孫権の皇帝即位
■ 孫権の皇帝即位
孫権の皇帝即位
表面上は魏に臣従しているという立場だった孫権ですが、224年に再び蜀と手を結び、魏に対抗していくことを決断します。
呉王・孫権は蜀からの使者である鄧芝に「魏を滅ぼして領土を分割しよう」と持ち掛けました。鄧芝は承知し、「魏を滅ぼした後は大王(孫権)と決戦ですね」と答えたといいます。
とりあえず打倒魏という目標のもとに、両者は協力し合う関係を再度構築したのです。
魏の文帝(曹丕)は孫権の裏切り行為に怒り心頭で、自ら将兵を引き連れて呉の殲滅に出陣します。二度の親征が行われましたが軍事的な衝突はほとんどありませんでした。文帝は長江という難所の前に何もできなかったのです。そして226年に文帝は病没してしまいます。
孫権はその混乱を突いて江夏や襄陽へ侵攻しましたが失敗に終わります。しかし手ごたえはあったのでしょう。229年、孫権はついに皇帝に即位することになるのです。
二帝並尊という矛盾
■ 二帝並尊という矛盾
二帝並尊という矛盾
蜀の実権を握っていたのは諸葛亮でした。諸葛亮は先代の皇帝である劉備(玄徳)から建国の志を受け継いでいます。後漢王朝を滅ぼし、帝位を簒奪した魏を討ち滅ぼし、後漢王朝を復興するという志です。そのために諸葛亮は南征を行い国力を高め、北伐の準備をしていました。そして、関羽の軍勢を背後から襲い、さらに劉備(玄徳)の主力を夷陵の戦いで破った敵である孫権と手を結んだわけです。
しかし孫権が皇帝に即位したことで矛盾が生じました。後漢王朝を滅ぼした魏を倒すために、勝手に皇帝を自称する呉の存在を認めなければならなくなったのです。
これが「二帝並尊の矛盾」です。
蜀の国内では孫権が皇帝に即位したことを聞いて、同盟を破棄すべきであるという意見が多くなります。諸葛亮も多いに悩んだことでしょう。「天に太陽がふたつないように、地にもふたりの皇帝は並び立たない」というのが大義名分でした。孫権の皇帝即位を認めることはこの大義名分を無視することになるのです。
背に腹は代えられぬ
■ 背に腹は代えられぬ
背に腹は代えられぬ
崇高な理想を掲げるだけでは問題は解決せず、目標は達成できません。蜀の国力単独で魏を倒すことが不可能であることは諸葛亮自身が一番よく理解していたことでしょう。仮に魏に攻め込んでいる最中に呉の侵攻を許せば蜀が先に滅びる可能性すらあります。
諸葛亮は背に腹は代えられないと、孫権の皇帝即位を認める決断をします。呉をどうするかどうかは、魏を倒してから考えようと群臣を説得しました。志をまっとうするためには、臨機応変な対応も必要だと考えたのです。
この諸葛亮の意見を聞いて、群臣はそれぞれどう思ったのでしょうか。納得した者もいれば、この矛盾を許せなかった者もいたことでしょう。それでも蜀を一枚岩にし、北伐へと進むことができたことは、リーダーである諸葛亮の卓越した政治手腕とカリスマ性を物語っています。
こうして諸葛亮は孫権の皇帝即位慶賀の使者として陳震を派遣することになるのです。
魏領分割案
■ 魏領分割案
魏領分割案
蜀の領土は益州、呉の領土は揚州南部と荊州南部でした。これに対し魏は幽州・冀州・青州・徐州・幷州・兗州・豫州・司隷・雍州・涼州・荊州北部・揚州北部と広大です。
孫権は使者である陳震に対し、魏領の分割を具体的に提案します。そして互いの領土には侵攻しないことを約束するのです。
孫権は建業から北上し揚州北部の合肥をしきりに攻めていましたから、揚州北部は呉に分割されるのは当然の流れです。さらにその隣州である豫州、徐州も呉側と決まりました。徐州の北に位置する青州も呉のものです。
対して蜀は漢中から北上して魏領に攻め込んでいましたから、涼州や雍州は蜀に分割されることになります。隣州の幷州も蜀側と決まりました。この辺りは妥当な提案だといえます。
問題は、洛陽のある司隷、鄴のある冀州、曹操の旗上げの地である兗州、最北の幽州、そして劉備(玄徳)と孫権が血みどろになりながら獲りあった荊州北部をどうするのかになります。もちろん魏を倒せたらという机上の空論に過ぎないのですが、この分割案の着地点は興味深いものがあります。
残りの魏領分割の落としどころ
■ 残りの魏領分割の落としどころ
残りの魏領分割の落としどころ
まず荊州北部は呉の分割とされました。さらにその北にあたる洛陽のある司隷も呉領に割り当てられます。孫権としてはどうしても欲しい領土です。しかしこれではあまりに不公平だと感じたのか、冀州と兗州は蜀に割り当てられています。そして揚州と海路で繋がっている最北の幽州は呉のものと決まりました。
しかし、これが仮に実現したとしたら、蜀の兗州は完全に呉領に四方を囲まれている状態です。このまま蜀と呉が戦争になったら、兗州は司隷・豫州・徐州・青州から攻め込まれます。しかも益州からも、新しい拠点となるだろう長安からも遠いため、あっという間に併呑されてしまうでしょう。そうなると冀州も同じ状況に陥ります。
つまりこの分割案は蜀にとって圧倒的に不利な条件なのです。にもかかわらずこの提案を飲んだ諸葛亮の腹の内は、孫権とはまた別なものだったのでしょう。
呉よりも侵攻が速いという自信があったのかもしれませんし、呉の協力があってもそこまでの侵攻は無理だと考えていたうえでの了承だったのか。
北伐を三度に渡り敢行し、思うような成果をあげられなかった諸葛亮にも焦りがあったのかもしれません。
まとめ・魏領分割が本気であることの証明
■ まとめ・魏領分割が本気であることの証明
まとめ・魏領分割が本気であることの証明
机上の空論であれ、孫権も諸葛亮もこの盟約が本気であることを証明しています。
孫権は兗州牧の肩書を持っていた朱然の官位を解きました。
諸葛亮も青州の王である魯王・劉永と豫州の王である梁王・劉理を別に国王に転じています。それぞれ相手の領土になる予定だったからです。あくまでも肩書に過ぎない話ではありますが、蜀も呉も約束を履行するという証を示しました。
蜀と呉の共同戦線がもっとも成果をあげそうだったのが234年になります。諸葛亮の最期の北伐です。しかし呉は合肥新城を陥落させることができずに撤退。蜀は諸葛亮が陣中で没し、撤退することになりました。
魏領の分割は夢のまま散っていくことになります。そしてまず蜀から逆に滅ぼされることになるのです。
もし魏を滅ぼすことに成功していたら、魏領を分割した後の蜀と呉の対決がどうなっていたのか気になりますね。