の果てであろうと、この関羽がお供いたします」
しかし、想いだけでは兵力の差は埋まらない。
劉備軍はまたも敗れた。
関羽がしんがりを務め、追手を斬り伏せた。
張飛が劉備を守り、退路を切り拓いた。
三人はまたしても、戦火の中を逃げ延びた。
けれど、今回は違った。
少なくとも、三人は一緒だった。
荊州・襄陽。
長い逃避行の末、ようやく城門の前に立った時、劉備は振り返った。
背後には、ぼろぼろの鎧をまとった二人の義弟がいる。
関羽は曹操の富と栄華を捨てて、ここにいる。
張飛は山賊の巣窟から這い出して、ここにいる。
何度敗れても。何度引き裂かれても。
必ず、劉備のもとへ戻ってきた。
劉備は目を伏せた。
「私は……この二人に、何一つ報いることができていない。ただ敗走と流浪だけを味わわせて、ここまで来てしまった」
関羽が静かに言った。
「皇叔。ご無事で何よりです。これからは、この荊州の地で、ゆっくりと力を蓄えましょう」
張飛が力強くうなずいた。
「そうだ、兄者! 今度こそ、しっかりした地盤を作ってやろうじゃないか!」
荊州の主・劉表が、三人を迎え入れた。
そして劉備は、新野という小さな町を任されることになる。
荊州の北の守り。客将としての、ささやかな居場所。
その夜。
新野の城の一室で、劉備は二人の前に深々と頭を下げた。
「雲長、益徳……私はお前たちに何も与えられなかった。苦労ばかりかけてしまった」
関羽が即座に答えた。
「とんでもない。私が従うのは、皇叔の仁義の心です。地位も領地も、そのようなものは問題ではありません」
張飛が拳を胸に当てて言った。
「兄者がいなければ、俺は今ごろどこかで無鉄砲な喧嘩をして死んでいたかもしれん。兄者がいてくれるからこそ、張飛も張飛でいられるんだ」
劉備の目に、久しぶりに光が灯った。
「そうか……ならば、もう一度だけ、夢を見よう。天下の民を苦しみから救うという、あの夢を」
新野の城に、小さな灯がともった。
風に揺れる、頼りない灯だった。
城は小さく、兵は少なく、先のことなど何も見えない。
それでもこの灯は、消えなかった。
何度踏みにじられても立ち上がる男と、
どこまでも付き従う二人の義弟が守り続けたから。
遠く北の空では、曹操が華北を統一し、すでに南を睨んでいる。
この束の間の安息が、長く続かないことは、三人にも分かっていた。
だが、今はいい。
今だけは、三人が同じ屋根の下にいる。
新たな風が吹くその日まで。
新たな知恵が、この小さな城を訪れるその日まで。
――やがてこの新野に、一人の天才軍師が現れることを、まだ誰も知らない。
三顧の礼。その物語は、もうすぐ始まる。
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