蜀を建国した流浪の仁徳者劉備(玄徳)
■ 蜀を建国した流浪の仁徳者劉備(玄徳)
蜀を建国した流浪の仁徳者劉備(玄徳)
劉備(玄徳)は漢王朝の血筋を引いており、黄巾の乱による荒廃した後漢を救う為、義勇軍を立ち上げます。その中には豪傑の関羽と張飛がおり、群雄たちからは一目置かれた英傑といわれていました。
劉備(玄徳)は人望があり、優秀な配下が揃いますが、本拠地を持てないままに曹操や呂布、袁術たちと時には手を組みますが、攻められることもあり、各地を流浪していきます。一時は袁紹の下に身を潜めていました。
劉備(玄徳)の転機となったのは荊州の劉表を頼ったとき、すでに50歳を迎えていたころでした。諸葛亮を幕僚に加え、天下三分の計を実現すべく、孫権と同盟を結び、赤壁の戦いで10万もの大軍を誇る曹操を退けています。
後に劉備(玄徳)は益州に入り、黄忠やホウ統の活躍もあって劉璋を攻めたてて入蜀を果たしました。益州では諸葛亮を中心とした政治で国力安定を図りますが、荊州の守備に就いていた関羽が呉の裏切りによって殺されてしまいます。その後、漢王朝の復興を目指して蜀を建国し、初代皇帝となりますが、関羽の仇討ちはいつまでも忘れてはいませんでした。とうとう大軍を起こして呉の討伐へ向かおうと決心したとき、張飛が部下に裏切られて殺されてしまいます。
失望の中で激突した呉との夷陵の戦いでは、劉備(玄徳)は陸遜の策略にはまり大敗を喫してしまいます。劉備(玄徳)は諸葛亮に後事を託し、白帝城で息を引き取りました。劉備(玄徳)の志は諸葛亮によって引き継がれていきます。
劉備(玄徳)への忠誠を誓った天下の豪傑関羽
■ 劉備(玄徳)への忠誠を誓った天下の豪傑関羽
劉備(玄徳)への忠誠を誓った天下の豪傑関羽
三国志の中で最強の武人といえば関羽が筆頭に挙がるでしょう。曹操や孫権、袁紹といった各地の群雄たちにも恐れられ、張飛と一緒に長年劉備(玄徳)を支えていきました。関羽は劉備(玄徳)の旗揚げから参戦し、一騎当千の武力で敵兵をなぎ倒していきました。軍略にも優れ、指揮官としても優秀でした。
劉備(玄徳)が曹操に敗れた折、関羽は劉備(玄徳)の家族の護衛を任されていましたが、曹操軍に包囲されてやむなく降伏しています。曹操は関羽を気に入り、自分の配下にするべく好待遇で迎え入れます。曹操は関羽だけでなく、劉備(玄徳)の夫人や家族にまで手厚く施し、さすがの関羽も曹操の器量に恩を感じたほどです。
関羽は曹操の配下としてではなく、後漢の臣として曹操の客将となりました。当時の曹操のライバルは河北の袁紹で、2大勢力が激突すると、袁紹軍の猛者である顔良が曹操軍を圧倒していきます。関羽は顔良を斬り捨てて曹操への恩を返しました。
劉備(玄徳)の元へと帰参してからは、荊州攻略に尽力し、孫権と同盟を組んで魏の曹操軍を相手にしていました。劉備(玄徳)が蜀を制圧するころ、関羽は荊州の総指揮官として存在しています。孫権陣営にも常に警戒を怠らず、関羽は2大勢力を相手に、たった一人の影響力で睨みをきかすことができていました。関羽は魏軍を退けて荊州を守っていましたが、呉の裏切りにあい、呂蒙・陸遜といった稀代の将軍たちの連携もあって、魏・呉の連携軍の前に敗れました。激戦区の荊州を守り抜いてきた関羽でしたが、とうとう捕えられ、処刑されています。
関羽の凄さは、魏と呉が連携しないと倒せなかったほどであり、その死後は蜀の戦力が大きくダウンしてしまいました。
破壊力は大陸一番の強者・張飛
■ 破壊力は大陸一番の強者・張飛
破壊力は大陸一番の強者・張飛
張飛は関羽と同じく、劉備(玄徳)の旗揚げ当時から付き添っています。短気で強直な性格であり、もめ事を起こすこともしばしばありました。張飛は常に劉備(玄徳)の身辺警護を図り、関羽ほどの軍略は見えないものの、武勇に関しては関羽ですら敵わないほどでした。
張飛の最大の見せ場はやはり長坂橋の攻防でしょう。劉備(玄徳)が新野に拠点を構えていたころ、曹操の南下に伴い、劉備(玄徳)たちも江夏へと逃れていきました。しかし、劉備(玄徳)に付いていきたい襄陽の民衆たちは進む速度が遅いため、たちまち曹操軍に追いつかれて大混乱に陥りました。その窮地を救ったのがこの張飛です。
張飛は長坂橋に一騎で待ち受け、曹操の大軍を一喝し、向かってくる兵をなぎ倒して威圧していきました。張飛の鬼ともいえる形相に、曹操軍は怯んでしまい、劉備(玄徳)は難を逃れています。
また、赤壁の戦い後、関羽が荊州に残りますが、張飛は劉備(玄徳)とともに益州へと向かい、入蜀に貢献しています。張飛は行く先々で益州を支配していた劉璋軍を撃破していき、劉備(玄徳)の蜀建国に多大な貢献を果たしました。張飛は三国志演義の影響で横暴なイメージがありますが、益州で活躍する頃には立派な指揮官として活躍しています。
張飛は部下の裏切りにあい、非業の死を遂げていますが、彼なくしては劉備(玄徳)のスムーズな入蜀は成し得なかったといえるでしょう。
天才的政治家・劉備(玄徳)の三顧の礼に応えた諸葛亮孔明
■ 天才的政治家・劉備(玄徳)の三顧の礼に応えた諸葛亮孔明
天才的政治家・劉備(玄徳)の三顧の礼に応えた諸葛亮孔明
三国志の後半の主役がもちろん諸葛亮です。書生として暮らし、20代の青春をのんびりと過ごしています。劉備(玄徳)が諸葛亮の噂を聞き、三顧の礼で迎え入れると、諸葛亮は天下三分の計を説いて幕僚として加わります。
諸葛亮は使者として孫権との同盟を成功させ、赤壁の戦い後、荊州南群を制圧しています。関羽とともに荊州の守備に就きますが、劉備(玄徳)に同行していたホウ統が戦死すると、諸葛亮は益州に向かい、劉備(玄徳)の蜀制圧に貢献しています。
諸葛亮は蜀の土台作りに奔走しながら、魏軍を相手に漢中を手中に収める献策を施しています。劉備(玄徳)が蜀を建国すると、丞相の地位を任されました。政治の中心にいたのが諸葛亮であり、劉備(玄徳)から厚い信頼を得ていました。しかし、関羽や張飛の死に呉が関連していることがわかると、劉備(玄徳)の怒りは抑えることができないほどで、夷陵の戦いを止めることができませんでした。
劉備(玄徳)亡き後は、その子劉禅を補佐し、丞相として国を支えました。また、劉備(玄徳)の遺志を継いで北伐を敢行し、魏と何度も戦っています。諸葛亮の凄いところは、本職の政治家として国力を高める活動をしながら、法の整備を行い、軍の強化にも務めています。
諸葛亮は北伐で総指揮を執り、前線に赴いて戦っています。文官でありながら、武官の仕事も一流にこなすという、まさに天才的政治家といえるでしょう。三国志演義では風を操れるほどで、何でもできるスーパースター的存在となっています。
劉備(玄徳)・関羽・張飛・諸葛亮の面々は、それぞれ蜀建国に欠かせない英雄たちであり、飛び抜けた存在感があるといえます。三国志初心者が好きになるのは人情的にも蜀が多く、強大な曹操・魏に立ち向かった劉備(玄徳)・関羽・張飛・諸葛亮は稀代の英雄として語られています。
まとめ
■ まとめ
まとめ
今回は蜀を支えた傑物たちでしたが、彼らは特に人気が高いものでした。三国志のゲームや漫画などでも卓越した人物で描かれており、三国志の中心的存在といえますね。蜀にはまだまだ魅力的な人物が多くいるので、次回に紹介していきます。