1.三国志では過小評価される人物がいる
■ 1.三国志では過小評価される人物がいる
1.三国志では過小評価される人物がいる
英雄や豪傑、策略家など様々な人物が登場するのが三国志の醍醐味です。しかし、実は有能なのに過小評価されている武将・君主が多くいます。これは、三国志の宿命と言っても過言ではありません。なぜなら、三国志は「三国志演義」と「正史三国志」があり、日本では三国志演義の方が好まれているからです。三国志演義は創作であり、正史三国志は史実に基づいています。そのため、わかりやすくて面白い三国志演義の方が日本では好まれているのです。
そして、三国志演義は蜀がメインとなっており、蜀以外の登場人物が過小評価されやすい傾向があります。とくに、蜀と敵対する魏の人物は、過小評価されやすいです。これは、蜀の人物を目立たせるためと考えられています。また、蜀の中でも劉備(玄徳)や関羽、諸葛亮などがメインとなっており、蜀の人物の中にも過小評価されている人物はいるのです。そのため、三国志の登場人物のなかには、過小評価されている人物が意外と多くいます。
2.三国志で過小評価されている武将・君主5選
■ 2.三国志で過小評価されている武将・君主5選
2.三国志で過小評価されている武将・君主5選
袁紹
■ 袁紹
袁紹
三国志に登場する君主で過小評価されているひとりと言えば袁紹が挙げられます。袁紹は、名門・汝南袁氏の出身であり、若くして活躍しています。董卓との抗争に敗れるも、その後反董卓連合の盟主となっています。ちなみに、反董卓連合軍は董卓を破るも、内紛が起こり瓦解し、群雄割拠の時代へと進んでいったのです。その後袁紹は着々と勢力を強め、「最も天下に近い男」にまで成り上がっているのです。
それなにに、袁紹は「ダメ君主」との声が多いのが現実となっています。理由は、有能な軍師である田豊と沮授の助言を受け入れなかったからです。著しく袁紹の評価を落とした官渡の戦いでも、田豊と沮授の助言は退けられています。その結果、圧倒的に数的優位だったにも関わらず、官渡の戦いで大敗を喫してしまうのです。とは言え、一時でも「最も天下に近い男」になったのだから、袁紹はもう少し評価されてもいいのではないでしょうか。
曹仁
■ 曹仁
曹仁
魏の曹仁も過小評価されている三国志の人物のひとりです。曹仁は曹操と血のつながらない従兄弟です。曹操の古参の武将であり、曹操軍の騎兵隊を率いています。曹仁は数々の戦で功績を上げており、曹丕の時代には車騎将軍・都督荊揚益州諸軍事・陳侯に昇進し、さらには大将軍に任命されているのです。それだけ曹仁の功績は大きく、有能だったことがよくわかります。
しかし、曹仁の評価は、「三国志演義」の影響で低い傾向があります。なぜなら、「正史三国志」での曹仁の活躍が、三国志演義にはほとんど記されていません。しかも、徐庶や諸葛亮に翻弄されるため、曹仁の評価が低くなっているのです。しかし、あれだけの豪華メンバーがいる魏において、曹仁は大将軍にまで上り詰めています。それを考えると、曹仁は有能な武将であり、もっと評価されてもいいのではないでしょうか。
司馬懿
■ 司馬懿
司馬懿
司馬懿もまた、過小評価されている人物のひとりです。司馬懿は、曹操の時代から活躍し、曹丕の時代には絶大な信頼を得て大権を握ることになります。その後、曹叡の時代にも数々の功績を挙げて大将軍にまでなっています。また、司馬懿は西晋の礎を築いた人物でもあるのです。
そんな司馬懿なのに、過小評価されている原因は諸葛亮にあります。諸葛亮の北伐に対し、それを抑えたのが司馬懿です。しかし、司馬懿は局地的ながら諸葛亮に敗れています。そして、「死せる孔明生ける仲達を走らす」とあるように、亡くなった諸葛亮を相手に退却しているのです。これらのことから、諸葛亮の方が有能とのイメージが強く、なぜか司馬懿の評価が高くありません。実際には、諸葛亮と同等かそれ以上の評価をされてもおかしくない人物なのです。
于禁
■ 于禁
于禁
三国志の武将で過小評価されている人物と言えば、于禁も挙げられます。于禁は、黄巾の乱の際に鮑信が義兵を募った際に参加しています。その後鮑信が亡くなると、曹操の下で活躍するようになるのです。陶謙の徐州を攻めて陥落させ、さらに呂布との戦いでも活躍し、有能な武将としての評価を勝ち取っていくのです。その後も、袁術軍との戦いや官渡の戦いで功績を立てており、左将軍にまで成り上がっています。
これだけ見れば、于禁が如何に有能な武将だったのかがわかります。しかし、于禁の評価を著しく落とした事件があったのです。関羽が樊城を包囲した際、于禁は援軍の将として出陣します。このとき、関羽は船を用意していたのに対し、于禁らの軍全は船を用意していませんでした。そこに、長江の支流である漢水が氾濫し、于禁らは水没して関羽の捕虜になってしまったのです。捕虜となった于禁は、関羽に対して命乞いをしていまいます。この命乞いが、于禁の評価を著しく貶めている原因なのです。命乞いをするまでは有能な武将として評価されていただけに、ひとつの行動次第で評価は大きく変わってしまうことがよくわかります。
魏延
■ 魏延
魏延
劉備(玄徳)や劉禅に仕えた魏延も過小評価されている武将のひとりです。劉備(玄徳)の入蜀の際には、配下として随行しています。劉備(玄徳)が漢中王に即位し、成都に帰還する際には、魏延を督漢中・鏡遠将軍・漢中太守に抜擢しており、劉備(玄徳)から評価されていることがわかります。劉備(玄徳)の死後も重用されており、魏相手に活躍し、前軍師・征西大将軍にまで昇進しているのです。
そんな有能な武将だった魏延ですが、過小評価されている原因は諸葛亮の死後にあります。諸葛亮の死後、魏延は自分が指揮官となり北伐を続けようするのです。しかし、軍を掌握していた楊儀は退却をしてしまい、これに対して魏延を怒ってしまいます。そして、劉禅に楊儀が反逆したと上奏するのですが、同じく楊儀も魏延が反逆したと上奏したのです。その結果、劉禅は董允と蒋琬にどちらが正しいのか問い、魏延に疑いを持つようになります。その後、魏延は出奔したのですが、楊儀は馬岱に追跡させ、魏延を斬り殺させたのです。これらの最期から、魏延の評価は過小評価されているのです。
3.まとめ
■ 3.まとめ
3.まとめ
今回は、三国志に登場する人物で過小評価されている武将・君主を紹介してきました。いずれの武将・君主も、実はとても優秀であり、手柄や功績を立てています。しかし、晩年の言動やライバルの存在によって、やけに過小評価されているのです。これから三国志を楽しむときには、すでに下されている評価を鵜吞みにするのではなく、フラットな目線で評価してみて下さい。