曹操(孟徳)の嘘つきエピソード~3選~

曹操(孟徳)の嘘つきエピソード~3選~

曹操(孟徳)は嘘をつき、しらをきり通しまくって天下を取った男です。必要とあらば味方にも嘘をついて欺き、責任をなすりつけたり兵士の士気を鼓舞してピンチをチャンスに変えてきました。本記事では曹操(孟徳)が嘘をついてピンチをチャンスに変えた数々のエピソードを3つご紹介します。


嘘をつくことも時には肝要

曹操(孟徳)のカリスマ性の一面には嘘をついたときに相手に本当だと信じ込ませること、他の人がついた嘘を瞬時に見抜いて迅速かつ的確に判断を下すという面もありました。曹操(孟徳)は嘘をつき、しらをきり通して天下をとった男と言っても過言ではありません。
曹操(孟徳)はここぞというときに嘘をつき、言葉巧みに反論を論破してピンチをチャンスに変えてきました。嘘をついて人心を掌握する技は蜀漢の劉備(玄徳)や孫呉の孫権(仲謀)にも到底真似することができない人心掌握術です。
日本のことわざに「嘘も方便」という言葉がありますが、三国志に登場する数々のキャラクターの中で、これをうまく有効活用していたのは曹操(孟徳)ただ一人です。それでは、曹操(孟徳)が嘘をついてピンチをチャンスに変えたエピソードを3つ紹介させていただきます。

1.故事成語「梅林止渇」の由来

中国の故事成語に「梅林止渇」という言葉があります。何を隠そうこの言葉の由来となったのは曹操(孟徳)がついた嘘です。それでは本題に入りましょう。

曹操(孟徳)は張繍を征伐するための行軍をしていた際、長い道のりの最中で道に迷ってしまいました。その影響で、あらかじめ調べて確保されていた水を補給するための道路からも外れてしまい、やむなく行軍をしながら水源を探さざるを得なくなりました。
当時は真夏で炎天下を曹操(孟徳)率いる魏軍は移動していました。炎天下でさらに重い鎧や兜をかぶっていた兵士たちは当然のことながら喉が渇き、どんどん士気が低下していきました。
「なんとかしてこの問題を解決しなければならない」と感じた曹操(孟徳)は、兵士たちの前に馬を進め、剣で前方を指し示しよく通る声で大嘘をつきました。

曹操(孟徳)「お前たち、あそこに梅林があるぞ!!そこにある梅はよく熟してあってたわわに実
っているそうだ。きっとお前たちの喉を潤してくれるに違いない」

するとどうでしょう?兵士たちは完熟した梅をとっさにイメージして自然と唾が出てきました。唾によって喉の渇きが止み、士気が急激に上がりました。その梅はまだ先、まだ先と突き進んでいるうちに林の中で魏軍は水源を発見し、水を確保することができました。

2.赤壁大戦後の弾劾を跳ねのけた嘘

赤壁大戦は三国志演技では物語のピークとなっています。自称80万の軍勢を引き連れて孫呉の領土へ侵攻し、あえて孫呉の得意な水上戦に持ち込んで圧倒的兵力差で打ち負かそうとしました。しかし結果は龐統(士元)による連環の計と老臣黄蓋が自己犠牲の精神で遂行した苦肉の策による火計によって大船団は焼き払われ、自身も火傷を負いながら曹操(孟徳)率いる魏軍は命からがら敗走する破目になりました。帰還した曹操(孟徳)を待っていたのは、家臣たちによる諫言です。要するに「調子に乗って無理に戦争を起こしたので、むざむざ死傷者を出した。その責任はどうとるつもりですか?」という弾劾です。
しかし、この時に曹操(孟徳)は次のように豪語し、諫言した家臣らがグウの音を上げる余裕もないほど論破してしまいます。彼は家臣らの諫言に対してこのように答えました。

「赤壁大戦中に、魏軍内で伝染病が蔓延した。わしは生き残った兵士を救うために伝染病患者を焼く必要があった。皇帝でさえ病に勝てぬのに、一家臣のわしに勝てるはずがない。わしは劉備(玄徳)と孫権(仲謀)に負けたのではなく、病に負けたのだ。また、伝染病患者は焼いて葬らなけらばならない。あの火災は敵の作戦によって仕立てられたではなく、兵士を伝染病から守るためにわしが火をはなったのだ」。

3.許攸との会談で大見栄を張った嘘

許攸罷免される

曹操(孟徳)と袁紹(本初)に仕えた許攸は、かつて同じ師匠のもとで机を並べていた学友でした。その学友同士が敵同士となった官渡の戦いの最中の出来事です。許攸は袁紹(本初)に官渡の戦いでは「短期決戦に持ち込むべき」と進言を繰り返していました。ところが袁紹(本初)は自軍の兵力と曹操(孟徳)の兵力とは圧倒的大差があるので、戦いが長引いても曹操(孟徳)の軍が兵糧不足となって戦闘不能になるであろうとたかをくくって、なかなか重い腰をあげようとしませんでした。また、今こそ決着をつけるチャンスだというときに袁紹(本初)の末っ子が病に伏せってしまい、袁紹(本初)はそれを理由に戦争の指揮をとることをしませんでした。それだけでなく、さんざん進言してきた許攸を疎んじて、罷免してしまいました。

頼った先はかつての友

その後、許攸が足を運んだのは曹操(孟徳)の陣営でした。何事もないように振舞っていた曹操(孟徳)の軍ですが、兵糧不足という問題を抱えていました。事実、曹操(孟徳)は兵糧が少なくなるとお米を計るための升を小さくして配給し、それが兵士たちの知るところとなると兵糧係の軍人に一切の責任をなすりつけ、彼を公開処刑しました。さらに弱気になってしまった曹操(孟徳)は留守居役の荀彧(文若)に弱音を吐いて、激励されています。許攸が曹操(孟徳)の陣営に到着したころには、残りの兵糧はなんと3日分しかなかったそうです。許攸はそれを見抜いていました。

曹操(孟徳)と許攸の密会

訪問してきた許攸を快く自身の幕舎に通した曹操(孟徳)は許攸と酒を酌み交わし、昔話に華を咲かせながら許攸の様子をじっくり観察し、真の狙いを探ろうとしました。そのとき展開を切り替えたのは許攸のほうで「ところで、兵糧はあとどれくらい残っているんだい?」と軽めに聞きました。そして曹操(孟徳)はとんだハッタリを涼しい顔でかまして見せました。
「我が軍の兵糧はあと三月分あるぞ」と。

しかし、見え見えの嘘だったので、さすがに許攸は兵糧庫の大きさを理由にそれはあり得ないと反論しました。すると、曹操(孟徳)は「ハハハッ…さすがは袁軍の参謀を務めているだけのことはある。本当はひと月分だ」とさらに嘘を重ねました。すると、許攸は苦笑いを浮かべて「おいおい、それも嘘なんじゃないのか?私は学友だぞ、お前が嘘をつくときの特徴くらい知っている」とさらに深く追求しました。曹操(孟徳)は「さすがは許攸だ」と言って手のひらを返したように真剣な表情を作ると「本当は10日分だ…」と声のトーンを落としてまたまた嘘をつきました。

すると許攸も真剣なまなざしを向けて「阿滿(曹操の幼名)よ…三度目には誠のことを言うと思っていた。私は友としてお前を心配して参ったのに三度嘘をつき、私を騙そうとした。お前の抱えている問題くらいわかっておるわ。その問題を打開する策を与えるため危険を承知で参ったのにお前はそれに見合った対価を払うつもりはないらしいな。それではこれにて失敬するぞ」と腰を上げてあっさり帰ろうとしたのです。

ピンチがチャンスに変わった瞬間

曹操(孟徳)は許攸の言わんとしているところをようやく悟り「わかった…本当は3日分なのだ。頼む、どうすればよいのか教えてくれ」と頭を垂れたのでした。それから許攸は袁軍の食糧庫の在り処と袁紹(本初)の護衛のために食糧庫の警護が薄くなっていることを告げました。翌日曹操(孟徳は、全軍で袁軍の食糧庫に奇襲をしかけ、用意した荷車いっぱいに食料を略奪し、載せきれなかった分は放火してすべて焼き払いました。これが決定打となり、袁軍の勢いは音を立てて崩れ落ちていきました。

まとめ

いかがでしたか。
曹操(孟徳)の嘘つきエピソードを2つ紹介しました。曹操(孟徳)は不良少年時代から嘘をついて責任をだれかになすりつけることはお家芸だったそうで、いたずらに共謀した袁紹(本初)や夏侯惇(元譲)も何度かその被害にあったそうです。
おそらく嘘をついて人心を掌握したことも後世の人々から曹操(孟徳)が悪者扱いを受ける要因となったのかもしれません。
嘘をつくと周りからの信用を失ってしまうので、嘘はあまりつかないようにしましょう。

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