三国志・息子を殺された曹操はなぜ張繍と賈詡を許したのか

三国志・息子を殺された曹操はなぜ張繍と賈詡を許したのか

謀叛によって息子を戦場で失った曹操ですが、その相手である張繍や賈詡を許して家臣に加えています。なぜでしょうか?


肉親の死

三国志の舞台は乱世です。殺し殺される覚悟を常に心構えとしていなければならない戦乱の世の中ですから、自分だけでなく肉親の死も容赦なく突然やってきます。
孫権は、19歳という若さで孫家の家督を継ぎましたが、それまでには父親である孫堅が戦死し、兄の孫策も刺客によって負傷して亡くなるという経験をしています。
関羽は、魏の武将である龐徳を倒しましたが、蜀が滅亡した際には龐徳の子である龐会によって関羽の子孫は根絶やしにされました。
董卓は、王允と呂布によるクーデターによって殺されましたが、その際に血族は皆殺しにされ、90歳になる母親も処刑されています。

曹操の肉親はどうだったのか

三国志の英雄・曹操の肉親はどうだったのでしょうか?
曹操自身は戦場で何度も危機的な状況を迎えていますが、味方の活躍もあり奇跡的に乗り越えて、寿命をまっとうしています。劉備(玄徳)らは曹操を倒したかったでしょうが、誰も曹操の首を討つことができなかったわけです。

しかし、曹操の肉親となると話は別です。
曹操の父親は曹操の拠点に移動中に他勢力に襲撃され命を落としました。弟も同時に失っています。曹操の長子である曹昂は退却中に曹操を逃がすべく犠牲となっています。
曹操は乱世の中で最後まで生き抜きましたが、父親を殺され、弟を殺され、息子を殺されるという悲劇を体験しているのです。

父親である曹嵩と弟である曹徳の死

曹操の父親である曹嵩は夏侯氏の一族であり、有力な宦官の一人であった曹騰の養子となりました。曹嵩は宦官ではなく、政治家として朝廷に出仕し、太尉にまで出世しています。記録によると銭を払って官位を買ったそうです。その金額たるや一億銭といいます。
曹操がお金持ちの家で生まれ育ったのは間違いないですね。

曹嵩は董卓が洛陽を支配し、朝廷を牛耳るようになると遠く徐州の瑯邪に疎開します。曹操の弟である曹徳もまた同行しています。
董卓がクーデターによって殺されると避難している必要もなくなり、193年には曹嵩は兗州に戻ることになります。事件はこのときに起こりました。

諸説ありますが、徐州の牧である陶謙の配下が曹嵩の一行を襲い、曹嵩と曹徳は殺されてしまいます。陶謙の命令であると記している「魏晋世語」もあれば、陶謙の部下の独断であると記している「三国志正史」呉書もあります。
「三国志演義」は部下が曹嵩の所有する財宝に目がくらんで犯行に及んだとしました。劉備(玄徳)と親交のあった陶謙を悪者として描くことはしませんでした。

息子である曹昂の死

父親の死の4年後の197年には、今度は袁紹側に与する宛城の張繍を曹操は攻めて降伏させます。しかし張繍の軍師である賈詡の計略にまんまとはまり、曹操は情事にふけっている最中に反乱を起こされ夜襲を受けることになるのです。

曹操はこの危機を脱出するために警護役として信頼していた典韋と、自身の長子である曹昂、さらに甥(曹操の兄の子)の曹安民まで戦死させてしまいました。これが原因で正妻の丁夫人とも離縁することになります。
メンタル面がかなり強くないとこの状況からの再起は難しいですね。それを成し得た曹操はやはりただ者ではありません。

この対応の違いは何なのか

ここで不思議なのが曹操の対応の違いです。
父親を殺した陶謙に対しては非情なまでに徹底的な攻撃を仕掛け、徐州の民を大虐殺しました。殺された民の死体で河は埋め尽くされたと記されています。曹操のプレッシャーによって陶謙は病没し、徐州は息子たちに譲らず、劉備(玄徳)に託しました。
恐ろしいまでに曹操から憎しみの炎を感じます。陶謙は劉備(玄徳)を息子たちを守る盾としたのかもしれません。

では曹操は、息子を殺された際はどうだったのでしょうか。
さらに残忍な復讐をしたのだろうと推測されますが、実はその逆で、改めて張繍や賈詡の降参を受け入れているのです。裏切って反乱を起こし、曹操を絶体絶命の危機に陥れ、息子を殺した相手を許したということになります。
ずいぶんと極端な対応の違いですね。この違いは何のでしょうか?

何よりも「孝」が勝る

日本の武士道とは異なり、三国志の時代の儒教では、主君への「忠」より親への「孝」を重んじられました。国よりも家族を大切にしたのです。そうしなければ血脈が絶えてしまうからです。
その観点から考えても、親の仇を討つのは当然の行為だったわけです。もっとも大切にしているものを奪われたわけですから、曹操の怒りは理解できます。

また、陶謙は袁術や公孫瓚と結束しており、袁紹派の曹操とは敵対関係でした。そのために曹嵩は陶謙側に襲撃されたともいわれています。いろいろな意味合いで、曹操は陶謙を絶対に許せなかったわけですね。

一方で息子を失った際には、自らの不徳を恥じています。責任は自分にあると曹操は感じていたようです。憎しみよりも反省の方が強かったようですね。
さらに袁紹という巨大勢力を相手にしている以上、後背の張繍を味方に引き入れることは重要でした。軍師・賈詡もその辺りの事情をよく理解しているからこそ、反乱を起こしながらも改めて降伏することを張繍に勧めたのでしょう。

まとめ・天下を治めるには忍耐力が必要

日本でも徳川家康が、同盟者の織田信長から武田信玄への内通を疑われ、息子である徳川信康を切腹させています。さらに正室も処刑しています。乱世を鎮めるにはこれほどの犠牲を強いられ、これを乗り越えていかなければならないのです。

徐州の大虐殺は曹操の最大の汚点とされており、まったく弁護の余地がありませんが、曹操には曹操なりの事情や信念があったのかもしれません。

非道の人物として描かれることも多い曹操ですが、彼もまた肉親を戦乱で失う苦しみや悲しみを何度も体験しているのです。しかしそのことで人間を恨むことはなく、天下を治めるためには優秀な人材が必要であると悟って、張繍や賈詡を許したのではないでしょうか。曹操の器の大きさを物語っていますね。

ちなみに張繍は官渡の戦いでも活躍しましたが、曹操の後継者である曹丕に、私の兄を殺したなと圧力をかけられて自害したとも伝えられています。曹操と曹丕の器の大きさの違いを表していますね。

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