三国志・魏・呉・蜀の三国で競い合った朝貢誘致と親魏倭王の金印を授与された卑弥呼

三国志・魏・呉・蜀の三国で競い合った朝貢誘致と親魏倭王の金印を授与された卑弥呼

自国の正統性を主張するためにも異国の朝貢を歓迎していたのが三国志の時代です。邪馬台国の女王・卑弥呼もまた朝貢しています。


唯一無二の支配者

漢王朝成立以降、中国の皇帝は唯一無二の支配者という立場にあります。ですから、匈奴や烏丸、羌などの異民族と対等な関係を結ぶことなどありえない話でした。
ベトナム北部の扶南や中央アジアの大月氏、朝鮮半島の高句麗、さらに海を渡った先の倭に対しても、中国の王朝のスタンスは同じです。

ですからその「唯一無二の支配者」である皇帝が3人も並立していた三国志の時代は特殊であり、蜀の皇帝と呉の皇帝が対等な同盟を結んだということはかなりレアなケースといえます。後漢王朝から禅譲を受けた魏は、正統性を主張していますから、もちろん蜀と呉の皇帝の存在を否定しています。

冊封朝貢関係

正統な王朝である魏にしても、周辺の異国を攻め滅ぼすほどの余裕はありません。蜀と呉が手を結んで侵攻してくるからです。ですから異国に対しては、なるべく力づくで従わせるのではなく、自然と従属してくれる形が望ましいわけです。この外交関係を「冊封朝貢関係」と呼びます。

朝貢とは、貢ぎ物を献上することです。服従した証になります。それに対し皇帝はその地域の支配権を認めるのです。こうして認められた王を冊封王とも呼びます。
この関係は互いに大きなメリットがありました。皇帝側にしてみると、異国から自分が中国皇帝だという正統性を認めてもらったことになります。朝貢する側からすると、大国に属することで周辺の敵対勢力に圧力をかけることができるようになります。バックに魏王朝が控えているとなると、そう簡単に手を出せなくなるわけです。

公孫氏の朝貢

朝貢国が増えるということは、その国の皇帝が正統であることを強くアピールすることができました。魏だけではなく、蜀や呉も盛んに朝貢国を増やそうと画策します。蜀の南蛮制圧はそのひとつとも考えられます。

そんな中、呉の皇帝である孫権を喜ばせたのが、遼東の支配者・公孫淵の朝貢でした。
遼東を治めていた公孫氏は魏に従属しており、当主である公孫淵は揚烈将軍の官位にありましたが、独立の野心を抱いていました。そして密かに呉と通じるのです。孫権は喜んで公孫淵を燕王に封じます。

公孫淵はその後、孫権を裏切りその使者を斬って首を魏に送り、楽浪公となりますが、最終的には独立し燕王を自称して魏の司馬懿に攻め滅ぼされています。
これにより楽浪郡や帯方郡の支配が公孫氏から魏に移ったことで、倭への外交ルートが開くことになります。

倭の朝貢

倭が朝貢に訪れたという最古の記録が、「後漢書」にあります。57年のことです。この時の後漢王朝の皇帝は光武帝でした。
倭の「奴国」からの使者に対し、光武帝は「漢委奴国王」の金印を授与しています。奴国の国王は後漢王朝の冊封システムに組み込まれたわけです。
ちなみにこの金印は江戸時代に福岡県の志賀島から発見されており、奴国は九州北部に存在したと考えらえています。

107年にも倭から朝貢の使者が訪れました。ここで倭国王の帥升が生口(奴隷)160人を献上しました。
しかし、その後はしばらく朝貢の使者が倭から訪れたという記録がありません。おそらく倭では国同士の戦争が激しく続いていたからだと考えられます。この時期を日本では「倭国大乱」とも呼びます。

邪馬台国の女王・卑弥呼

司馬懿が公孫淵を討った年(238年)に、倭から朝貢の使者が帯方郡に訪れました。使者は難升米という名で、倭の大乱を鎮めた「邪馬台国の女王・卑弥呼」から送られた者です。
この記録が「三国志・魏志倭人伝」に記載されています。タイミング的には非情に微妙なところで、魏の明帝(曹叡)が重病の状態です。そのまま239年になると明帝は亡くなってしまいます。朝貢の使者が洛陽の都に達したのはこの時期だと考えられ、そうなると朝貢した相手は8歳で皇帝に即位した曹芳ということになります。(明帝が生きている間に外交の使者が訪れたという説もあります)

どちらにせよこの朝貢は魏に歓迎されました。海を渡る必要があるものの、これで魏と倭によって呉を挟撃することができるからです。倭は呉とも貿易していた形跡がありましたが、表向きは完全に魏に従属した形になります。
朝貢に際し、卑弥呼は生口10人と布を献上しましたが、返礼として金八両、刀二口に銅鏡100枚、真珠などという莫大な回賜品を授与されています。魏がどれだけ喜んだのかがこれだけでもわかりますね。

さらに魏は卑弥呼に対し、「親魏倭王の金印」を授けています。卑弥呼は正式に魏をバックにつけ、倭を支配することを認められたわけです。
ちなみに「親魏王」の称号は異国の王に対する最高位のものとされています。同時期に親魏王の印綬を受けたのは大月氏だけだと考えられており、こちらは大月氏国王という称号になります。仏教を中国に伝えた一大文明大国です。そこと同格というのはずいぶん高評価だったことになります。

漢委奴国王の金印は出土していますが、親魏倭王の金印は発見されていません。このことで邪馬台国が九州にあったのか、畿内だったのかという論争を呼んでいます。奈良県の箸墓古墳が卑弥呼の墓であり、そこに親魏倭王の金印も眠っているという説もあります。

まとめ・卑弥呼の活躍が見たかった

三国志の明帝(曹叡)や司馬懿などと同時期に生きていた女王・卑弥呼。鬼道を用いる「シャーマン」だったと考えられています。
卑弥呼には親魏倭王の称号を掲げて、ぜひ大陸本土でも活躍してほしかったですね。司馬懿の軍勢とともに呉を攻めるシーンなどがあったら、三国志ファンの日本人は感動すること間違いなしです。

ただし、曹芳の時代に実権を握っていたのは曹爽であり、司馬懿は病に伏せた芝居をしてチャンスをうかがっていた状態です。
司馬懿がクーデターを起こして曹爽を排除するのは249年のことになります。司馬懿が実権を握ることになりますが、この年までに卑弥呼は亡くなっていたようです。後継者となった女王・壱与の朝貢の使者が249年に魏を訪問しているのです。壱与もまた新しい倭王の称号を授与したことでしょう。

特に活躍があったわけではありませんが、三国志に日本の祖先が登場してくることは感慨深いものがありますね。



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