曹操(孟徳)の敗北 三国志の覇者曹操も結構負けてる

曹操(孟徳)の敗北 三国志の覇者曹操も結構負けてる

中国が魏、呉、蜀の三国に分かれた時代。統一には至らなかったものの、国土の3分の2を支配した曹操(孟徳)は実質的には三国志の覇者と言ってもいいでしょう。そんな曹操(孟徳)も連戦連勝ではなく、戦に敗れ命からがら助かる…という経験を何度もしています。


油断によって敗れる 197年宛城の戦い

董卓(仲穎)亡き後、かつて董卓(仲穎)の部下であった張繍が宛城に立てこもり、打倒曹操(孟徳)を企てていた頃、そんな動きを察知して、曹操(孟徳)は大軍を引連れて宛城に乗り込みます。機先を抑えられた形となってしまった張繍は参謀の賈詡(文和)の進言を聞き入れ、一旦降伏して「時期を待つ」作戦を取ります。曹操(孟徳)は戦わずして宛城を手に入れました。

しかし、このことが曹操(孟徳)に油断を与えます。

張繍の義理の叔母に当たる鄒氏を自分の愛人にしてしまうのです。

連日のように鄒氏に会いに行く曹操(孟徳)。その噂は当然、張繍の耳にも入ります。城は奪われ(計略と言えども)、一族の女性に手は出され…、曹操(孟徳)の奔放な振舞いに張繍の怒りは頂点に達します。

張繍は曹操(孟徳)襲撃計画を具体化させるのですが、計画を成功させるために、とある小計を実行します。

「私(張繍)が降伏したために、私を見限って叛意を示す将校が出始めた。取り締まりを強化したいので兵を動かす許可をいただきたい」と曹操(孟徳)に進言します。

なんと曹操(孟徳)は、この進言を承諾してしまいます。あっさりと…。「張繍の将校たち」よりも「鄒氏」の方が気になっていたのですね。

降伏した城主に兵権を持たせる…第2の油断です。

そして、ある夜、曹操(孟徳)は張繍の奇襲を受けます。

女色に溺れていた曹操(孟徳)。なすすべなく、戦うことも出来ず、ただ逃げるだけ…。命からがら宛城を脱出しますが、軍勢のみならず、大きな信頼を寄せていた猛将典韋をも戦死させてしまいます。

完全な作戦負け 198年南陽城の戦い

宛城の敗北の痛みが冷めやらぬまま、曹操(孟徳)は再び張繍を攻撃します。当時、張繍は南陽城に立てこもっていました。

南陽城の攻防ではひとつ大きなポイントがありました。

それは「城の東側に多くの修理中箇所があった」ことです。

要は「南陽城の東側はもろい」ということです。

曹操(孟徳)はこの点に着目して、まずは南陽城の西側を攻撃します。その攻撃は執拗かつ集中的で3日3晩続きました。必然的に城内にいる張繍軍の兵は城の西側に集まります。そして、期を見計らい、夜陰に乗じて曹操軍の半数を城の東側に移動。防御が手薄になっている(…だろうと思われる)東側の攻撃を攻撃します。

これを「偽撃転殺の計」と言います。

曹操軍は東門をあっさりと攻略。城内に侵入します。計略は大成功と思いきや、準備万端に待ち構えていた張繍軍に返り討ちにされます。

「偽撃転殺の計」は張繍の参謀、賈詡(文和)によって見抜かれていました。

賈詡(文和)は曹操の計にハマったフリをして、東門は簡単に開けてしまうよう指示します。そして城内のあちこちに伏兵を配置します。突撃の勢いに勢いに乗じて深追いして来る曹操軍。伏兵の格好の餌食です。

これを「虚誘掩殺の計」と言います。

曹操軍はまさに「袋叩き!」。敗走に追い込まれます。「曹操(孟徳)の偽撃転殺」VS「賈詡(文和)の虚誘掩殺」でしたが、完全に曹操の作戦負けとなったのです。

慢心による敗北 208年赤壁の戦い

三国志史上、最も有名な戦いです。三国志を扱う物語や映画などでも必ずと言っていいくらい出て来ますし、そもそもこの戦いで曹操(孟徳)が敗れなければ「三国志」は成立しなかったでしょう。そのくらい「三国志」の中核をなす戦いであったことは間違いありません。

この戦いは「曹操(孟徳)軍 VS 孫権(仲謀)・劉備(玄徳)連合軍」の構図で勃発しました。

白馬・官渡の戦いで袁紹(本初)および袁一門をことごとく討ち果たし、北方を完全に制覇。曹操(孟徳)は中国の3分の2を領土とすることになりました。次に狙うは南方。当時、多くの軍勢を持っていなかった劉備(玄徳)軍はあっさりと蹴散らされ、曹操(孟徳)軍の圧力は孫権(仲謀)が支配する呉国に向けられます。

しかも、もうひとつの対抗勢力だった荊州の劉表(景升)はこの時期に病死してしまいます。
しかもしかも、跡継ぎ問題でモメているうちに曹操(孟徳)に領土を乗っ取られてしまいます。

赤壁の戦いでは曹操軍約15万。それに対して孫権・劉備連合軍は3万弱。兵士の数では圧倒的に不利な連合軍でしたが、呉国の大都督周瑜(公瑾)率いる水軍に勝機を見出します。周瑜(公瑾)は劉備軍の諸葛亮(孔明)を参謀に迎え、協力して曹操軍に対峙します。

そして、当時水軍において無敵を誇っていた周瑜(公瑾)は曹操軍の水軍をも蹴散らし、赤壁の戦いにおいて連合軍に勝利をもたらします。

この時の曹操の敗因は「慢心」意外にありません。

赤壁の戦いのにおいて曹操は常に「油断は禁物」という行動をとります。降伏したばかりの荊州軍水軍の都督蔡瑁(徳珪)を曹操軍水軍都督に任命し、北方で経験の少ない曹操軍の水軍強化を図ったり、連日、連合軍と睨み合いが続く最中、濃い濃霧に覆われた夜、「今夜は敵(連合軍)襲はないだろう」と楽観的だった曹操軍の将校に「敵の何倍の兵力を持っていても油断はならん」を戒めたり…。慎重かつ謙虚な姿勢であるように見受けますが、初めて戦う南方戦の主力を北方出身の曹操軍が不得意な水軍にしたところから考えても、曹操(孟徳)は周瑜(公瑾)および水上戦をナメてかかっていた感はあります。

北方および荊州での勝利に乗じた「慢心」が赤壁の戦いにおいて曹操(孟徳)を敗北させたのでしょう。

総合力による完敗 219年漢中攻防戦

曹操軍は天蕩山、定軍山と漢中の要所を次々と劉備軍に奪取され、宿将の夏侯淵(妙才)まで討たれてしまいます。報告を聞いた曹操(孟徳)は激怒して自ら軍勢を率いて漢中に赴きます。しかし、既に要所は抑えられている状況。なおかつ遠征している曹操軍には常に兵糧問題がつきまといます。

「抑えられている要所を取り返したい曹操軍」に対して「守ればよい劉備軍」。人材的にも趙雲(子龍)、馬超(孟起)、黄忠(漢升)、張飛(翼徳)、法正(孝直)、諸葛亮(孔明)等々キラ星のごとく人材が揃っていました。しかし、この状況において無理をしない劉備(玄徳)。将校たちに持久戦を命じます。

曹操(孟徳)から常に追い回される運命にあった劉備(玄徳)でしたが、漢中攻防戦においては様々な面において曹操(孟徳)と対等かその上を行っていたと言っていいでしょう。兵糧、地の利、人材、勢い…この時の曹操(孟徳)は、まさに「総合力」において劉備(玄徳)に敗れたのです。

まとめ

このように、いくつもの敗北を経験している曹操(孟徳)ですが、「横山三国志」の中で曹操(孟徳)は「何か工夫はないか?」というセリフを何度か口にします。困難に遭遇した時、それを克服するために曹操(孟徳)が「考える」場面です。こういった「工夫・改善して次に生かす」という発想が、曹操(孟徳)を三国志の覇者に育て上げたのでしょう。

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