【三国志with日本史】その頃日本は…〇〇があった(1)

【三国志with日本史】その頃日本は…〇〇があった(1)

三国志のストーリーはお隣中国が天下大乱を迎えたところから始まり、約1世紀をかけて司馬炎が興した晋に統一され絶筆します。実は我が国でも同時期は大小の国や跡目争いが起きていた乱世で、のほほんと弥生土器を作っていた訳ではありませんでした。


漢も倭も天下大乱

三国志のストーリーは後漢王朝が外戚や宦官の汚濁政治によって秩序が乱れ、天下大乱の動乱期を迎えたところから始まり、約1世紀後に司馬炎(安世)(姓名:しばえん 字:あんせい)が興した晋に統一されて筆が置かれます。実は我が国日本、いや倭国でも大小の国々が侵攻し合い、跡目争いをしていた乱世を迎えており、のんきに弥生土器や勾玉を作っていた訳ではありませんでした。
この記事では三国志で曹操(孟徳)、劉備(玄徳)、孫権(仲謀)がしのぎを削る三国志の大まかな出来事に続き、倭国で起きた出来事を紹介します。

三国の礎を築く3名の誕生

西暦150~160年代、三国の礎を築く魏の曹操(孟徳)、蜀の劉備(玄徳)、呉の孫堅(文台)が誕生します。
当時後漢王朝は宦官が外戚を排除し、皇帝を唆して専制的な政治を行っていた時代で、曹操(孟徳)の祖父である曹騰(そうとう)は宦官のトップ官僚である十常侍で最も偉い役職に就いていました。
劉備(玄徳)の父親は地方官の職に就いており、孫堅(文台)の親に関する記述は陳寿の書いた正史三国志はおろか後漢書、その他の歴史書にもありません。袁紹(本初)、公孫瓚、呂布(奉先)など序盤で活躍する人はたいていこの頃に誕生しています。

倭国大乱が始まる

三国の礎を築く3名が誕生した頃の日本。治世は第13代天皇の成務天皇の代です。成務天皇の異母兄弟はかの有名な日本武尊(やまとたけるのみこと)で、西暦149年より倭国大乱または倭国騒乱という70~80年続く乱世が始まりました。日本武尊(やまとたけるのみこと)が何をした人物かしっくりきていない方のために簡単に説明すると大和政権を武力によって東西に広めた人物で、日本書紀でその活躍が記述されています。

伝説では火の鳥に騎乗したとも言われている皇子で、我が国の皇室では英雄と伝えられています。
当時倭国は金印を光武帝から受領した奴国をはじめ、クマソ国、ムツ国、出雲国など大小100個の国がありました。その国々が領土や自国の大王(おおきみ)の政権を拡大するべく侵攻し合ったり、王位を兄弟、親戚で争い合ったりしていました。
倭国大乱はその原因となった要素が多く、なるべくしてなった乱世と言われています。

この年代は火山の噴火、水害、旱魃、凶作などの天災が相次いで起きたり、国々が建国してから安定期に入り王が権力を行き届かせたいと思う余裕ができ始めるタイミングだったそうです。
ましてや今となっては到底信じられない話ですが、天災が起きるのは王に素質がない(天に選ばれていなかった)と本気で国民が思っていました。それらを鑑みると、内乱や侵攻するための遠征が頻繁に起こっていたことに納得がいきます。

建国の父誕生、内乱勃発

西暦170~180年代、三国志の第2世代といっても過言ではない、孫策(伯符)、孫権(仲謀)、諸葛亮(孔明)、曹丕(子桓)など実質建国する人物たちが次々と誕生します。この頃後漢では民たちの怒りが爆発し黄巾の乱という形で、朝廷を脅かす一大事となりました。劉備(玄徳)、関羽(雲長)、張飛(翼徳)らの義兄弟は黄巾の乱に参加するため義勇軍を結成し活躍、孫堅(文台)と曹操(孟徳)は一将軍として乱の平定に尽力しました。
孫堅(文台)と曹操(孟徳)は朝廷の軍隊、つまり官軍として黄巾の乱に参加したのですが、当時の官軍は実戦の経験が乏しく、金銭や世襲によってお偉いさんになった軍人が多くて乱への出兵を拒みました。そのため、可皇后の兄である可進(かしん)大将軍は戦力を補うために民間から徴兵をした訳です。

本来、謀反や内乱は皇帝が官軍に下知(命令を下すこと)して鎮圧するものですがそれもできない始末であるので、当時どれだけ皇帝よりも外戚や宦官が権利を持っていたのかがわかります。このあり様では民が怒りを爆発させて反乱軍を結成するのは当然の成り行きというものです。

邪馬台国の女王 卑弥呼誕生

意外かもしれませんが、邪馬台国の女王である卑弥呼は三国志に登場する孫策(伯符)や周瑜(公瑾)と同い年であるとされています。
三国志の第2世代と呼ばれる以上の者や諸葛亮(孔明)、司馬懿(仲達)と同世代。諸葛亮(孔明)、司馬懿(仲達)とは10歳ほど年長です。

卑弥呼が誕生したときはすでに倭国大乱の真っ只中でありますが、数年前まで卑弥呼は庶民の出身で大乱に巻き込まれて避難民生活を余儀なくされたというようなことも小学生向けの漫画教材や雑誌に書かれていましたが、最近になって古代の日本史研究が進み皇室の出身である可能性も浮上してきました。

卑弥呼と同一視されている方の名は倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと/やまとととびももそひめのみこと:どちらが正しいか不明)といい第7代大和朝廷の天皇である孝霊天皇の皇女。日本書記や古事記にまで登場する有名なお姫様です。この根拠とされているのが倭迹迹日百襲姫命が占いによって天皇の行う政治に影響を与えていたこと。甥である第10代天皇の崇神天皇が崩御されたのが、西暦258年で卑弥呼の崩御した年から10年しか差異がないこと。卑弥呼は魏の官吏が「姫命(ひめのみこと/ひめみこ)」という尊称を「ひみこ」と聞き間違って記述したのではないかという意見がでたこと。倭迹迹日百襲姫命は大物主神という蛇の姿をした日本神話に登場する神様と結婚したため、人間の男性と結婚していなかった。これらの点において卑弥呼と共通点が多かったからです。

霊帝崩御、少帝即位と廃位、献帝即位

西暦189年は後漢朝廷が最も混乱した年です。なんと一年の間に皇帝の代替わりが3度行われました。後漢第12代皇帝の霊帝は官位を売買させ私腹を肥やしまくった皇帝です。妻である可皇后の兄の可大将軍や宦官たちにほとんどの政治を任せ、自らは娯楽やお金儲けをすることに専念しました。
後漢第13代皇帝の少帝は可皇后との息子で陳留王こと第14代皇帝の献帝とは腹違いの兄。少帝は正直のところマザコンで出来が悪かったそうで、可皇后や可大将軍が外戚による実権を取り戻すためだけに皇位を継がされた可哀想な皇帝です。霊帝も病死する直前、少帝の顎をつかんで「このバカ息子に皇帝が務まるはずがない」と罵倒するほどであったそうです。

可大将軍は十常侍など高官となっている宦官を一掃するためのクーデター計画を企てるのですが、決行の直前に宦官たちに計画が露呈し「可皇后の呼び出し」というウソの連絡を真に受けた可進大将軍は、いつもどおり妹の可皇后に会うため後宮に単身で赴き宦官たちに返り討ちにあいます。
その後、当時司隷校尉(大臣を取り締まる警察署長)の袁紹(本初)が怒りにまかせて後宮に乗り込みました。そのとき部下に出した指令が「後宮にいる髭の生えていない男はすべて殺せ」というかなり適当な指令だったので、殺害された者の中には救助に向かった少年兵士や秘書官、宦官に衣服を無理やり交換させられた妃たちもいたそうです。

この事件があり、少帝と弟の献帝は一時的に朝廷を脱出します。そして避難途中で暴君董卓に保護され、少帝と可皇后は董卓によって毒殺。まだ陳留王だった献帝は董卓に第14代皇帝に擁立され、董卓に逆らうことができない傀儡の皇帝に仕立て上げられました。
事件を起こした袁紹(本初)、それを静観していた曹操(孟徳)、劉備(玄徳)、公孫瓚、袁術らは董卓に反発して各根城へ戻りました。

卑弥呼 邪馬台国の女王に即位

奇跡的に189年~192年頃、卑弥呼が邪馬台国の女王として即位しました。卑弥呼が即位するまではずっと男性が国を統治していたのですが、倭国大乱を平定させるために卑弥呼を女王に即位させました。さきほど乱を鎮めるために女王を擁立したといいましたが、なぜそうなるのか?
理由はさまざまですが、卑弥呼の政治スタイルと男性と女性の脳の作り方の違いが関係していると筆者は考えています。

まず、卑弥呼は政治に「占い」を取り入れました。要するに神様からのお告げを聞いて政治を行うわけです。古代中国でも殷王朝や周王朝は占いによって政治を行い、数百年にもおよぶ長い年月を治めました。つぎに脳科学の話をすると、男性は競争を女性は協調する傾向があるということが性別によって違いがあるということがわかっています。もちろん、すべての男女がそうであるとは言えませんが、「アハ体験」でおなじみの茂木健一郎先生がおっしゃるには、「男性は子孫を残すために自分の強さをアピールする必要がり、競争をして女性に注目されるような行動をとることを本能に植え付けられた。対して女性は家事や子育て、近所付き合いを円滑にするためコミュニティーに参加することは必須条件だったので、協調することを本能に植え付けられた」とあります。
そのため、無駄な競争のための戦争を防いだり女性特有の感性による政治が当時は必要不可欠であったのではないかと考えました。

まとめ

この記事を書こうと考えた当初は「三国志では劉備(玄徳)や曹操(孟徳)が黄巾の乱で武功を立てていた…そのころ日本は!!弥生土器を捏ねていた…」というようなギャップのある落ちを期待していたのですが、事前に調べてみると日本でもそんなに流暢でいられる場合ではなかったことがわかりました。
あなたに真実の「そのころ日本は!!」をお伝えしたいので、モヤモヤする部分もあるかと思いますが、次回へ続きますので最後までご覧ください。

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