血気盛んな若者たちのリーダー
■ 血気盛んな若者たちのリーダー
血気盛んな若者たちのリーダー
甘寧を語る上で外せないのが、賊時代です。もともと武将の一族というわけではなく、若い頃には不良仲間を集めて賊を結成し、武装集団として徒党を組んでいました。甘寧は自身も武力に秀でており、血気盛んな若者たちのリーダーとして君臨しています。
派手な格好で街中を練り歩き、地方の有力者であっても媚びらずに歓待を受けさせるなど、強引なやり口を敷いていました。甘寧一味に逆らうと、容赦なく財産を奪うなどの暴虐をしき、鈴を付けていたことから、鈴の音が聞こえると甘寧が来ると恐れられていたといいます。
一方で犯罪が起きると、率先して摘発や粛清を行い治安維持に一役買っていたともいわれています。甘寧は長きにわたって賊生活を続けていましたが、学問にも興味を持つようになったといわれ、書物を読むようになっていきました。
荊州で兵を率いる
■ 荊州で兵を率いる
荊州で兵を率いる
甘寧は手下や食客を引き連れて、荊州の劉表に赴きます。劉表は軽装で異風ないでたちをしている甘寧一派を懸念に思い、武力よりも学問を重視していたこともあって、甘寧たちを軽視していました。
甘寧は劉表の人柄を見てすぐに滅ぶことを推測しており、江夏に移って太守の黄祖に謁見しています。しかし、ここでも冷遇され、武将としてではなく、食客として扱われました。甘寧は短気で粗暴な性格であったため、すぐにキレてしまいそうですが、親分肌の甘寧は部下のために我慢をしていたと思われます。
当時の江夏は孫権も侵攻を狙っており、戦闘も起こっていました。孫権軍が優位に進めると甘寧は敗れかかったた黄祖を救援して、殿を自ら務め上げています。このとき、追撃してきたのが孫権の父から仕える凌操で、これを討ち取る手柄をみせました。
しかし、甘寧の待遇は変わらず、日々不満を募らせていきます。都督を務めていた蘇飛は甘寧を用いるように進言しますが、面白くない黄祖は逆に甘寧の食客たちを引き抜いています。甘寧は蘇飛の助けを借りて江夏を脱出し、孫権陣営へと亡命しています。
孫権軍の主力を任される
■ 孫権軍の主力を任される
孫権軍の主力を任される
甘寧は孫権陣営に入ると、その実力や評判を知る周瑜や呂蒙といった重鎮たちが推挙したため、孫権も甘寧を厚遇しました。これまでのいきさつから冷遇されることに慣れていた甘寧は、感謝感激したことは間違いないでしょう。
甘寧は劉表と黄祖を討つことで荊州を支配し、益州も攻めたてて、天下二分の計に連なる壮大な戦略を提案しています。これは周瑜や魯粛らとも同じ見解であり、甘寧が武力一辺倒の人物ではないことを物語っています。
甘寧の発言に功臣の張昭が反対しますが、甘寧は毅然とした態度で反論し、より孫権に評価されるようになっていきます。当時の張昭は周瑜と並ぶ重鎮として存在していましたので、甘寧の物怖じしない発言力は孫権を喜ばせたに違いありません。
曹操軍を蹴散らす甘寧
■ 曹操軍を蹴散らす甘寧
曹操軍を蹴散らす甘寧
甘寧は黄祖攻めに従軍して見事討ち取る活躍を見せました。ここでは恩人の蘇飛が捕えられ、処刑寸前となりましたが、甘寧は孫権に対して額を打ち付けるまで助命懇願し、助け出すことに成功しています。甘寧は恩を受けたら忘れない律儀な男気を見せつけています。
甘寧は赤壁の戦いで周瑜に随行し、曹操軍を打ち破り、戦後の荊州争奪戦では曹仁の籠る城を攻略しました。甘寧はわずか1000名ほどの兵力で、再度盛り返してきた曹仁が率いる5000名の兵力を相手に持ちこたえています。結果、周瑜や呂蒙の援軍が到着した呉軍が、曹仁を追い払っています。
213年の濡須口の戦いでは、赤壁の戦いに匹敵する大軍で侵攻してきた曹操軍に対し、甘寧はわずか100人ほどの決死隊を終結し、曹操陣に夜襲を決めています。突如の奇襲で面喰らった曹操軍は大混乱に陥っています。
甘寧は決死隊を集結するとき、自ら酒をふるまい、部下を叱咤激励しています。孫権には自ら提言したといわれ、甘寧の決死の覚悟を見届けた孫権は一層の信頼を寄せたといいます。
この奇襲が功を奏し、曹操は一時軍を引いています。再度攻めたてようとしますが、呂蒙があらかじめ土塁を用意しておいたこともあって、攻め抜くのに困難と推測した曹操は、総退却を決断しています。
また、翌年の揚州攻撃において、呂蒙から攻撃隊長に任命されて、曹操軍が守る城に対し、城壁を自ら登る活躍を見せました。将軍となった甘寧は呉軍においても無くてはならない存在にまでなっていきました。
関羽を堰き止め、合肥でも活躍
■ 関羽を堰き止め、合肥でも活躍
関羽を堰き止め、合肥でも活躍
荊州の領土争いが深刻化してくると、劉備(玄徳)から荊州の守備を任されている関羽と孫権の間に亀裂が生じています。関羽は3万もの大軍を動かしており、甘寧はわずか1000人ほどの部隊を率いて夜間に移動し、関羽の進行を妨げました。戦闘状態には陥っていないものの、関羽はこれ以上の進行を諦めて退却しています。関羽を恐れていた孫権は、甘寧の功績を称えて賞賛し、西陵太守に任命しています。
また、合肥の戦いでは曹操軍の猛攻を受けますが、孫権を守り抜き、多くの魏軍兵士を討ち取っています。甘寧は合肥の戦い後に死去しており、孫権は深く悲しんだといいます。
甘寧のエピソード
■ 甘寧のエピソード
甘寧のエピソード
甘寧は呂蒙を慕い、多くの戦闘で従軍していました。あるとき、呂蒙の家で酒宴が開かれると、甘寧は凌統とともに出席しました。凌統は父を甘寧に殺されているので、深く恨みを持っていました。
凌統が剣を持ちながら舞を始めると、殺気を感じた甘寧も負けじと応戦します。とても殺伐とした雰囲気の中、呂蒙は間に入り、両者を仲介させています。三国志演義では合肥の戦い後に和解をした両者ですが、正史では最後まで和解することができなかったようです。
短気な甘寧
■ 短気な甘寧
短気な甘寧
甘寧の料理人が些細なミスをしてしまい、殺されると感じたため、呂蒙の屋敷に逃げ込む事件が起こりました。呂蒙は甘寧の性格を知っていたので、料理人を落ち着かせ、決して手を出させないことを口添えして甘寧に誓わせます。
しかし、甘寧は料理人を縛り付けて射殺してしまう失態を演じてしまいます。短気とはいえ、自身が口添えしたのにも拘らず、手を下したことで呂蒙は激怒し、甘寧を処罰することを決意しました。
しかし、呂蒙の母親が仲介に入り、天下の先行きが不安定なのに、内輪もめをしているときではないと諭され、呂蒙は甘寧を許します。
甘寧はさすがに堪えてしまい、涙ながらに謝罪をしたといわれています。この仕打ちが処罰にされてしまったら、呉の命運も変わっていたのかもしれません。
まとめ
■ まとめ
まとめ
甘寧は短気で粗暴な性格ですが、これほどの暴れん坊を手元において管理下におけるのは周瑜や魯粛、呂蒙といった都督クラスのみといえました。しかし、甘寧ほどの気性がないと、決死隊といったことは何度もできず、濡須口の戦いで呉軍は敗北を喫したかもしれません。