固定観念を取っ払って三国で好きな国を作ろう

固定観念を取っ払って三国で好きな国を作ろう

三国志は劉備(玄徳)率いる蜀が正義で曹操(孟徳)率いる魏が悪者と多くの方に捉えられています。しかしそれは「三国志」という正史ではなく、三国志演義の歴史小説のイメージが強いからです。今回は一国から二名の代表人物を出しそのエピソードを紹介しますので好きな国を作ってみてください。


魏一人目、典韋

魏一人目、典韋

魏一人目、典韋

典韋は三国志の名だたる武将の中でも最も戦闘力が高い一人でした。そして彼は曹操(孟徳)のボディーガードを務めました。「典韋がいる限り曹操(孟徳)の暗殺は絶対に無理」と言われていたほどでした。
曹操軍に裏切り者が少なかったのも彼の功績だといわれています。典韋は家柄がよかったわけではありません。それどころか若いころゴロツキで、今でいう「ヒットマン」のようなことをしていました。町の顔役(今でいう県議会議員)とその妻を殺した彼は堂々と門を出ました。
大騒ぎとなりましたが典韋の怖さに誰も近づくことができなかったというエピソードがあります。
そんな典韋ですが曹操(孟徳)の片腕ともいえる夏侯惇(元譲)にスカウトされ曹操(孟徳)のボディーガードをすることになったのです。

勤務態度はいたってまじめで、曹操(孟徳)のそばに立ち続けた典韋はまさにボディーガードの鏡と言えました。典韋は張繍に攻め込まれた曹操(孟徳)を逃がし追っ手を防いだのですが、そこで死にました。身には無数の傷を受け失血死したといわれています。まさに武蔵坊弁慶のような死に方だったのでしょう。
こんな魅力たっぷりの武将が魏の一人目の人物です。

呉一人目、黄蓋(公覆)

呉一人目、黄蓋(公覆)

呉一人目、黄蓋(公覆)

呉の将軍黄蓋(公覆)といったらやはり赤壁の戦いで勝利を導いたエピソードが一番強いですが、その前に黄蓋(公覆)という男が将軍になるに至った経緯について紹介します。
黄蓋(公覆)は若くして父を亡くし、貧しい暮らしの中で兵法を学びました。知力に優れ行動力もあったためすぐに抜擢され江東の統治官として力を発揮していました。反乱が勃発すると必ず黄蓋(公覆)が派遣され鎮圧したといわれています。
しかし彼は武力で高圧的に反乱を抑えたわけではなく、弱いものに対し手厚い保護の手を差し伸べたため反抗していた者たちも彼に対し心を開くようになりました。それでいて戦も得意で孫堅(文台)、孫策(伯符)といった戦好きの君主を支えました。
そして極めつけが赤壁の戦いです。レッドクリフを見た人ならご存知だと思いますが火責めで呉・蜀連合軍は優位に立ちます。この火責めを提案したのが黄蓋(公覆)です。降伏したかのように見せかけ魏軍に近づき軍戦に火をつけたのです。それを成功させた大きな要因が「演技」です。まず呉の君主孫権(仲謀)に自分を半殺しの目に合わせ、曹操(孟徳)に忠誠を誓うふりをしたのです。
黄蓋(公覆)の死後、彼の肖像画を描いて季節ごとにお祭りをしたというエピソードがあります。

蜀一人目、黄忠(漢升)

蜀一人目、黄忠(漢升)

蜀一人目、黄忠(漢升)

三国志で老将と言って真っ先に思い浮かべられる人物が黄蓋(公覆)と黄忠(漢升)です。二人とも「黄」がついて紛らわしいです。
黄忠(漢升)の出生については不明なので正確な年齢は知られていませんが、とにかく老いていたということだけは確かなようです。老いてなお戦闘力に長けていて並み居る猛者たちを一騎打ちで葬ってしまう実力の持ち主でした。
彼の武勇伝は尽きることがないのですが、それに加え人格者でもあるといわれていました。黄忠(漢升)は関羽(雲長)と同等の後将軍に任命された際、関羽(雲長)は老人と同格であることにひどく腹を立てました。それに対し劉備(玄徳)が何とか説得し、関羽(雲長)を説得しました。
この際黄忠(漢升)の発言に対してはフォーカスされていませんが関羽(雲長)が腹を立てたことに対し「何を!この青二才が!」となってもいいくらいの実力の持ち主だったのに、きっと笑って見ていたのでしょう。
三国志演義では黄忠(漢升)が70歳を過ぎているにも関わらず魏の中でもトップクラスの夏侯淵(妙才)を打ち取るという歴史的勝利を収めました。
まさに会社を退職した人たちの希望の星ともいえるのが黄忠(漢升)ではないでしょうか。

魏二人目、李典(曼成)

魏二人目、李典(曼成)

魏二人目、李典(曼成)

戦争では力が強く相手を葬る猛々しい武将が目立ちますが、その一方で兵糧輸送などの後方支援は地味ですが、非常に重要な役割を担っています。そんな後方支援のエキスパートが李典(曼成)です。もともとは武芸より学問を好んでいて、様々な書物を読み漁り儒学の知識も備えていました。
そんな李典(曼成)ですが、父、兄を亡くし3000人の兵を纏めなければいけない立場になりました。そうなると「学問が好き」とは言えない状況になってしまい曹操(孟徳)の軍門に下ることになったのです。
李典(曼成)は冷静で用心深く、戦況を見極められるということもあり将軍として理想的な人材という高評価でした。
張遼(文遠)とは仲が悪かったが「仕事に私情ははさまない」とする李典(曼成)は二人で合肥に攻め入る呉軍を蹴散らしました。
そんないぶし銀的な活躍をする李典(曼成)はいかがでしょうか。

呉二人目、甘寧(興覇)

呉二人目、甘寧(興覇)

呉二人目、甘寧(興覇)

人材登用と言ったら曹操(孟徳)の十八番のように思われますが、呉の君主孫権(仲謀)もなかなかなものです。特に彼は誰もが手を付けたくない呂蒙(子明)、甘寧(興覇)といったどうしようもないゴロツキを将軍にまで押し上げてしまったのです。
恐らくレッドクリフで中村獅童が演じた甘興は甘寧(興覇)がモデルです。さらにキングダムを読んでいる人に分かりやすく言うと「桓騎」です。やくざの親分として暴れまわっていた甘寧(興覇)はこのままではまずいと思い更生しました。
孫権(仲謀)は周瑜(公瑾)や呂蒙(子明)に説得され特別待遇で甘寧(興覇)を迎えるとその期待以上の働きをし、赤壁の戦いでは勝利に大きく貢献しました。
奇襲が得意で度々魏に損害を与えていたので孫権は「魏には張遼(文遠)がいるが呉には甘寧(興覇)がいる」といったくらいです。
こんな見事なジョブチェンジを果たした張遼(文遠)はいかがでしょうか。

蜀二人目、姜維(伯約)

蜀二人目、姜維(伯約)

蜀二人目、姜維(伯約)

姜維(伯約)はもともと魏兵でしたが、彼の上司が、部下の姜維(伯約)が敵軍と内通しているのではないかと信じられなくなったため城から追い出してしまいました。やむなく蜀に降伏した姜維(伯約)ですが、孔明はそんな彼の能力を見抜き将軍に任命しました。
姜維(伯約)はその期待に十二分にこたえる形で関羽(雲長)、張飛(翼徳)、趙雲(子龍)亡き後蜀軍次世代エースとして大車輪の活躍をしました。
魏が蜀に攻め込んできて君主・劉禅(公嗣)が魏に降伏した後も姜維(伯約)だけはあきらめずに抗い続けました。結局捉えられ殺されてしまいましたが、最後の最後まで魏に抗った姜維(伯約)は見事ではないでしょうか。
諸葛(孔明)は生前、姜維(伯約)を「才能は馬良以上」「軍事を非常によく理解している」「仕事に忠実で細かなことにもよく気が付く」と褒め千切っています。なんでも自分でやらなければいけない諸葛亮(孔明)の目には姜維(伯約)が救世主に見えたのではないでしょうか。
投降したから自分は蜀を支えるという熱い思いを持っていた男姜維(伯約)はいかがでしょうか。

まとめ

まとめ

まとめ

上記6人のストーリーを目にして、「この国を推したい!」と思う人が一人でも生まれてくれたら幸いです。
三国志は他にも魅力ある将軍、軍師が沢山います。今までの固定観念を取っ払って新たに推しメン、推し国を作ってみるのも楽しいと思います。





この記事の三国志ライター

関連する投稿


三国志・孫堅、孫策、孫権三代に仕えた名将・黄蓋の一流統治術

孫家三代に仕え、赤壁の戦いでは大勝利をもたらした名将・黄蓋。武勇もさることながら、領地の統治に関しても一流の手腕を発揮しています。今回は呉の黄蓋をご紹介いたします。


あの人はいま。三国志演義で活躍した人物のその後

大活躍した有名人のその後が知られていないとき、「あの人はいま」と言われることがありますね。三国志演義も史実以上に活躍した人物はいますが、その後について描かれることは滅多にありません。馬超や黄蓋ら有名武将は、どうなったのでしょう?


若者には負けん! 三国志で奮闘した“おじいさん武将”たち

以前このコーナーで「ハイパーおじいさん」たちを紹介しましたが、武将だって負けていません。老いてますます盛んな「おじいさん武将」たちを紹介しましょう。中高年どころか熟年の星となる獅子奮迅の活躍を見せてくれますよ!


ピンチはチャンス!?三国志から学ぶピンチ脱出法!

三国志は様々なエピソードがあり、教訓になるものが多々あります。なかでも、ピンチでの対応は三国志から学ぶことができるのです。そこで今回は、三国志からピンチを切り抜ける方法や考え方について紹介していきたいと思います。


今でも使う!?三国志が元となった故事成語

昔の中国でおこった出来事を元にしたことわざである「故事成語」。今でも多く使われています。これらの中には三国志中の出来事が元になったものもたくさんあります。それらを紹介していきます。


最新の投稿


春秋戦国時代 伍子胥の人生について

伍子胥(ごししょ)は、中国の春秋時代に活躍した楚の武人です。彼の本名は員(うん)で、楚の平王によって父と兄が殺されたため、復讐を誓いました。彼は呉に亡命し、楚との戦いで、ついに復讐を果たしました。しかし、後に呉王夫差が越王勾践を破った際、降伏を許そうとする夫差に反対し、意見が受け入れられず、自害させられました。


孫氏の兵法の孫武(そんぶ)とは?

『孫氏の兵法』における「孫氏」とは、古代中国の軍事思想家である孫武です。兵法書『孫子』を著し、戦争や軍事戦略に関する理論を全13篇から構成。特に「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」が有名で、戦争を避けることが最も優れた戦略であると説いています。 参考:ドラマ 孫子兵法 ‧


『キングダム』における羌瘣とは?

羌瘣は、漫画『キングダム』に登場する架空のキャラクターです。彼女は羌族出身の少女で、精鋭の暗殺者集団「蚩尤(しゆう)」に属していました。彼女は、原作、映画においても非常に魅力的なキャラクターです。その環境や周辺を史実を参考に紐解いてみます。


赤兎馬とは? 三国志初心者必見 三国志における名馬の物語

赤兎馬とは、三国志演義などの創作に登場する伝説の名馬で、実際の存在については確証がなく、アハルテケ種がモデルとされています。体が大きく、董卓、関羽、呂布など、三国時代の最強の武将を乗せて戦場を駆け抜けました。


春秋戦国時代 年表 キングダム 秦の始皇帝の時代の始まり

キングダム 大将軍の帰還 始まりますね。楽しみにしていました。 今回は、秦の始皇帝「嬴政」が、中華統一を果たす流れについて記述しようと思います。映画、キングダムのキャストの性格とは若干違うかもしれませんが、参考程度に読んでみてください。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング

最近話題のキーワード

三国志の魅力と登場人物で話題のキーワード


故事 三顧の礼 泣いて馬謖を斬る 苦肉の策(苦肉計) 破竹の勢い