張飛
■ 張飛
張飛
張飛ってどんな武将?
■ 張飛ってどんな武将?
張飛ってどんな武将?
張飛は劉備(玄徳)や関羽と義兄弟となり、劉備(玄徳)のもとで活躍した武将です。張飛の勇猛さは有名であり、多くの人物から評価されています。しかし、酒癖が悪かったり、暴力的な一面があったりする武将です。とくに身分の低いものなどには暴虐だったとされています。まさに、張飛は猪突猛進型の武将と言ってもいいでしょう。ちなみに、勇猛な武将として名前が挙がる関羽は、自分よりも張飛の方が強いと言っており、いかに張飛の武勇が素晴らしいのかがわかります。
張飛の勇猛果敢なエピソード!
■ 張飛の勇猛果敢なエピソード!
張飛の勇猛果敢なエピソード!
張飛の勇猛果敢なエピソードと言えば、長坂の戦いが挙げられます。この長坂の戦いでは、劉備(玄徳)は逃亡し、曹操軍が追撃する戦いです。曹操の追撃軍は大軍だったのですが、張飛はわずか20騎ほどで殿を務めたのです。このときに張飛は曹操軍に対し、「張益徳これにあり、死にたい奴はかかって来い」と叫びます。曹操軍は張飛の威圧感に押され、近づくことができず、劉備(玄徳)は落ち延びることができたとされているのです。勇猛果敢な張飛だからこそ、威圧感だけで退けることができたのです。
典韋
■ 典韋
典韋
典韋ってどんな武将?
■ 典韋ってどんな武将?
典韋ってどんな武将?
典韋は、曹操に仕えた勇猛果敢な武将です。三国志演義においては、“悪来”とあだ名をつけられている武将であり、立派な体格で人並外れた怪力の持ち主と言われています。また、非常に忠誠心が強い武将としても有名です。昼間は曹操のそばで護衛し、夜も帳の横で宿衛したとされています。曹操も典韋のことを信頼しており、典韋が亡くなると涙し、その後も典韋が戦死した場所を通るたびに弔ったとされているのです。
典韋の勇猛果敢なエピソード!
■ 典韋の勇猛果敢なエピソード!
典韋の勇猛果敢なエピソード!
典韋の勇猛果敢なエピソードと言えば、典韋が戦死した戦いです。曹操は張繍の謀反を受けるのですが、このときに典韋は曹操を逃がすために戦って亡くなっています。敵は典韋が守っていた陣門から侵入することはできなかったとされています。しかし、他の門から敵は侵入し、多勢に囲まれるのです。それでも典韋は獅子奮迅の働きをし、数十の傷を負いながらも敵を両脇に挟んで撃殺しています。多勢に無勢なこともあり、戦死するのですが、死してなお敵は恐れるほど勇猛果敢な武将だったのです。
許チョ
■ 許チョ
許チョ
許チョってどんな武将?
■ 許チョってどんな武将?
許チョってどんな武将?
許チョも曹操に仕えた勇猛果敢な武将のひとりです。身長は8尺とされており、約184㎝で武勇の持ち主として有名です。曹操は許チョを信頼しており、出入りにも同行させて常に左右から離さなかったとされています。許チョも曹操を敬愛しており、曹操が亡くなると号泣して血を吐いたとまで言われているのです。その後、許チョは曹丕や曹叡にも仕えています。
許チョの勇猛果敢なエピソード!
■ 許チョの勇猛果敢なエピソード!
許チョの勇猛果敢なエピソード!
許チョの勇猛果敢なエピソードと言えば、潼関の戦いが挙げられます。曹操軍は黄河の北岸に渡河させ、曹操や許チョら親衛隊が南岸に留まっていると馬超軍に約1万に攻撃されるのです。大量の矢が降り注ぐ中、許チョは曹操を支えて船に乗せ、曹操を矢から守りながら渡河させました。さらにその後、曹操軍と韓遂・馬超軍は単騎会談を行うことになります。この会談で馬超は曹操を殺そうと考えていたのですが、曹操は従騎として許チョは連れていました。馬超は許チョの睨みに動くことができず、曹操を襲うことができなかったのです。それだけ、許チョの武勇は有名であり、勇猛果敢な武将のひとりなのです。
太史慈
■ 太史慈
太史慈
太史慈ってどんな武将?
■ 太史慈ってどんな武将?
太史慈ってどんな武将?
太史慈は、孔融や孫策、孫権に仕えた勇猛果敢な武将です。弓の名手であったことで有名であり、百発百中の名手とまで言われています。太史慈の母親の面倒を孔融が見たとされており、孔融が黄巾軍の残党・管亥に攻められると、恩を返すべく太史慈は救援に向かい助けているのです。その後、劉繇に仕え、偵察任務に就くと孫策と出くわして一騎討ちを演じています。劉繇が孫策に敗れると、太史慈は孫策の誘いを受け、孫策に仕えるようになったのです。
太史慈の勇猛果敢なエピソード!
■ 太史慈の勇猛果敢なエピソード!
太史慈の勇猛果敢なエピソード!
太史慈の勇猛果敢なエピソードと言えば、孔融を助けた際のエピソードです。太史慈は孔融の救援に駆けつけたが、管亥の攻撃は激しかったため、救援を劉備(玄徳)に依頼しにいきます。とは言え、管亥軍に囲まれているため、容易に救援依頼に行ける状況ではありませんでした。しかし、太史慈は城外で弓の練習を何度も行ない、敵兵が「また練習だ」と思い油断した隙に、単騎で敵の包囲網を突破して救援を依頼しにいったのです。油断させる作戦を思いつき、単騎で突破する勇猛さを持っている武将なのです。
甘寧
■ 甘寧
甘寧
甘寧ってどんな武将?
■ 甘寧ってどんな武将?
甘寧ってどんな武将?
甘寧は孫権に仕えた勇猛果敢な武将です。孫権に仕えるまでは、劉表の部下である黄祖に仕えていたのだが冷遇されており、甘寧は出奔して孫権に仕えるようになったのです。甘寧は「天下二分の計」を提言したとされています。また、赤壁の戦いや濡須口の戦いなどに参戦しており、数々の戦功を挙げているのです。甘寧が死去すると孫権は非常に悲しんだとされており、いかに孫権かれも信頼されていたのかがわかります。
甘寧の勇猛果敢なエピソード!
■ 甘寧の勇猛果敢なエピソード!
甘寧の勇猛果敢なエピソード!
甘寧の勇猛果敢なエピソードと言えば、赤壁の戦いでのことです。このとき甘寧は、周瑜に随行して曹操を打ち破っています。さらに、曹仁への攻撃にも参加し、手勢1000人ほどで夷陵を陥落させます。しかし、曹仁の大軍に包囲されてしまったのです。数倍もの大軍の猛攻に対し、甘寧は耐え続け、平然と談笑していたとされているのです。結果、周瑜らが状況を知り、救援に駆けつけて甘寧は助かります。数倍もの大軍の猛攻に対しても怖気づくことなく、耐え続けることができる甘寧は、まさに勇猛果敢な武将のひとりでしょう。
勇猛果敢の武将の魅力!
■ 勇猛果敢の武将の魅力!
勇猛果敢の武将の魅力!
今回は三国志に登場する人物の中でも、とくに勇猛果敢な武将を取り上げてみました。どの武将も戦場で恐れられ、活躍した武将たちです。三国志は裏での駆け引きや権謀術数も魅力ですが、男たちの熱い戦いも魅力のひとつです。今回紹介することができなかった三国志の武将のなかにも、まだまだ勇猛果敢に戦った武将が多くいます。ぜひ、三国志の登場人物の中でも、戦い抜いた勇猛果敢な武将に注目してみてください。