打つ手に失策なし! 軍師・賈クの名策略5選

打つ手に失策なし! 軍師・賈クの名策略5選

董卓・李カク・張繍・曹操と、幾度も主君を変えながら乱世を渡り歩いた軍師・賈詡(賈ク)。これほどいくつもの陣営を渡り歩いたにもかかわらず、77歳という天寿を全うすることができた。「打つ手に失策なし」と言われた賈クの生涯から、彼の深謀が特に冴え渡った5つのエピソードを紹介する。


1.賊にはったりをかまして生き延びる

1.賊にはったりをかまして生き延びる

1.賊にはったりをかまして生き延びる



 賈ク(字は文和)は、西暦147年に涼州の武威郡で生まれた。涼州とは、中国の西方にある広大な地域で、遊牧騎馬民族とも接する地域である。
 若い頃、賈クは漢朝に出仕したが病気により辞職。帰郷の途中、漢王朝の支配に従わない異民族・氐族の集団に捕らえられてしまった。同行していた数十人はすべて殺されてしまったが、賈クは賊に対してこう言った。
「自分は太尉・段熲の親族である。自分を殺して手厚く葬ってくれれば、我が一族が遺体を丁重に引き取りに来るだろう」
 異民族にも恐れられていた有力者の一族をかたり、自分を殺せば黙っていないぞ、と暗に脅しをかけたのだ。氐族の者たちは賈クの言うことを鵜呑みにし、恐れを抱いて賈クを解放した。頭が良いだけでなく、命の危険に際しても平然と偽りを述べられる度胸も持ち合わせていたのだ。

 生還した賈クは、その後董卓に仕え、その後は李カク・段ワイ・張繍と主君を変えた。
 
 董卓の暗殺後、賈クは董卓の家臣だった李カクに対して策を授け、長安を奪回することに貢献した。しかし、李カクは都で暴政を敷き、賈クに見限られてしまう。結局、李カクは賈クが去ってから没落してしまった。
 次に仕えた段ワイ(火へんに畏)は、賈クがあまりに智謀に長けているため、とって代わられるのではと内心恐れていた。段ワイの心理を見抜いた賈クは自主的に主君のもとを離れ、張繍に仕官する。
 賈クは家族を段ワイのもとに残していたが、段ワイは張繍との関係を気にして、賈クの家族に危害を加えなかった。賈クは恐るべき洞察力で、自身も家族も傷つけることなく完璧に乱世を生き延びたのである。

2.奇襲によって曹操を追い詰める

2.奇襲によって曹操を追い詰める

2.奇襲によって曹操を追い詰める

 賈クの生涯の大きな見せ場の一つが、「宛城の戦い」だ。
 197年、曹操は大軍を率いて本拠地の許昌を出陣。張繍は賈クの助言をいれ、降伏して本拠地の宛城を明け渡した。
 ところが、曹操は張繍の一族の未亡人・鄒氏を気に入って妾にしたため、張繍の恨みを買う。それを知った曹操は張繍を暗殺しようとしたので、張繍は先手を打って曹操に反逆することにした。

 反乱は、賈クの立てた計略のもと実行された。張繍は曹操に、「軍を移動させたいので、兵を武装させたまま曹操殿の陣地を通過させてください」と申し入れた。信用した曹操は、張繍軍の兵の通過を許してしまう。完全に油断していた曹操軍は、完全武装した張繍軍の奇襲によって壊滅した。
 曹操自身はかろうじて逃げ延びることができたが、この時に近臣の典韋、長男の曹昂、甥の曹安民らを失う。曹操の生涯でも、痛恨といえる敗戦のひとつとなった。

3.完璧なタイミングで曹操配下に入る

3.完璧なタイミングで曹操配下に入る

3.完璧なタイミングで曹操配下に入る

 宛城の戦いのあとは、言うまでもなく張繍と曹操の敵対関係が続く。
 情勢が変わるのは、199年に曹操と袁紹が対峙した時のことだった。天下分け目の「官渡の戦い」が始まる前年である。

 張繍は兵力に勝る袁紹につこうとしたが、賈クは曹操につくべきだと進言した。
「曹操の重臣や息子を殺した私が受け入れられるはずがない」
と言って張繍は渋ったが、賈クは3つの理由を挙げて説得する。

1.曹操は、天子(皇帝)を奉じている。
2.今は曹操に味方するものが少ないので、曹操につけば必ず厚遇される。
3.曹操の性格であれば、自分の器の大きさを示すために、恨みを水に流して張繍を受け入れるはずである。

 張繍はこれを聞いて納得し、曹操に降伏した。賈クの言ったことはすべて的中し、以後賈クは曹操の謀臣として活躍する。

4.「離間の計」で涼州反乱軍を分裂させる

4.「離間の計」で涼州反乱軍を分裂させる

4.「離間の計」で涼州反乱軍を分裂させる

 曹操のもとでも、賈クの知略の冴えは変わらなかった。208年の赤壁の戦いの前には、まず荊州の足場を固めてから孫権の降伏を促すべきだと進言し、性急な軍事行動を戒めた。曹操はそれに従わず孫権を攻めるが、結局大敗した。

 曹操配下としての賈クの策略の中でも、特に有名なのが「離間の計」だろう。長らく曹操に従ってこなかった涼州の馬超・韓遂の仲を引き裂くために使われた。
 211年、曹操軍と馬超・韓遂率いる涼州連合軍が激突した。「潼関の戦い」である。涼州軍は数で劣るものの、騎馬の扱いに長けた北方異民族も取り込んでおり、曹操軍にとって脅威だった。
 この時、賈クは敵軍の司令塔である2人の武将を離れさせるために一計を案じた。曹操の手紙として、あちこちが墨で塗りつぶされた手紙を韓遂に送りつけたのだ。韓遂と曹操は古くからの知り合いである。手紙を見た馬超は、見られたら困る部分を墨で消したのではないかと思い、韓遂と曹操が通じているのではないかと疑う。
 賈クの思惑通り、馬超と韓遂は不仲となり、足並みの乱れた涼州軍は曹操軍に敗れ、敗走した。

5.権力争いに巻き込まれることなく、天寿を全うする

5.権力争いに巻き込まれることなく、天寿を全うする

5.権力争いに巻き込まれることなく、天寿を全うする

 最後に紹介する話は、策略というよりは処世術だ。
 曹操の後継者をめぐっては、嫡子の曹丕と、文才があり曹操からも愛された曹植との間で争いがあり、臣下も二派に分かれていた。
 あるとき、曹操は賈クに後継者をどうすべきか問うたところ、賈クは即答しなかった。しばらく考えたあと、こう答えたという。
「いま、袁紹と劉表のことを考えておりました」
 袁紹も劉表も、嫡子を後継者としなかったことで家中を混乱させ、勢力を衰亡させていた。曹操はこれをきいて、嫡子の曹丕を後継者にすることにした。

 このエピソードは、賈クの思慮深さを余すところなく伝えている。彼は有力者と縁戚関係を結ぶことをせず、派閥争いからも距離を取っていた。そのため、権力闘争とは無縁で、政敵から陥れられたり、主君に疎まれて粛清されたりすることなく、天寿を全うできた。

 上記のエピソードでは、賈クは自分の中で答えを持ちながらも、はっきり口には出さなかった。明確に口に出すとどちらかの派閥にくみすることになるからだ。しかも、こうした遠まわしな言い方なので主君の逆鱗に触れることもない。

 賈クは曹操の死後も、跡を継いだ曹丕のもとで厚遇され、223年に77歳という長命をもって病没した。
 幾度も主君を変えた賈クは、儒教的な道徳にはそぐわないため、後世の歴史家には好意的に評価しない者もいる。しかし、人間心理や情勢を正確に見通す洞察力、言動を慎んで内部に敵を作らない思慮の深さ、そして危機においても冷静に対処する精神力と、現代に生きる我々にとっても、賈クから学べることは多いのである。





この記事の三国志ライター

歴史好きフリーライター。史実解説・トリビアをメインに書いていきたいです。

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