諸葛亮(孔明)が伝説となった話
■ 諸葛亮(孔明)が伝説となった話
諸葛亮(孔明)が伝説となった話
諸葛亮(孔明)には赤壁の戦いや北伐などいくつもの伝説がありますが、最も「それは諸葛亮(孔明)にしかできない」というエピソードが南蛮征伐時の七擒七縦(しちじゅうしちきんと読みます)ではないでしょうか。七擒七縦とは、「7度捕らえられて、7度釈放されること」を意味しますが、諸葛亮(孔明)はなんと敵である孟獲相手にそれをやってのけたのです。
いくら自信があり、「何度やっても勝てる相手だ」と思っても常識的に考えてリスクが大きすぎます。しかしそれをいとも簡単にやってしまったため、最初は諸葛亮(孔明)に敵意むき出しの南蛮の王、孟獲も屈服せざるを得ません。
これにより孟獲は完全服従し、南からの憂いがなくなったばかりでなく、自分たちの戦力としても計算できるようになったのです。
並みの軍師なら捕らえて処刑するところでしたが、三国を統一するには彼らの力も必要と考えていたのでしょう。つくづく先を見据える諸葛亮(孔明)が伝説となったのはまさにここではないでしょうか。
泣いて馬謖を斬るの「馬謖(幼常)」は実はすごかった
■ 泣いて馬謖を斬るの「馬謖(幼常)」は実はすごかった
泣いて馬謖を斬るの「馬謖(幼常)」は実はすごかった
三国志をあまり知らない人でも「泣いて馬謖を斬る」という言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。これは諸葛亮(孔明)が寵愛していた弟子馬謖(幼常)を斬る際のエピソードです。(ちなみにこの涙の理由は諸説がいくつかあり、単純に軍閥により馬謖(幼常)を斬らなければいけない悲しさ故の涙という説があったり、劉備(玄徳)が「馬謖(幼常)はつまらない男だから入れ込む必要がない」と言われていたにもかかわらず自分は寵愛していて最後裏切られ、自分の見る目のなさを悲しんだという説もあったりします)
ここまで聞くと「馬謖(幼常)は大したことないのではないか」と思うかもしれませんが、実は諸葛亮(孔明)の考え方に最も近かった軍師の一人だといえます。
南蛮征伐の時も「ただ攻めて敵(孟獲)を倒してもまた反乱を起こすだけです。彼らの心を屈服させる必要があります」と説いたのです。
諸葛亮(孔明)と全く同じ考えだったため諸葛亮(孔明)は馬謖を寵愛したのです。
これは私の意見ですが、天才故自身の考えていることを全く理解されないことが多い諸葛亮(孔明)にとって自分と同じ次元で物を見ることができた馬謖の存在が嬉しく、寵愛したのではないかと思っています。
孟獲、孟優の弱点
■ 孟獲、孟優の弱点
孟獲、孟優の弱点
見方を変え、今度は諸葛亮(孔明)に7度捕らえられた南蛮の王「孟獲」とその弟の孟優について紹介したいと思います。想像すると分かるようにいくら諸葛亮(孔明)相手であっても7度たやすく捕らえられるということから見てもあまり知恵はないのではないかということがうかがわれます。
実際力はあったが戦術が悪すぎたという評価を下す学者もいます。弟の孟優の方が若干頭を使い、他国に援軍を求めたり、降伏すると見せかけたりなど策を使っていましたが、魏や呉の相手と比べると全然と相手にならない言ったところでしょう。
それゆえ仲間になってもさほど大きい戦果を挙げることなく終わっています。個人的には南蛮と戦い、後に蜀の戦力となったものの戦わないで南方をけん制するぐらいがベストではなかったのだろうかと思っています。
沙摩柯の功績
■ 沙摩柯の功績
沙摩柯の功績
しかし南蛮の将の一人である沙摩柯は甘寧(興覇)を破るという功績を収めています。呉にとって武に秀でた将軍である甘寧(興覇)を打たれたのは大打撃でした。(総大将である孫権(仲謀)は甘寧(興覇)を寵愛していたからひどく悲しみました)将棋に例えていうと桂馬で角を取ったという位衝撃的なことだったでしょう。
その後沙摩柯は陸遜(伯言)に討たれてしまいますが、諸葛亮(孔明)としてみたら甘寧(興覇)を討った時点で十分おつりがくるといったところでしょう。
南蛮人の挙げた功績はそこまで大きなものはありませんが、これは「南蛮人強い!南蛮人凄い」と思わせた出来事に違いありません。
孟獲、孟優あたりが、敵将を討てば南蛮征伐は結果的に成功とみてよかったかもしれません。
南蛮征伐によるメリットは
■ 南蛮征伐によるメリットは
南蛮征伐によるメリットは
結局南蛮征伐は大きな利益を生んだか?という見方に関して私は「ノー」だと思っています。南蛮を制圧したことにより南からの攻撃はなくそこに戦力を注がなくていいというメリットや、のちに南蛮人が味方になったということを加味してもそれだけの「うま味があった」とは思えないからです。
諸葛亮(孔明)が南蛮の王孟獲、孟優を7度捕らえたといってもそれなりに戦死者を出しているのです。世間的には「諸葛亮(孔明)はやはりすごいな!」という評価を与えますが部下的には「お前何やってるの?」というクレームが来てしまいそうなものです。
もし劉備(玄徳)が生きていたらここまで諸葛亮(孔明)に好き勝手させていなかったのではないかと思っています。
諸葛亮(孔明)も孟獲が7度捕まる前に降伏するものだと思っていたのではないでしょうか。捕らえて逃がす回数が多ければ多くなるほど彼の伝説化は強まりますがそれだけ戦死者が増えるので最後は意地で制圧しにかかっていた気がします。
3度くらいで孟獲が投降したら両軍戦力の減少をしなかったし、南蛮人が仲間になった後にもっと戦力になってくれたはずです。
まとめ
■ まとめ
まとめ
以上、諸葛亮(孔明)の南蛮征伐、「七擒七縦」についての私の意見を書きましたがいかがでしたでしょうか。中には「南蛮征伐は南の憂いが取れ心置きなく北伐に向かうことができた」という意見があったり、これにより蜀内部でも諸葛亮(孔明)の凄さが分かり士気が上がった、もしくは「この人に逆らったらとんでもない目に合う」と思う兵士が増え効果があったりしたとみる人もいると思います。
いわばこの南蛮征伐というのは三国志においてはサイドストーリー的要素が多数含まれ、横山光輝のマンガ「三国志」でもファンタジーチックに書かれている場面も少なくありません。
そのためまずはここに焦点を当て深追いするというよりは1、諸葛亮(孔明)が七擒七縦を行い、評価を高めた。2、南からの攻撃を心配する必要がなくなった。3、南蛮人が味方になり蜀の戦争に加わるようになった(そしてそれは大戦力というわけではなかった)
ということを覚えていただけたら幸いです。