孫堅軍の中心的存在となる
■ 孫堅軍の中心的存在となる
孫堅軍の中心的存在となる
程普は幽州北平郡に生まれ、若き頃には役人を務めていました。武勇に誉れながら容姿もよく、先見の明があって人望がありました。黄巾賊が専横するようになると、中央で出世していた孫堅の配下として従軍し、各地で功績を挙げていきます。
程普は軍略にも優れていたので、孫堅から重宝されており、よく相談されていました。紅巾の乱が終息するころ、今度は政治の中心となっていた悪徳宦官である十常侍を討とうと大将軍の何進の呼びかけで全国から君主や将軍らが集結するようになります。
遂には西涼の董卓が若い帝を手中にし、権力を牛耳るようになります。孫堅は長沙に太守として赴いていたので、程普も従いました。程普は孫堅軍の中でも抜き出た存在で、黄蓋や韓当らとともに孫堅陣営で主力となっていきます。程普らの鍛え方によって一太守にしか過ぎなかった孫堅軍は独立した精鋭部隊を誇る軍閥といえました。
董卓軍との対決で大活躍
■ 董卓軍との対決で大活躍
董卓軍との対決で大活躍
董卓の専横から反董卓連合軍が結成されることとなります。ともと董卓と孫堅は仲が悪かったのもありますが、孫堅もこの呼びかけに参戦し、程普も出陣していました。しかし、董卓軍は単体でも強く、連合軍は尻込みし、なかなか攻め挙げることをしません。そうするうちに兵糧が切れかかり、孫堅軍も兵糧が届けられないという事態が起こってしまいます。そんな中董卓軍の徐栄が攻めかかり、程普らは懸命に応戦しますが、兵糧が少ないことで軍の士気が下がっており、孫堅軍は崩壊してしまいます。
激怒した孫堅が兵糧を管理している袁術を怒鳴りつけ、すぐに兵糧が送り届けられると、程普は敗残兵をかき集めて立て直しを図ります。孫堅軍は陽人に集結すると、すかさず董卓軍から胡軫・呂布・華雄という勇猛な猛者たちが襲い掛かります。しかし、程普は懸命に戦い、自ら剣や槍を奮い、董卓軍を大いに打ち破ります。呂布と胡軫が仲たがいをしていたので、その隙をついて程普らは董卓軍を壊滅状態に追いやり、華雄を討ち取りました。
程普は体中に傷を背負いますが、命は取り留め、孫堅軍に無くてはならない存在として活躍していきます。董卓が洛陽を焼き、長安に遷都すると、連合軍は解散することとなりました。
当時董卓に匹敵する勢力を誇っていたのが袁術と袁紹でしたがともに対立し、袁紹は劉表や曹操、袁術は孫堅と手を組むようになりました。袁術の命を受けて劉表軍に出撃した孫堅でしたが、志半ばで戦死してしまいます。壊滅した孫堅軍は袁術の支配下に置かれ、長男の孫策や程普も従うようになりました。
孫策のもとで江東平定
■ 孫策のもとで江東平定
孫策のもとで江東平定
孫堅の死後は孫策に従うようになります。孫策は袁術の配下となっていましたが、叔父の救援に赴くという名目で抜け出し、程普も黄蓋や韓当らとともに参戦しています。孫策は破竹の勢いで江東に出撃して、劉ヨウを撃破しています。程普は自ら先頭に立って出撃し、見事に手柄を立てて孫策からも信用を得ていきます。
孫策が会稽を攻略すると、程普は呉郡の都尉に任命されています。程普は内政でも優れた手腕を発揮し、後に丹陽の都尉に転任しています。孫策の時代は急激な領土拡大を受けて各地で反乱が勃発し、程普もその対応に追われることとなりますが、すべて制圧しています。
丹陽郡において反乱が起こったとき、孫策が大軍に囲まれる危機がありました。程普は敵軍の弱点を見抜き、大声を上げながら騎兵とともに包囲網に突撃をしかけます。怯んだ包囲網から孫策が救出され、程普は孫策からも厚い信頼を得ることとなりました。この戦いを経て、程普は零陵の太守に任命されています。
程普は自領地の反乱も抑えながら、孫策の進軍には付き従う忙しさでしたがすべて結果を残し、孫堅の仇となっていた劉表軍の黄祖討伐にも参戦してここでも功績を残しています。
韓当や黄蓋よりも上位に出世しているので、孫策から一番信頼を受けていたことが分かります。
若き孫権に仕えるようになる
■ 若き孫権に仕えるようになる
若き孫権に仕えるようになる
孫策が若くして病死すると、弟の孫権が後継者となります。まだ若い孫権は実戦経験が乏しく、孫策のように前線に出るリーダーシップを持っていないので、周囲は不安に駆られていました。そこで、程普は内政面で孫策を支えていた張昭と相談し、率先して孫権を主として仕えるように仕向けました。
孫権軍の中でも実力者である程普が従っている様をみて、多くの将兵たちが孫権に忠誠を尽くすようになっていきました。また、同じよう軍事面で孫策を支えてきた若き司令官の周瑜も率先して孫権に忠誠を尽くしていましたが、程普は周瑜と折り合いが悪く、毛嫌いをしていました。
孫策が死去したことを受け、またもや各地で反乱が勃発するようになりますが、程普はすぐに制圧に赴いています。軍の引き締めを図るために孫権が江夏へ自ら出陣すると、程普は別働隊として動き、江夏攻略に多大な貢献を果たしています。程普は孫権が政権を安定するのに早くから貢献した武将といえるでしょう。
周瑜の実力を認める
■ 周瑜の実力を認める
周瑜の実力を認める
官渡の戦い後、河北一帯を抑えた曹操は荊州の劉表が死去すると、ついに南下することになります。孫権陣営では降伏か開戦で意見が分かれますが、諸葛亮や魯粛、周瑜の勧めもあって孫権は劉備(玄徳)と同盟を結んで開戦を決意します。
今までにない激戦となるのは明白であり、曹操は10万もの大軍をもって赤壁に陣を進めてきました。国家の一大事ということもあって、軍事面で周瑜と程普が派閥を持っているのは良くないことであり、周瑜は程普を常に持ち上げ、自分が前に出るようなことはしませんでした。
程普はそんな周瑜を見て、若いのに決して実力を鼻にかけるようなことはせず、年長者を立てて、孫呉のために動いている気持ちを察し、周瑜の実力を認めて互いに協力体制を敷くことを誓います。
程普は周瑜とともに左右の都督として曹操軍と対陣し、赤壁の戦いにおいて圧倒的戦力差の曹操軍を討ち破る活躍を見せています。
赤壁後に周瑜が若くして亡くなると、南郡太守となりますが後に江夏に戻っています。しばらくして程普も 死去し、孫権は大いに悲しんだといわれています。
三国志演義でも古参の武将
■ 三国志演義でも古参の武将
三国志演義でも古参の武将
三国志演義でも孫堅軍の中枢として存在し、矛を武器として活躍しています。玉璽を発見したときには孫堅に持ち帰るべきであると進言するなど、智謀化としての一面も見せています。
また一騎討ちでは太史慈とも好勝負を演じ、武勇に秀でたことも描かれ、史実同様に孫堅・孫策・孫権と孫呉三代に忠誠を誓う古参の武将として成り立っています。