字(あざな)は名前ではない
■ 字(あざな)は名前ではない
字(あざな)は名前ではない
三国志に出てくる登場人物の多くに字(あざな)というものがあります。当時の中国では「名前を口に出すのはよくないこと」とされていました。しかし劉備(玄徳)の場合、劉が苗字、備が名前、玄徳が字のわけですが、劉さんと言っても劉さんがうじゃうじゃいて不便だったため、字(あざな)を作りそれを呼ぶようになりました。
しかしながらさらに複雑な話があり、「では字で呼んでいたか?」と言ったらそういう訳でもありませんでした。字で呼ぶのは親族や親しい間柄の者たちであって、位の高い者たちは大抵役職で呼ばれていました。
戦闘力が関羽(雲長)や張飛(翼徳)並みに高かったとされている馬超(猛起)が劉備(玄徳)のことを「玄徳」と呼んだ際、関羽(雲長)や張飛(翼徳)は「失礼だ!」と言ってブチ切れたというエピソードがあるくらい、字で呼ぶのは失礼とされていました。
「じゃあ字って何のためにあるの?」という疑問に達してしまうかもしれませんが、親しい仲の人が言うあだ名と考えてもらえればと思います。
正史=正しい史実という意味ではない
■ 正史=正しい史実という意味ではない
正史=正しい史実という意味ではない
日本で三国志と言ったら正史である『三国志』と小説である『三国志演義』がもとになっています。三国志演義は小説なので誇張されて書かれている面が多々あるのでより史実に基づいていると言ったら三国志の方と言えるでしょう。
しかしここで間違えがちなのが正史だから「正しい史実」だと認識してしまうことです。もちろん正しい面は多いのですが、正史というのは「国家が公認した歴史書」という意味です。
中国にはこの正史と呼ばれる歴史書が二十四あります。この正史は歴史家の陳寿が書き、さらに補足部分を150年ほど後に同じく歴史家の裴松之が注を加えました。
一方三国志演義は14世紀中ごろに羅漢中が書きました。吉川英治の小説、横山光輝の漫画はこの『三国志演義』を基に書かれているため、日本人にとってはこちらの方が馴染んでいると言えるでしょう。
赤壁の戦いでの兵士の数は大きな誤り?
■ 赤壁の戦いでの兵士の数は大きな誤り?
赤壁の戦いでの兵士の数は大きな誤り?
赤壁の戦いと言えば三国志の中でも1,2を争うほど大戦でした。孫権軍と劉備軍が手を取り合って曹操軍を撃破するというこの戦いは三国志ファンがうなるほどの名だたる武将が投入されました。三国志を語る上で知らなければいけない戦いというのは間違いありません。
ところで数年前にブレイクしたレッドクリフはご覧になられたでしょうか。日本の映画ではあまりお目にかかれないほどの壮大なスケールで描かれた作品で「三国志を学ぼう」という人にとてもお勧めの作品です。
さて、話をレッドクリフから赤壁の戦いに戻します。この赤壁の戦いについては多くの意見、推論がなされていますが、この戦いがここまで注目を浴びている理由として「誇張」という物がカギを握っているように思えます。
一番のポイントは人数の誇張です。孫権軍と劉備軍が7万程度の軍だったと言われているのに対し、曹操は自軍を80万の大軍と言っています。しかし実際曹操軍は20万人程度だったのではないかという案が有力視されています。もちろん7万の軍勢で20万の軍勢を破ったら大金星と言えるでしょう。ですが、80万の軍を破ったという方がより伝説的になります。なので、この「80万」という数字が先走ってしまったのではないでしょうか。
もう一つのポイントは疫病です。赤壁の戦いでは周瑜(公瑾)や諸葛(孔明)の戦略が凄すぎたように書かれていますが、曹操(猛徳)にとって一番の難敵は兵士の命をことごとく奪った疫病だと言われています。
とは言え上記で挙げたようにこの孫権軍、劉備軍の連合軍が勝ったのは歴史的快挙と言っても過言ではありません。
三国で最初に滅んだ国は最強国の「魏」だった
■ 三国で最初に滅んだ国は最強国の「魏」だった
三国で最初に滅んだ国は最強国の「魏」だった
日本では三国志と言えば三国志演義の影響を受けていることが多い為、劉備(玄徳)が治めていた蜀が「正義」、曹操(猛徳)が治めていた魏が「悪」という見方が強いです。そのため劉備(玄徳)亡き後実質的に蜀を束ねていた諸葛(孔明)が亡くなった後の記述については多くありません。
(私も幼いころ諸葛(孔明)が亡くなった後、魏が三国を統一して終わったものだと思っていました)
しかし諸葛(孔明)亡き後の三国志も相当面白いです。まずは絶対安泰だと思っていた最強国「魏」が消滅したのです。消滅と言っても呉や蜀にやられて滅びたという訳ではなく、曹一族が司馬一族に追いやられ、そのまま司馬炎(安世)が国名を魏から晋にし、初代皇帝の座についています。
最終的にこの晋が蜀や呉を倒し天下を統一することになります。
曹操(猛徳)はコンプレックスの塊だった
■ 曹操(猛徳)はコンプレックスの塊だった
曹操(猛徳)はコンプレックスの塊だった
中国では三国志で最も優れていたとされている人物に諸葛(孔明)、関羽(雲長)、曹操(猛徳)を挙げることが多いです。日本では完璧悪役の曹操(猛徳)はさぞ死角がないと思われがちですが、実はそうではありませんでした。
家柄もよく才能豊かな曹操(猛徳)ですが、彼には大きなコンプレックスがありました。それは宦官(去勢された男性で宮廷の切り盛りをする役割を与えられている)の家の出身だということです。
宦官は王に近い位置にいるため地位が高く権力がある者が多かったのですが、その一方他の官僚や武将からは蔑視されていました。
宦官だった曹騰が曹操(猛徳)の父である曹嵩を養子にもらったので、曹操(猛徳)からしてみたら祖父が宦官ということになります。こういった彼の苦悩を考えると少しは悪役から解放されるのではないでしょうか?
まとめ
■ まとめ
まとめ
三国志にまつわる思い違いなどは多いと思います。便利だと思うような字(あざな)も「よくよく考えると余計ややこしくしている」ということや「三国志は魏が統一したわけではない」ということが分かっているだけで「お、君三国志通だね!」と思われる可能性は大です。
また赤壁の戦いであったり、曹操(猛徳)の出世についての正しい知識があったりすればさらに三国志の見方も深まることでしょう。
歴史なので伝達時期やその方法によって必ずゆがみという物は生じてきますが、「実際どうだったのだろう」、「これは事実なのか?」という視点で紐解くと面白い一面が見えて来てより謎を紐解くことが出来ると思います。三国志を学んでいくうえでいろいろな書物やネットから情報を入手していく上で異なった記載が出てきますが、「こちらの意見を尊重しよう」と自分なりに咀嚼し三国志を楽しんでみてはいかがでしょうか。