劉備(玄徳)の師で三代に渡り天下に名が響いた盧植と子孫たち②

劉備(玄徳)の師で三代に渡り天下に名が響いた盧植と子孫たち②

後漢王朝で高名な学者・政治家となった盧植は、子孫たちも優秀な人材となっています。子の盧毓や孫の盧欽も政治の中枢を担い、魏の皇帝たちからも信頼を得ていました。そんな盧植の子孫、盧毓・盧欽を紹介していきましょう。


盧植の名をさらに高めた実子の盧毓

政治や軍略、学問に精通した人材として、大陸に名を知らしめた盧植には、子どもが3人いたとされています。しかし、上の2人の兄弟はともに戦乱で死亡し、残された3番目の盧毓は10歳にも満たないときに、盧植を病気で亡くしています。

亡くなる前の盧植は袁紹に仕えていたので、盧毓も冀州に滞在していました。しかし、当時の袁紹は公孫サンと河北の勢力争いを繰り広げている最中で、食料の確保も難しい戦乱の真っただ中といえました。そんな中、盧毓は成長し、残された親族を支えながら学問にも精を出していきます。

盧毓は品行にも優れており、亡き父の跡をしっかりと受け継いでいたことがうかがえます。盧毓は冀州でも評判が良くなり、やがて袁紹が曹操に敗れるようになると、自然と魏に仕えるようになっていきます。

冀州の官僚として厳格で柔軟な裁きを見せる

曹丕に見出されて冀州で官僚として務めるようになると、その明確・公平さから周囲の人望を集めていきます。戦乱の時代ということもあり、当時は逃亡兵も多くいましたが、逆に見せしめのために厳罰に処刑されていました。

あるとき、一人の逃亡兵の処罰が死刑と決まり、その男は婚姻してからわずか数日という妻がいました。さすがに同情を得ることもできましたが、他の官僚たちは法の決まりということもあって、妻も連座で死刑を求刑しています。

しかし、盧毓は過去の書物を引き合いに出し、死刑は重すぎる重罰であると猛反対します。魏の統治者で時の権力者であった曹操は、この話を聞き、盧毓の多数の意見に反発する厳格さと多角的な視点を持つ柔軟さを評価し、驚きもしています。

魏で出世を続ける盧毓

曹操が死去し、曹丕が後継者として君臨すると、献帝から禅譲を受けて文帝として即位します。盧毓は曹丕に気に入られていたので、中央へ召し抱えられて出世し、各地方の太守も歴任していきます。盧毓は名声を高めていき、その品行や厳格な姿勢から曹丕亡き後の曹叡(明帝)の時代になっても重宝されていきます。

当時の魏は、司馬懿が徐々に頭角を表してきたものの、まだ曹家一門の影響力は大きく動いていました。その筆頭が魏の大将軍だった曹真を父に持つ曹爽といえました。中でも、曹爽に近い諸葛誕などは名声に富み、魏国内では優秀な人物の称号として存在していました。しかし、聡明な曹叡は諸葛誕らを嫌っており、名声だけでは腹は膨れないと考えていました。さらに曹叡は名声に頼ることは、画に描いた餅であると一蹴しています。

聡明な曹叡に意見を述べていく

盧毓は曹叡に対し、名声は特別な人材には不十分とはいえ、一般の人物には極めて有効になるので、決して名声を疎かにしてはいけないと諭します。たとえ優秀な人材でも、名声が低い人物は多くいます。一般的な普通の人物は勉強に励み、善行をすることで名声が付くのであって、無名な人材を要職に就けるのも大切なことであると考えていました。

盧毓はその証拠に無名の人材を推薦していきます。推薦した人物は品行と人格には定評がありました。盧毓は能力を後回しにして、まずは品行と人格を優先しています。これには周囲も気にかかりますが、盧毓は品行や人格は善行につながることがあり、才能や能力を善行に役立てられなければ、全く能力が役に立たないとして述べています。これに感嘆した高官たちによって、盧毓の名声がさらに上がっていきます。

司馬懿や司馬師にも評価されていく

曹叡が亡くなると、曹芳(斉王)が即位します。盧毓は爵位を賜りますが、それを気に入らない曹爽によって、中央の政治から遠ざけられます。盧毓は地方に左遷されますが、その名声に反しての行為だったので、批判が殺到してしまいます。たまらず曹爽は盧毓を中央に呼び戻すことになります。

敵の多かった曹爽でしたが、隙を覗っていた司馬懿が249年にクーデターを起こしました。曹爽は司馬懿に全面降伏します。盧毓は司馬懿によって、曹爽の裁判を担当することになりました。曹爽がとても大将軍の地位にいられる人材ではないことを分かっていたので、盧毓は付き添いの宦官を詰問していきます。盧毓は宦官に自白させて、曹爽が謀反を企てて自身が皇帝になろうとしていることを突き止めます。

盧毓は毅然として処罰を死刑とし、これを司馬懿も認めたため、曹爽は一族郎党ともに処断されました。

司馬懿はその2年後に亡くなりますが、盧毓は後継者となった嫡男の司馬師にも信頼されています。曹氏よりも権力を付けている司馬氏の台頭を嫌った勢力は、次々に反乱を起していきます。盧毓は司馬師が自ら反乱軍を鎮圧しようと出陣したとき、その留守を任されるようになっていました。盧毓は257年に病死し、子の盧欽が跡を継いでいきます。

父や祖父に負けない治世を行った盧欽

盧欽は父や祖父に負けじと勉学に励み、周囲の期待も高くなっていました。盧欽は権力者だった曹爽の弟に配下になるよう申し入れを受けますが、彼が法を犯していることを厳しく糾弾し、配下になることを拒否しました。曹爽は責めることなく、盧欽の意見を受け入れて、自身の弟を処罰しています。この一見から曹爽に気に入られて出世していきますが、司馬懿のクーデターによって曹爽が倒されると、しばらくは謹慎処分になってしまいます。

司馬氏一族に認められていく

元々父の盧毓が司馬懿に評価されていたので、盧欽もすぐに復帰することができました。有能な人材を簡単に処罰するほど、司馬懿は愚かではないということでしょう。盧欽は各地の太守を歴任して、治世を行っていきます。これはその地の民衆にも受け入れられ、その評判は益々上がっていきました。

盧欽は中央に戻り、その手腕を期待されて政治にも力を発揮していきます。司馬懿の後継者となった司馬師や司馬昭にも認められ、彼らが亡くなると司馬炎が権力を握り、盧欽も側で活躍していきました。

各地の統治にも貢献

司馬炎は晋を興して武帝と称し、魏が滅亡します。盧欽は晋の中でも断トツの有力者として君臨し、各地の反乱軍の討伐や辺境の地にも遠征に向かいました。盧欽は厳しさと優しさという両面を的確に使い分け、周辺民族や民衆たちの支持を得ていきます。

盧欽は司馬炎からも大きな評価を得ており、善政を敷いていきました。司馬炎は晋を興した当初は有能な皇帝として称されていますが、これも盧欽の活躍があったからこそといえます。

盧欽は礼を尽くして、厳格な姿勢を貫いていたので、周囲の評判が常に良く、司馬炎にも厳しい意見を述べていました。盧欽は278年に死去しますが、その死を一番悲しんだのは、皇帝の司馬炎だったといいます。司馬炎は晋を興し、反乱も抑えて安心した晩年は、政治に興味を無くして暗愚の帝として存在し、女や酒に溺れていくようになってしまいます。盧欽が長生きしていれば、きっと司馬炎も毅然とした態度で職務を全うしていたことといえるでしょう。

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