【三国志with日本史】その頃日本は…〇〇があった(3)

【三国志with日本史】その頃日本は…〇〇があった(3)

本記事は三国志と日本古代史でおきた主なできごとを同時進行でご紹介しています。「三国志で○○の戦いがあったとき、日本では○○があった」の形式でお送りするので、ぜひご一緒に両国の歴史をおさらいしましょう。


三国志で勢力が淘汰され始めたころ

三国志で勢力が淘汰され始めたころ

三国志で勢力が淘汰され始めたころ

三国志において勢力が魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備(玄徳)に淘汰され始めた西暦200年代の初め頃、我が国ではいまだ大和王権の支配が全国に行き届かずにいました。天皇は本格的に日本全土に支配地を拡大するべく遠征を重ねます。また、支配しようとする地は日本列島だけにはとどまらず海外にも向けられました。おそらく本記事で紹介する海外遠征が日本史上で初めて官軍が海外へ出兵した戦いではないかと思います。それでは本編へお進みください。

徐州大虐殺 劉備が荊州牧に就任

徐州大虐殺 劉備が荊州牧に就任

徐州大虐殺 劉備が荊州牧に就任

西暦193年~198年の間、呂布が至る所で転戦を重ね、良くも悪くも社会をかき乱していました。彼は二人目の養父である董卓を殺害してしまったことにより、居場所を失ってしまったからです。戦力は少なくとも呂布が率いる軍は屈強な兵士が多く攻城戦も得意でした。そのうえ、呂布一人だけで一国一城を陥落させる力を持っていたといわれているほどですから攻められた側にとってはひとたまりもありません。

曹操(孟徳)も各地で転戦し反乱軍の征伐や他勢力への侵攻をして駆けずりまわっているころ、任務で徐州に出張に行っていた父の曹嵩(そうすう)が帰省する道中に徐州牧陶謙の配下であった武将に殺害されてしまいました。
そして曹操(孟徳)は父親の仇討ちをするべく徐州へ侵攻しました。この侵攻で曹操は兵士も女子供も見境なく虐殺し続けました。その惨さは大河が死体の山でせき止められ、水が赤く染まったと伝えられています。

その後徐州牧の陶謙が病死し、劉備(玄徳)が就任。そこへ曹操に敗北した呂布が身を寄せてきました。劉備(玄徳)はこれを承諾したのにも関わらず、呂布は蜀軍が遠征で不在中に荊州を簒奪しました。呂布は劉備(玄徳)と曹操に対抗して戦い続けますが、西暦198年に起きた下邳の戦いで水攻めにあい、大敗を喫します。そして軍師陳宮ととも斬首されてこの世をさりました。

倭国大飢饉に見舞われる

倭国大飢饉に見舞われる

倭国大飢饉に見舞われる

お隣中国で曹操、劉備(玄徳)、孫策が実力をつけてきたこの頃我が国の倭国では大飢饉に見舞われました。
不作や旱魃、洪水などの災難が続き国内に食料がない状況へと発展していきました。そして倭人つまり弥生人が食料を求め、目を向けたのが新羅(しるら)でした。新羅はかつて貂蝉に興った国のひとつで、高句麗(こぐりょ)、百済(くだら)と並んだことでこの時代を三韓時代と言います。
倭人がこの三つの国のうち新羅を目指して渡航した理由は単純明快、なぜなら新羅が当時朝鮮半島の下半分くらいを支配していたからです。当時危険が伴う航海をする上で安全を確保するためには最寄りの島を目指したのは仕方のないこと。この難民たちを新羅が受け入れたのかどうかは不明ですが、渡った人たちの大半は海の底に消えてしまったことでしょう。

関羽(雲長)顔良を討ち、魏から離れる

関羽(雲長)顔良を討ち、魏から離れる

関羽(雲長)顔良を討ち、魏から離れる

魏軍の襲撃を受けた蜀軍は大敗を喫し、義兄弟たちは散り散りとなり互いの無事を把握できない状況に発展しました。劉備(玄徳)はたった数百人の配下と折れた剣を持ってなんとか逃げ延び、野原で茫然と立ち尽くしているところを袁紹(本初)が発見し、食客として迎え入れました。

関羽(雲長)は曹操(孟徳)から直々に攻め立てられて敗北、降伏して曹操(孟徳)の配下となりました。そのころ張飛(翼徳)は役所で非公式の県令となって部下に劉備(玄徳)と関羽(雲長)の捜索をさせていました。同年曹操(孟徳)と袁紹(本初)による因縁の対決官渡の戦いが繰り広げられ、劉備(玄徳)と関羽(雲長)は知らず知らずのうちに敵同士となってしまいました。

関羽(雲長)は日頃曹操(孟徳)から手厚いもてなしや待遇を受けて活躍する機会を今か今かと伺っていました。そのときに官渡の戦いという絶好の機会を得た関羽(雲長)は、魏軍が手を焼いていた白馬を守る顔良との対決に名乗りを上げ、見事一太刀で顔良の首級を上げました。
この報告を袁紹(本初)の陣営で聞いた劉備(玄徳)は大変気まずい空気に包まれました。袁紹(本初)は激昂し劉備(玄徳)が曹操(孟徳)の差し金ではないかと疑いましたが、劉備(玄徳)は関羽(雲長)に手紙を書き袁軍へ引き入れることを約束してその場をなんとかしのぎます。
手紙を受け取った関羽(雲長)は置手紙と今までにもらった贈り物をすべて残して魏軍を離れました。そのあと、関羽(雲長)の行く手を阻む5つの関所を突破して千里の道を進みます。これが有名な「関羽の千里行」です。

熊襲征伐と三韓征伐

熊襲征伐と三韓征伐

熊襲征伐と三韓征伐

第14第天皇の仲哀天皇は妻の神功皇后を連れて熊襲国を大和王権の支配下に置くべく遠征をしました。熊襲へ行く途中にある奴国に香椎宮という宮殿を建て、ここを遠征時の本拠地とし滞在しました。その際、神宮皇后に神が憑りつき、ご宣託を受けました。
ご宣託は神功皇后の口を借りて発せられ「熊襲よりも宝のある新羅を攻めよ」と告げられました。
仲哀天皇はご宣託を信用するどころか高台に上り「海を見渡してもそんな陸地は見えない。在人神(あらびとがみ)をなぜ欺くのか」と反論し、言うことを聞かずに熊襲征伐に赴きました。結果として官軍(大和朝廷の軍隊)は熊襲軍に大敗し、香椎宮まで撤退しました。翌年、仲哀天皇は熊襲軍から受けた矢傷がもとで崩御しました。

同年神功皇后は夫の仇を討つべく、甲冑を身にまとい手に弓を腰に太刀と箙(えびら:矢を入れておくための道具)を帯びて熊襲国を攻め、見事討伐しました。このときすでに第15第天皇となる応神天皇を妊娠していました。その後再び新羅征伐のご神託を受け、身重の体にムチ打ち自ら陣頭にたって朝鮮へ出兵し、新羅を攻め立てました。航海中陣痛などに悩まされていましたが、そのたびに月延石または鎮懐石と呼ばれる冷たい石をさらしでお腹に巻き付け、出産の時期を遅らせました。
新羅は戦わずして神功皇后に降伏し、朝貢(貢物を納めること)を誓約。さらに高句麗や百済も続いて朝貢を約束したと伝えられています。

まとめ

まとめ

まとめ

本記事でお伝えしたものは西暦190年代後半~203年までに両国で起きた主な出来事です。意外かもしれませんが、西暦200年にはすでに日本から食料を求めて避難民が渡海したり、侵略するために海外遠征が行われていました。
弥生時代の渡来人が一方的に日本に渡ってきたイメージがありましたが、日本からも渡海した人々がいたみたいです。
きっと大陸にわたった古代の日本人も渡来人と同じように異なる文化を伝えて中国や朝鮮の文化に影響を与えていたことでしょう。





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