昔は優しく気のいい大将だった!董卓が暴君へと変貌するまで

昔は優しく気のいい大将だった!董卓が暴君へと変貌するまで

洛陽に入るや皇帝を傀儡として実権を握り、暴虐の限りを尽くした董卓仲頴(とうたくちゅうえい)。その残虐非道ぶりは、正史三国志の著者である陳寿に「歴史上の人物でこれほどの悪人はいない」と評されたほどです。そのような人物がなぜ君主になれたの?という疑問の元、今回は若き日の董卓について調べてみました。


陳寿も批判した最低最悪の暴君。しかしかつては……

三国志の序盤に登場する暴君・董卓。勝手に皇帝を廃し、その弟を新たな皇帝に即位させるも実権は自らの手から離さず、民衆を虐げ、独裁政治を敷いたことで知られています。また、欲望のままに暴飲暴食、肥満体であったとされ、良いイメージが全くと言っていいほど出てこない人物です。『正史三国志』の著者・陳寿も、「董卓は心が歪んでおり残忍、暴虐非道。記録に残されている限り、恐らくここまでひどい人間はいないであろう」と酷評しています。
そんな董卓ですが、洛陽に招かれる以前やその直後について調べてみると、意外な人物像が浮かび上がってくるのでした。

董卓~三国志随一の暴君~

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黄巾の乱後の政治的不安定な時期を狙い、小帝と何皇太后を殺害し、献帝を擁護し権力を掌握していく朝廷を支配していた絶対的存在。政権を握った彼のあまりにもの暴虐非道さには人々は恐れ誰も逆らえなかった。しかし、最後は信頼していた養子である呂布に裏切られるという壮絶な最後を遂げる。

男気に溢れ、異民族にも部下にも優しかった若き日

董卓の出生地である中国西北部の涼州は、現在のウルグイ自治区の近くです。そのため彼には異民族の血が混じっていたという説もあります。生まれつき腕力が強くて武芸に秀でており、馬に跨った状態で、馬上から左右両方の手を使って弓矢を射ることができたのだそうです。素人が考えても、このような芸当は並大抵の身体能力でこなせるはずがないことがわかりますね。
また、「董卓の遺体のへそに芯を立て、ロウソクのように火を灯したところ、三日三晩燃え続けた」「暑い日だったので、遺体から脂が溶け出していた」などと言い伝えられていることから、肥満体のイメージが強く残っているかと思います。しかし、若いころは前述のように軽々と馬を乗りこなせるほど細身の体であったようです。

また、このころ董卓は、遊牧民族・羌族が暮らす西涼を放浪し、各地の頭領たちとの親交を深めました。当時の漢民族は羌族を野蛮人扱いしており、まともに付き合うことがなかったと言われています。その時代に羌族と交流していた董卓は、差別意識や偏見とは無縁の感覚を持ち合わせていたのでしょうね。
後に郷里に帰って農耕に励みながら暮らしていたある日、羌族の頭領たちが董卓の家を訪れます。しかし当時董卓の家は大変貧しく、彼らをもてなすほどの食べ物がありません。悩んだ董卓は農耕用の牛を殺し、その肉で宴会を開きました。差別しないだけでなく、自分が出来る限りのもてなしをした董卓に、頭領たちは大いに感激。領地に帰ったあと、董卓に1000頭もの耕牛を送ったのです。

その後郡の役人となった董卓は、盗賊の取締を行います。胡(北部・西部の異民族)が侵入して略奪をし、住民たちを拉致したことがありました。その際董卓は騎兵を率いて胡の討伐に出向いて大勝、4桁にも上る胡を斬る、もしくは捕虜にしたと言われています。
武勇に優れた董卓は順調に出世。大規模な反乱を起こした羌族を鎮めるために漢陽郡へと出陣し、今度は1万人余りを斬る、もしくは捕虜にするという圧勝にて平定しています。

反乱鎮圧の功績を認められた董卓は、絹織物9千匹を朝廷から贈られます。しかし董卓は「名声は軍を指揮した自分ということになっているが、それができたのは実際に戦った兵士たちのおかげ。だから褒美は戦ったみんなで分け合うべきだ」と言って、全て部下たちに分け与えてしまったのです。
貧しい暮らしも経験し、一兵卒の辛さも味わっている董卓だからこそ、部下に対しても優しさを示すことができたのでしょう。部下たちは大いに感激し、中には涙を流す者さえいたそうです。

このように、若いころの董卓は残虐非道という言葉とは無縁、気前の良さや侠気あふれる心遣いによって、大いに人望を得ていた人物でした。

いわれなき差別。そして恐怖政治へのシフト

そんな董卓がなぜ暴君へと変貌を遂げてしまったのでしょうか?

洛陽に入った当初、董卓は世の人士たちを招聘し、善政をしこうと努力をしています。人事権を漢王室の臣に委任するなど、漢王室を尊重し、独裁する意思などないことが見て取れますし、影響力が弱まってしまった漢王朝を立て直そうと尽力もしています。
少帝を廃位し、弟の陳留王(献帝)を新たな皇帝として即位させたことに反発した袁紹を、当初は殺害しようとしました。しかし、名門である袁家の影響を恐れ、役職を与えるという懐柔策を取ります。

董卓は周囲にへりくだった対応をし続けましたが、周囲は董卓に対して反発を強めるばかりでした。それは董卓の出自が名門とは言い難い、当時の感覚で言えば卑しい身分であったことが挙げられるでしょう。董卓に引き立てられた文官たちの多くも、董卓に対して反抗的でした。
異民族とも分け隔てなく付き合っていた董卓からしたら、出自の違いにより虐げられるなど、理解の範囲を超えたものだったことでしょう。気のいい大将であった董卓が独裁的な恐怖政治にシフトしていったのは、こうした身分差別に対する憤りが背景にあったのかもしれません。

以後、自分の身内に高い爵位を与えて重要したり、外出の際は皇帝専用の馬車を乗り回したり、歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れるなどの暴政を行うようになりました。また、富豪を襲って金品を奪ったり、祭りに参加していた村人を皆殺しにしたりなど、民衆をも虐げるようになります。
これに反発した各地の豪族や有志たちが董卓討伐の兵を起こし、これを迎え撃つも形勢不利となって長安に撤退。洛陽を焼き払ってしまいます。
その後、暴虐はエスカレートする一方で、董卓に逆らった捕虜は宴席に連れて来られ、舌を抜かれ、目玉をえぐられ、熱湯の煮えたぎる大鍋で煮られ、苦しみながら殺されました。あまりにも凄惨な光景に、宴席についた人々は手から食器を落とすなどして動揺する中、董卓だけは笑い、平然と酒を飲んでいたそうです。
しかしそのような絶頂は長くは続かず、192年4月未央宮前にて、詔を忍ばせた腹心の呂布奉先に暗殺され、わずか3年の春の終わりを迎えるのでした。

何が彼を変えたのか。変貌ぶりに溜め息を禁じ得ず……

洛陽に入ったときを境に董卓の生涯を前半、後半に分けて比べるとまるで別人のようで、「どうしてこうも変わってしまったのか」と落胆を禁じえないほどです。先に挙げた身分による差別だけではなく、良心をかなぐり捨てざるを得ない何かが、董卓の身に降りかかったのかもしれません。
悪政を敷き、暴虐非道の限りを尽くしたことは紛れもない事実で、評価するなどできないのはもちろん、かばうことさえ不可能です。しかし、善政をと心を砕いても評価されないどころか、いわれなき差別に人知れず傷ついていたかもしれない董卓の姿を想像するに、小さくなった親の背を見るに似た思いに駆られるのは筆者だけでしょうか。
三国志随一の暴君の人の子らしい側面を感じ取り、「心底嫌いにはなれないな」と溜め息をつく―これもまた歴史の楽しみのひとつなのかもしれません。

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