【武将考察】趙雲、決死の阿斗救出劇-長坂の戦い

【武将考察】趙雲、決死の阿斗救出劇-長坂の戦い

【武将考察】シリーズの第1回。長坂の戦いでの趙雲の活躍とそこから見えてくる趙雲の性格などについて考察します。


この【武将考察】シリーズでは、三国志に登場する戦役とそこで活躍した武将について考えてみたいと思います。
第1回は、長坂の戦いと蜀の武将・趙雲をとりあげます。
長坂の戦いとはどんな戦いだったのか。そこから見えてくる趙雲の人柄などについて、考察をしてみたいと思います。

戦いの流れ(前編)

後漢末期の戦乱に乗じて、漢の丞相となった曹操は、華北を平定したのち、南の荊州方面に野望を向けます。
このころ、荊州は王家の血をひく劉表がよく政治を行い、民心も安定していました。
曹操は大軍をおこして南下を始めます。
劉表は曹操への抗戦方針をもっていたものの、この直後に病により急逝します。
遺言により後継は長男の劉琦とされていたにもかかわらず、劉表の側室蔡夫人とその兄の重臣・蔡瑁は、夫人の子である弟・劉琮を後継とします。
その上で、蔡瑁らは曹操に恭順する道を選び、劉琮もこの提案を容れてしまいます。
劉表の客将として、前線の新野に駐在していた劉備(玄徳)は、劉琮が曹操に降伏をしてしまったことで孤立します。そこへ曹仁・曹洪を先鋒とする曹軍20万が襲いかかります。
劉備(玄徳)の軍師・諸葛孔明は計略を用いて曹軍を撃退し、新野から樊城に移動し善後策を練ります。
曹操に対抗するには方法は1つしかありません。それは蔡瑁を討ち、荊州を奪うことです。孔明ら家臣たちはこの案を支持しますが、劉備(玄徳)は「それでは劉表の信頼を裏切ることとなり義に反する」として却下します。

戦いの流れ(後編)

結局、劉備(玄徳)軍は樊城を撤退、転戦を余儀なくされますが、劉備(玄徳)を慕う民衆はともに逃亡することを希望します。このため、行軍速度はおそく、曹操軍は苦もなくこれを追撃することになりました。
まずは劉琮のいる襄陽を目指した劉備ですが、城には入れず、城兵から矢を射かけられます。
襄陽をあきらめた劉備は、ついで軍需物資の豊富な江陵を目指して南下をはじめます。
曹軍は蔡瑁ら荊州軍を吸収しつつ、並行して劉備(玄徳)軍を追撃。民衆をつれにげる劉備(玄徳)軍は、長坂で追いつかれてしまいます。
長坂の戦いはこうして起こりました。
劉備(玄徳)は、夏口を守る劉琦に援軍をもとめるために関羽を使者として差し向け、ついで孔明をも追派します。
しかし、すでに民衆の大半は曹軍に飲み込まれていました。
この中には、劉備(玄徳)の妻である糜夫人と嫡男の阿斗も含まれていました。
趙雲は、このことに気づくと馬首を反転し、雲霞のような曹軍の真っ只中に引き返します。
そして、農家の井戸のそばに傷ついた糜夫人と夫人に守られた無傷の阿斗を見つけます。
二人を救出したい趙雲でしたが、足手まといになることを怖れた糜夫人は、井戸に身を投げます。
趙雲は、衝撃に打ちのめされながらも阿斗を胸に抱くと、再び馬に飛び乗り、劉備(玄徳)軍を目指して包囲網を切り抜けました。
命からがら、夏口へ到達した劉備(玄徳)は、劉表の長男・劉琦と合流します。さらに江南の呉の地を治める孫権の使者が訪れたことを契機に呉と連携して曹軍に対抗する道を見出します。
その後、孔明の外交交渉もあり、赤壁の戦いへと繋がっていきます。趙雲はその後も蜀の忠臣としてかけがえのない働きをみせました。

張飛から見た趙雲とは、どんなヤツ?

張飛からみた趙雲とは、どんな存在だったのでしょう。おそらく真面目すぎてとっつきにくいやつ、と思われていたに違いありません。
張飛は、関羽とともに劉備(玄徳)の義弟であり、三人がともに国のために立ち上がろうと決意した「桃園の誓い」は三国志の冒頭のストーリーとしてあまりに有名です。
その張飛ですが、趙雲と同じく長坂の戦いでは軍の最後尾いわゆる殿に位置しており、川に架かる長坂橋に依って曹軍を食い止めたとの逸話が残されています。
張飛は、趙雲が敵陣に飛び込んだようすをみて寝返ったと思い込んだようで、阿斗を抱いて帰参した趙雲に一時疑いの目を向けます。
横山光輝『三国志』の中では、次のようなシーンが描かれています。
趙雲が阿斗を示し事情を話すと、張飛は
「俺もお前が裏切るなんておかしいと思った」
と都合のいい言葉でごまかしているのです。やはり扱いにくいと思っていたのかもしれません。
張飛がこう思ったのは、趙雲がかつて公孫瓚に仕えていたところ、趙雲自信が劉備に惚れ込み、後に劉備軍に帰属した経歴の持ち主ではないかと思われます。
だからまた都合が変われば寝返るやつではないか?という疑問がわずかながら張飛の胸に去来したとしても不思議はありません。
おそらく張飛としては、趙雲の人柄や信義の厚さはよく知る一方、劉備(玄徳)の旗揚げから行動を共にしている自身にある種の優越感、アイデンティティを持っていたことでしょう。

趙雲がこんな人だったら面白い!

個人的に、趙雲には親父ギャグを好んで繰り出すようなタイプであってほしいな、そうだったら面白いだろうなと思います。
 というのも、三国志でつたわる趙雲は、非常に真面目さばかりがクローズアップされていて、頼もしい反面、人間味がうすく感じられてしまいがちだと思うからです。
軍の強さが、率いている将の個人的な武勇に大きく依存していたこの時代、真面目な趙雲が軍団の士卒をどんなふうに統率していたのか、非常に興味深いところです。
趙雲の性格上、真面目さ、律儀さがベースになるのでしょうが、それだけではいかにも人物の奥行が感じられないし、真面目一辺倒な上司など、仕えている部下にとっては嫌気がさすのではないでしょうか。
 例えば、趙雲は親父ギャグが大好きな人でした、とかいうようなことがあると、本当に人間味があり、士卒の信頼もより深まったと思います(従来の趙雲のイメージが崩れてしまうかもしれませんが)。
 「貴様、新入りか?わが隊はここまで負け知らず。このところツキまくっていてな。チョー運がいいのだ。趙雲だけにな!」
 などと新入りを激励するようなことがあったら、とても面白いなと思います。

趙雲が現代日本にいたら何をしているか

趙雲がもし現代日本にいたら、何をしているでしょうか。個人的なイチオシは、女子高の先生だと思います。
こんな逸話があります。
赤壁の戦いのあと、荊州の一角を拠点とした劉備軍は、荊州南部の城を攻略します。その中の桂陽城攻めを担当したのが趙雲でした。
桂陽の太守・趙範は降伏し、趙雲は桂陽城に入ります。宴のなか、趙範は未亡人となっていた兄嫁を趙雲の妻にと勧めます。これが趙雲の怒りをかい、趙範をどつきまわして立ち去りました。
あとから劉備(玄徳)に理由を聞かれた趙雲は、力づくで城を奪い、太守の兄嫁まで奪ったと噂がたっては劉備(玄徳)の人気にも水を差すかもしれないからだ、と答えたといいます。
趙雲であれば、女子生徒に手を出すようなこともなく、熱血教師として生徒からの信頼もあつめる模範的な教師ができるのではないでしょうか。

まとめ

今回は、長坂の戦いにおける趙雲の活躍、そこから見えてくる趙雲の性格などについて考察しました。
趙雲のような忠義者が活躍するというのは、あるいは現代社会では望みがたいことかもしれません。趙雲が現代の日本に生きたとしたら、女子高の教師になったかどうかはともかく、確実にストレスを溜めて息苦しさを訴え、体を壊してしまうかもしれません。
こうした視点で三国志の武将たちを眺めるのもまた、面白いのではないでしょうか。

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