孫権(仲謀)が赤壁大戦開戦前に激昂した真意

孫権(仲謀)が赤壁大戦開戦前に激昂した真意

赤壁大戦開戦前、孫呉は抗戦するか降伏するかでもめにもめていました。そんなとき、諸葛亮(孔明)による舌先三寸によって周瑜(公瑾)と孫権(仲謀)は激昂し、開戦に踏み切ります。本記事では若き呉の棟梁孫権(仲謀)が激昂した真意について解説しましょう。


赤壁大戦は今や世界的に有名な戦い

赤壁大戦は今や世界的に有名な戦い

赤壁大戦は今や世界的に有名な戦い

三国志に出てくる多くの戦いの中で最も有名なのが赤壁大戦です。なんせハリウッド映画の「レッドクリフ」は赤壁大戦を題材にしています。
また、三国志演義では赤壁大戦を最大の見せ場としており、黄蓋による苦肉の策や龐統による連環の計、諸葛亮(孔明)による妖術じみた儀式まで描かれ、現地には赤壁大戦をモチーフにしたテーマパークまである始末。その赤壁大戦の開戦前、劉備(玄徳)率いる蜀はなんとしても孫呉を味方につけておく必要がり、リスクを転嫁するためにも孫呉の連中をむきにさせることが重要課題でした。
そして、そのミッションを成功させた者こそ天才軍師諸葛亮(孔明)です。諸葛亮(孔明)の舌先三寸によって孫権(仲謀)、周瑜(公瑾)らを含めた呉の首脳部はまんまと徴発に引っ掛かるのですが、孫権(仲謀)が激昂した真意については話中で触れられていません。本記事では孫権(仲謀)が諸葛亮(孔明)の説得に激昂した真意を解き明かします。

諸葛亮(孔明)による言葉巧みな名演説

諸葛亮(孔明)による言葉巧みな名演説

諸葛亮(孔明)による言葉巧みな名演説

劉備(玄徳)から孫呉を説得して赤壁大戦でタッグを組めるようにミッションを課せられた諸葛亮(孔明)は威風堂々と宮殿に参内し挨拶もそこそこに曹操(孟徳)との戦いで共闘することを申込ました。孫呉側は降伏論を唱える者が大半で、諸葛亮(孔明)の提案はいささか大胆なものでした。当然、諸葛亮(孔明)に対して異議を唱える者が出ると恭しい態度から一変して高圧的な姿勢で降伏派の大臣たちに次のように言い聞かせました。

大臣たちに対して

大臣たちに対して

大臣たちに対して

「己の保身にばかり走りおってこの奸臣(悪い家臣)どもめ。貴公らは己が君主のことをまったく考えようともしていない。貴公たちは降伏しても下級役人か悪くても平民に身を落とすだけで済むだろうが、孫権様はどうだろう?責任を取れと首を差し出さなければならないだろうし、もし命が助かったとしても一生捕虜か故郷を追われて不毛な土地で余生を送るはめになるのだ。そのことを知ってか知らずか、君主にそれを強いるとは…。この者らを奸臣と言わずして、誰のことを言うのでしょうか?この者たちといくら話したところで埒は明かない。これにて失礼する。」と言うと、議論する場からそそくさと退出してしまいました。

周瑜(公瑾)に対して

周瑜(公瑾)に対して

周瑜(公瑾)に対して

上記のような演説はあくまで作戦であり、決定権を持つ周瑜(公瑾)と話す機会を得るための演出です。立つ瀬がない状況に追い込まれた蜀と呉の橋渡しを務める魯粛はこのまま諸葛亮(孔明)に帰られてしまえば面目丸つぶれになってしまうため、諸葛亮(孔明)を練兵中の周瑜(公瑾)のもとへと連れていきました。もちろん、諸葛亮(孔明)の狙いは周瑜(公瑾)との対談です。さて、慎重派の周瑜(公瑾)に対してはどれだけ勝算があるのか、どれくらいの期間でなど具体的なプレゼンテーションをする必要があります。諸葛亮(孔明)は周瑜(公瑾)との対談時、次のように弁舌を振るいました。
「曹操(孟徳)の軍勢は自称80万と申しておりますが、それはおそらく大言(大口をたたくこと)でしょう。実際は50万前後でしょう。曹操(孟徳)に従順なのは直属の10万程度で、大半は元袁家の抱える兵士や烏丸などの異民族、青州にいる黄巾の残党などここ数年の間に戦で勝利して九州してきた者ばかりです。結束力の面では我らよりはるかに劣っていて、こちらが有利と見れば離反させることも可能です。さらに曹操(孟徳)の軍勢は長きに渡る転戦で既に疲弊し、満身創痍のまま行軍を続けています。そのうえ、曹軍の主力は騎馬隊。それなにも関わらずなれない水上戦に持ち込みました。水上戦はあなた方の得意するところでしょう?これらの点で我々は優位に立っています。互角に勝負することができるのでは?」
諸葛亮(孔明)の堂々たる演説に一同舌を巻いていたのですが、それでも慎重派の周瑜(公瑾)は二つ返事で決断することはありませんでした。開戦するともなれば、犠牲者が出ることは必至。指揮官として犠牲者が出る以上は戦に勝たなければなりません。「うーん」と腕を組んで周瑜(公瑾)が唸っていると「待ってました」と言わんばかりに諸葛亮(孔明)が一気にたたみかけました。

孫呉の背中を押したひとこと

孫呉の背中を押したひとこと

孫呉の背中を押したひとこと

「曹操(孟徳)と戦いたくないのであれば私によい案があります。近頃曹操(孟徳)は銅雀台を建てました。あいつはそこで酒と肴に舌鼓を討ち、二喬を侍らせて娯楽に興じたいと歌に詠んでいます。その二喬は呉にお住まいだとか。ならば国を挙げて総出で二喬を探しだし、曹操(孟徳)にお渡しすれば曹操(孟徳)は喜んで撤退することでしょう。」
このひとことに周瑜(公瑾)は冷静さを失って激昂し、開戦へ向けて考えを転換させます。もちろんこのことは孫権(仲謀)の耳にも入り、孫権(仲謀)も我を忘れて激昂しました。
なんせ諸葛亮(孔明)が曹操(孟徳)に差し出せと言った二喬とは孫権(仲謀)の兄孫策(伯符)の妻大喬と周瑜(公瑾)の妻小喬のことだからです。諸葛亮(孔明)はさもそのことを知らなかったようにひょうひょうと言ってのけました。また、説得に用いた曹操(孟徳)が詠んだ歌というのが、原文では「銅雀台から宮殿へと二つの橋を架け、夕日を眺めればきっと綺麗なことだろう。私は酒を飲み、歌と音楽を聴きながらその景色を楽しみたい」という意味のもので、「二喬を侍らせて楽しみたい」とは一言も書いておらず、諸葛亮(孔明)の完全なるでっち上げです。

孫権(仲謀)が激昂した真意

孫権(仲謀)が激昂した真意

孫権(仲謀)が激昂した真意

大喬は孫権(仲謀)から見れば兄嫁に当たり、煙たい存在であることは明白です。自分の娘でさえ政治に道具として使うことが当然とも言える時代になぜそこまで孫権(仲謀)はむきになったのでしょうか?単に「兄の妻だから、義理の家族だから」というだけではそこまで激昂することはないと思います。実は、孫権(仲謀)は大喬に対して返しても返し切れない大恩があります。孫策(伯符)はこの世を去る直前、枕元に弟の孫権(仲謀)に後事を託して生涯を閉じました。あまりに急なことだったので、正式な家督継承の儀式や詔勅がなかったため、当初は慣例にならって正妻が生んだ皇子、つまり大喬の息子が就任するはずでした。ところが、大喬と孫策(伯符)との間に生まれた皇子はまだ乳児でとてもじゃないが政治を執ることはできません。しかしながら、母親としては自分の子供に豊かな生活と多くの財産を残してあげたいものです。大喬はさんざん悩んだ結果、夫の遺志を尊重することを選びました。王位継承権を辞退して孫権(仲謀)の擁立に加担したのです。そのため、孫権(仲謀)は大喬を重んじなければならず、恩に報いるため本来であれば未亡人となったら子供を連れて実家に帰るところを引き留め、屋敷と俸禄を与えて養いました。

まとめ

まとめ

まとめ

孫権(仲謀)が諸葛亮(孔明)の説得で激昂した引き金となったのは兄嫁の大喬と周瑜(公瑾)の妻である小喬の二喬を曹操(孟徳)へ差し出せと言われたからです。さらに激昂した真意については、単に兄嫁だから、家族だからという単純なものではなく、自分を王にしてくれた恩人を守り、その恩に報いるためだったのです。





この記事の三国志ライター

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