曹操(孟徳) 天の時を得て天下の3分の2を制する
■ 曹操(孟徳) 天の時を得て天下の3分の2を制する
曹操(孟徳) 天の時を得て天下の3分の2を制する
黄巾の乱、十常侍による宮中の混乱、そして董卓(仲穎)の大乱を経た後、献帝は曹操(孟徳)に使者を送ります。そして、曹操(孟徳)は招へいに応じます。献帝は強い武力を手にすることになり、朝廷は安泰‥と思いきや、曹操(孟徳)は当時の権力のない帝に心服するような人物ではありませんでした。曹操(孟徳)は献帝とその一族の安全を保障する代わりに、献帝に圧力をかけて勅命を発させる‥そんなことができる立場となりました。献帝を操り自身の意思による勅命を下せるようになったのです。
孫権(仲謀) 長江の大河により地の利を得て一大強国を築く
■ 孫権(仲謀) 長江の大河により地の利を得て一大強国を築く
孫権(仲謀) 長江の大河により地の利を得て一大強国を築く
父親の孫堅(文台)、兄の孫策(伯符)から引き継ぐ形ではありましたが、江南にあった呉の大黒柱的存在でした。後年は諸葛亮(孔明)が治めていた蜀の政治的人材不足を見抜き、孔明に「恐ろしいほどの人物に成長している」と言わしめた人物です。江南は攻め入るために長江を渡る必要があり、北側からの攻撃が非常に困難な場所でした。最終的には三国志の覇者となった「晋」が衰退し「東晋」が建国されたのも江南でした。
孫権(仲謀)および孫一族は、こうした「地の利」を得ていました。
劉備(玄徳) 人の和をもって強者、識者が集結
■ 劉備(玄徳) 人の和をもって強者、識者が集結
劉備(玄徳) 人の和をもって強者、識者が集結
三国志演義では、劉備(玄徳)の「人の和」が物語の中心的な存在として扱われています。心の繋がりを第一とし、「心の繋がり」⇒「人同士の繋がり」⇒「強い組織の構築」⇒「強い国家の構築」という「国の元は人にある」といった教訓が劉備(玄徳)の行動のあちこちから伺い知ることができます。結果的に、関羽(雲長)、張飛(翼徳)、趙雲(子龍)、諸葛亮(孔明)、龐統(士元)、徐庶(元直)、馬超(孟起)、黄忠(漢升)等々、キラ星のごとく強者、識者が劉備(玄徳)の元に集まりました。そのため、曹操(孟徳)は、劉備(玄徳)が流浪している頃から彼をライバルとして警戒していました。
劉備(玄徳)人の和を形成した数々のエピソード
■ 劉備(玄徳)人の和を形成した数々のエピソード
劉備(玄徳)人の和を形成した数々のエピソード
■三顧の礼
劉備(玄徳)が荊州にて劉表(景升)の客将として招かれていた頃、劉備(玄徳)は当時全く無名の一書生であった諸葛亮(孔明)を自軍に迎え入れようとします。その際、使者を送る訳でもなく、自ら孔明の庵を訪れます。しかし、1、2回目は留守。3回目は・・・なんと孔明が昼寝中。しかも、劉備(玄徳)は昼寝中の孔明を起こさずに「起きるまで待つ」という行動を取ります。この熱意に絆された孔明は劉備(玄徳)の軍師として行動を共にすることとなります。
■子供はまた産めば得られるが、良き将はまたと得られぬ
南郡当陽県の長坂の戦いにて劉備軍は曹操軍に追い込まれてしまいます。その際、趙雲(子龍)は劉備(玄徳)の子供「阿斗(後の劉禅)」を抱いて単騎で曹操軍の中を駆け抜けます。阿斗を危機から救い出し、劉備(玄徳)の元に連れて行った時に、劉備(玄徳)が趙雲(子龍)にかける言葉がこれです。簡単に行ってしまえば「子供よりお前(趙雲)の方が大切だ。危険な目に遭わせてしまってすまなかった。」ということです。これは三国志有数の名言として語り継がれています。
■荊州の継承を拒み続けた劉備(玄徳)
劉備(玄徳)は曹操(孟徳)に追われ、荊州の牧(長官)だった劉表(景升)を頼り、客将として荊州に身を寄せます。そこで劉表(景升)の絶大な信頼を受け、病気がちだった彼の後を受けて荊州牧をなることを懇願されます。劉表(景升)には劉琦と劉琮という子供がいましたが、劉琦は病弱、劉琮は幼少ということも大きな要因でした。しかし劉備(玄徳)は同族とはいえ、実子たる劉琦、劉琮を差し置いて荊州牧になることはできない・・・と義を貫き通します。
結局、荊州は曹操軍の侵攻を許してしまい、劉備軍は夏口に退きます。ここから諸葛亮(孔明)を交え、紆余曲折を経て、有名な「赤壁の戦い」も絡んで、ようやく劉備(玄徳)が荊州を領有することになります。義を重んじ、遠回りし続け、長い年月をかけてようやく劉備(玄徳)は「領地」を獲得します。
まぁ「そういう人」だから劉備(玄徳)にはたくさんの人が付いて来た・・・とも言えます。
知力や武力の土台があってこそ
■ 知力や武力の土台があってこそ
知力や武力の土台があってこそ
曹操(孟徳)は「天の時」、孫権(仲謀)は「地の利」、そして、劉備(玄徳)は「人の和」に長けていました。でも「それだけ」ではありません。三国志のゲームなどでよく扱われる「武将たちの能力」に「知力」「武力」「カリスマ性」なんてのがありますが、この3人はいずれも、この「能力」の部分においては随一。その上で「天の時」「地の利」「人の和」が備わったからこそ大きな領土を領有、支配することが出来たのでしょう。
もしかして「それだけ」だったかも知れない三国志の武将
■ もしかして「それだけ」だったかも知れない三国志の武将
もしかして「それだけ」だったかも知れない三国志の武将
物語の中でも時々そのような表現が出て来ることがありますが、三国志のような「乱世」では、ちょっとした戦の勝利で大きな領土や財産を得たりすることが出来てしまうケースがあります。ちょっと「武力」のある人物が「1回勝った」だけで「大将軍」になってしまうこともあります。しかし「なる」ことと「継続する」ことは大違いで、「継続できずに滅びて行った武将」が物語では数多く出て来ます。そんな「それだけ」だった人を何人か見て行きたいと思います。
董卓(仲穎)
三国志のような時代ですので、まず、武力はあったようです。それに加えて、「買収力」がこの男を支えました。自身の軍勢を拡張させるのに役人を買収。呂布(奉先)には養父の丁原(建陽)を殺害させて買収。あとは、力任せに恐怖政治。せっかく持っていた真っ当な「武力」も特に正当な使い方もせず、「金」の力で勢力を拡大‥そんなことでは当然「人の心」は集まりません。当然「惨憺たる最期」を迎えます。
袁術(公路)
董卓(仲穎)にたような面があります。彼も他に比べて長けていたのは「買収力」「交渉力」です。名門袁一族の「名」があったことも一因です。一時期は袁紹(本初)をも凌ぐ勢力を持ち、「天下に一番近い人物」とも称されていましたが、袁術(公路)もやはり「統治する」ことができない人物で、重税、悪政の限りを尽くしました。そして三国志では有名な皇帝即位(仲王朝)を強行。これにより、曹操(孟徳)、呂布(奉先)、劉備(玄徳)などから総攻撃を受け、親しくしていた孫一族からはシカトされ、散々な目に遭います。最終的には飢餓状態に陥って病死・・・これも「自業自得」と言わざるを得ない最期です。
呂布(奉先)
誰もが認める「武力」の第一人者でしょう。三国志では関羽(雲長)、張飛(翼徳)、趙雲(子龍)と対等かそれ以上、という扱いです。それ故に物語の中では「その強さに魅かれて進んで配下となる」武将も見受けます。武勇においてはこの上ない実績の持ち主ですが、呂布(奉先)はまさしく「それ(武力)だけ」だった人物‥その他の才能が開花する前に滅びてしまった(優しすぎかな・・・)ように思います。そのため、董卓(仲穎)や、考えの浅い部下の進言にそそのかされ、裏切りの連続を繰返し、全面的に汚名を着て滅びるハメになりました。
まとめ
■ まとめ
まとめ
これは現代にも通ずることですが、「能力」は誰もが高い訳ではありません。また、能力が高いことに越したことはありませんが、それをしっかり「活用する」のは「人の資質」かと思います。レベルの差こそあれ、三国志のような乱世の時代を生き抜いた人々は、しっかりと自分の能力を認識し、その能力をしっかり活用できた人なのだと思います。