呉の切り込み隊長! 戦闘力が高い【甘寧】

呉の切り込み隊長! 戦闘力が高い【甘寧】

呉において、一番戦闘力が高い武将といえば、甘寧を挙げる三国志ファンも多いでしょう。ゲームなどでは実際に武力が高く、呉を攻めるとラスボスのように立ちふさがります。甘寧は魏の張遼や蜀の関羽並みに評価されており、史実でも呉の窮地を救った英雄となっています。そんな甘寧をここで紹介していきましょう。


血気盛んな若者たちのリーダー

甘寧を語る上で外せないのが、賊時代です。もともと武将の一族というわけではなく、若い頃には不良仲間を集めて賊を結成し、武装集団として徒党を組んでいました。甘寧は自身も武力に秀でており、血気盛んな若者たちのリーダーとして君臨しています。

派手な格好で街中を練り歩き、地方の有力者であっても媚びらずに歓待を受けさせるなど、強引なやり口を敷いていました。甘寧一味に逆らうと、容赦なく財産を奪うなどの暴虐をしき、鈴を付けていたことから、鈴の音が聞こえると甘寧が来ると恐れられていたといいます。

一方で犯罪が起きると、率先して摘発や粛清を行い治安維持に一役買っていたともいわれています。甘寧は長きにわたって賊生活を続けていましたが、学問にも興味を持つようになったといわれ、書物を読むようになっていきました。

荊州で兵を率いる

甘寧は手下や食客を引き連れて、荊州の劉表に赴きます。劉表は軽装で異風ないでたちをしている甘寧一派を懸念に思い、武力よりも学問を重視していたこともあって、甘寧たちを軽視していました。

甘寧は劉表の人柄を見てすぐに滅ぶことを推測しており、江夏に移って太守の黄祖に謁見しています。しかし、ここでも冷遇され、武将としてではなく、食客として扱われました。甘寧は短気で粗暴な性格であったため、すぐにキレてしまいそうですが、親分肌の甘寧は部下のために我慢をしていたと思われます。

当時の江夏は孫権も侵攻を狙っており、戦闘も起こっていました。孫権軍が優位に進めると甘寧は敗れかかったた黄祖を救援して、殿を自ら務め上げています。このとき、追撃してきたのが孫権の父から仕える凌操で、これを討ち取る手柄をみせました。

しかし、甘寧の待遇は変わらず、日々不満を募らせていきます。都督を務めていた蘇飛は甘寧を用いるように進言しますが、面白くない黄祖は逆に甘寧の食客たちを引き抜いています。甘寧は蘇飛の助けを借りて江夏を脱出し、孫権陣営へと亡命しています。

孫権軍の主力を任される

甘寧は孫権陣営に入ると、その実力や評判を知る周瑜や呂蒙といった重鎮たちが推挙したため、孫権も甘寧を厚遇しました。これまでのいきさつから冷遇されることに慣れていた甘寧は、感謝感激したことは間違いないでしょう。

甘寧は劉表と黄祖を討つことで荊州を支配し、益州も攻めたてて、天下二分の計に連なる壮大な戦略を提案しています。これは周瑜や魯粛らとも同じ見解であり、甘寧が武力一辺倒の人物ではないことを物語っています。

甘寧の発言に功臣の張昭が反対しますが、甘寧は毅然とした態度で反論し、より孫権に評価されるようになっていきます。当時の張昭は周瑜と並ぶ重鎮として存在していましたので、甘寧の物怖じしない発言力は孫権を喜ばせたに違いありません。

曹操軍を蹴散らす甘寧

甘寧は黄祖攻めに従軍して見事討ち取る活躍を見せました。ここでは恩人の蘇飛が捕えられ、処刑寸前となりましたが、甘寧は孫権に対して額を打ち付けるまで助命懇願し、助け出すことに成功しています。甘寧は恩を受けたら忘れない律儀な男気を見せつけています。

甘寧は赤壁の戦いで周瑜に随行し、曹操軍を打ち破り、戦後の荊州争奪戦では曹仁の籠る城を攻略しました。甘寧はわずか1000名ほどの兵力で、再度盛り返してきた曹仁が率いる5000名の兵力を相手に持ちこたえています。結果、周瑜や呂蒙の援軍が到着した呉軍が、曹仁を追い払っています。

213年の濡須口の戦いでは、赤壁の戦いに匹敵する大軍で侵攻してきた曹操軍に対し、甘寧はわずか100人ほどの決死隊を終結し、曹操陣に夜襲を決めています。突如の奇襲で面喰らった曹操軍は大混乱に陥っています。

甘寧は決死隊を集結するとき、自ら酒をふるまい、部下を叱咤激励しています。孫権には自ら提言したといわれ、甘寧の決死の覚悟を見届けた孫権は一層の信頼を寄せたといいます。

この奇襲が功を奏し、曹操は一時軍を引いています。再度攻めたてようとしますが、呂蒙があらかじめ土塁を用意しておいたこともあって、攻め抜くのに困難と推測した曹操は、総退却を決断しています。

また、翌年の揚州攻撃において、呂蒙から攻撃隊長に任命されて、曹操軍が守る城に対し、城壁を自ら登る活躍を見せました。将軍となった甘寧は呉軍においても無くてはならない存在にまでなっていきました。

関羽を堰き止め、合肥でも活躍

荊州の領土争いが深刻化してくると、劉備(玄徳)から荊州の守備を任されている関羽と孫権の間に亀裂が生じています。関羽は3万もの大軍を動かしており、甘寧はわずか1000人ほどの部隊を率いて夜間に移動し、関羽の進行を妨げました。戦闘状態には陥っていないものの、関羽はこれ以上の進行を諦めて退却しています。関羽を恐れていた孫権は、甘寧の功績を称えて賞賛し、西陵太守に任命しています。


また、合肥の戦いでは曹操軍の猛攻を受けますが、孫権を守り抜き、多くの魏軍兵士を討ち取っています。甘寧は合肥の戦い後に死去しており、孫権は深く悲しんだといいます。

甘寧のエピソード

甘寧は呂蒙を慕い、多くの戦闘で従軍していました。あるとき、呂蒙の家で酒宴が開かれると、甘寧は凌統とともに出席しました。凌統は父を甘寧に殺されているので、深く恨みを持っていました。

凌統が剣を持ちながら舞を始めると、殺気を感じた甘寧も負けじと応戦します。とても殺伐とした雰囲気の中、呂蒙は間に入り、両者を仲介させています。三国志演義では合肥の戦い後に和解をした両者ですが、正史では最後まで和解することができなかったようです。

短気な甘寧

甘寧の料理人が些細なミスをしてしまい、殺されると感じたため、呂蒙の屋敷に逃げ込む事件が起こりました。呂蒙は甘寧の性格を知っていたので、料理人を落ち着かせ、決して手を出させないことを口添えして甘寧に誓わせます。

しかし、甘寧は料理人を縛り付けて射殺してしまう失態を演じてしまいます。短気とはいえ、自身が口添えしたのにも拘らず、手を下したことで呂蒙は激怒し、甘寧を処罰することを決意しました。

しかし、呂蒙の母親が仲介に入り、天下の先行きが不安定なのに、内輪もめをしているときではないと諭され、呂蒙は甘寧を許します。

甘寧はさすがに堪えてしまい、涙ながらに謝罪をしたといわれています。この仕打ちが処罰にされてしまったら、呉の命運も変わっていたのかもしれません。

まとめ

甘寧は短気で粗暴な性格ですが、これほどの暴れん坊を手元において管理下におけるのは周瑜や魯粛、呂蒙といった都督クラスのみといえました。しかし、甘寧ほどの気性がないと、決死隊といったことは何度もできず、濡須口の戦いで呉軍は敗北を喫したかもしれません。

関連するキーワード


甘寧 孫権

関連する投稿


呉軍の要「甘寧」

呉軍の要「甘寧」

蜀漢の関羽・張飛・趙雲、魏の張遼・徐晃・張郃に比べると、どうしても有名な武将が中々上がってこない呉の国。正史では有能な将であった周瑜・魯粛・諸葛瑾・陸遜辺りが、演義では参謀のように書かれているのが理由の一つです。ですが、演義でも正史でも有能な武将として書かれている人物がいます。それが甘寧です。彼はどんな人物であったのでしょうか?


歴戦の猛将【張遼】正史や演義の影響で大人気の武将

歴戦の猛将【張遼】正史や演義の影響で大人気の武将

三国志を題材にしたゲームには史実だけでなく演義が影響して能力値が振り当てられていることが多く、蜀の中心人物である諸葛亮や関羽、趙雲は恐ろしい能力値となっています。一方で魏に登場する張遼はずば抜けてはいないものの、すべての平均値が高くて、配下にしたい武将となって大人気となっています。そんな張遼はどのような武将だったのでしょうか。


三国志の英雄たちを姓名判断してみた!

三国志の英雄たちを姓名判断してみた!

三国志の英雄たちは、自らの運命を武力や知力で切り拓いてきました。しかし、実は産まれて命名された瞬間に、その命運が決まっていたのではないか? という興味のもと、各英雄の姓名判断をしてみました。はたして、あなたの好きな英傑はどういう運命だったのでしょうか。


三国志・魏呉蜀が日本の戦国時代から一人だけスカウトするとしたら誰を選ぶ?

三国志・魏呉蜀が日本の戦国時代から一人だけスカウトするとしたら誰を選ぶ?

三国志の時代に、日本の戦国時代から一人だけスカウトしてくるとしたら、魏呉蜀はそれぞれ誰を選ぶでしょうか?節目に当たる219年を舞台にして考えていきます。


呉の建国に最も貢献した功臣【陸遜】④ 晩年を迎えて

呉の建国に最も貢献した功臣【陸遜】④ 晩年を迎えて

魏との戦いにも勝利した陸遜は晩年に常勝となり、名実ともに軍務と政務で最高権力者となります。孫権からの絶大なる信頼を得ていましたが、後継者争いに巻き込まれてしまいます。不遇ともいえた晩年の陸遜の働きと跡を継いだ次男の陸抗をみていきましょう。


最新の投稿


三国の愚者として扱われている劉禅(公嗣)について

三国の愚者として扱われている劉禅(公嗣)について

「三国志で最も嫌われている人物は?」と聞かれたら董卓(仲穎)が真っ先に上がるのではないでしょうか。高貴な位をいいことに暴政の限りを尽くし最終的には身内である呂布(奉先)に殺されました。もしかしたら曹操(孟徳)や呂布(奉先)を挙げる人もいるかもしれません。しかし彼らは嫌われるようなことをした反面カリスマ性があり「嫌いではない」と答える人も多いでしょう。ここでは嫌われていて且つ救いどころも少ない劉禅(公嗣)について紹介したいと思います。


なぜ曹操は官渡の戦いで大軍相手に勝利することができたのか?

なぜ曹操は官渡の戦いで大軍相手に勝利することができたのか?

三国志という時代の流れを決定づける重要な戦いの1つが官渡の戦いです。この戦いで、曹操が袁紹に勝利したことで、曹操勢力の拡大につながっています。官渡の戦いでは、曹操軍は袁紹の大軍を相手に勝利を収めたわけですが、注目すべきはなぜ曹操が勝てたのかです。そこで今回は、官渡の戦いで大軍相手に曹操が勝利できた理由にスポットライトを当てていきます。


三国志・もし帝(献帝)が長安から益州への脱出に成功していたらどうなったのか?

三国志・もし帝(献帝)が長安から益州への脱出に成功していたらどうなったのか?

帝(献帝)の長安脱出作戦。実はこれには益州へ逃れるという作戦もあったようです。誰が実行し、成功していたらどうなっていたのでしょうか?


短命だった小覇王・孫策!長生きなら天下統一できた!?

短命だった小覇王・孫策!長生きなら天下統一できた!?

三国志で人気の英雄の1人が孫策です。26歳という短命だった孫策ですが、その功績は凄まじく呉の基礎を作ったと言っても過言ではありません。今回は、そんな孫策がもし長生きしていたらどうなっていたのかを考察していきたいと思います。


三国志演義の見どころ 壮絶な一騎討ちの名場面

三国志演義の見どころ 壮絶な一騎討ちの名場面

三国志演義の見どころは武将たちの駆け引きもあります。戦場での一騎討ちや智謀の計略など、胸躍る場面が多く演出されています。漫画やゲーム、小説などでも人気の三国志演義において、一騎討ちはいくつも登場しますが、有名な戦いを時代背景とともにみていきましょう。