三国志・孫権の晩年、呉では内紛の嵐だった

三国志・孫権の晩年、呉では内紛の嵐だった

名君として名高い呉の「孫権」ですが、その晩年は精細を欠き、呉を亡ぼすきっかけを作ってしまいます。孫権の晩年についてお伝えしていきましょう。


孫家の寿命

孫家の寿命

孫家の寿命

曹操や劉備(玄徳)と同世代にあたる孫堅は、武勇に優れ、英雄の風格を備えていましたが、短命で40歳を迎えることなく荊州で戦死しています。その跡を継いだ長子・孫策もまた小覇王と呼ばれるほどの将器で、江東を武力でもって支配することに成功しましたが26歳で病没しています。孫家は才能溢れる人材を輩出していますが、短命であるという弱点がありました。孫家に仕える名将たちも若くして亡くなった者が多く、周瑜や呂蒙はその代表格でしょう。そんな中で異常に長命だったのが呉の初代皇帝である孫権です。70を超える歳まで生きました。没したのが252年ですから、諸葛亮や司馬懿ですらすでにこの世を去っていたことになります。しかし孫権の晩年の評判はすこぶる悪いものです。

太子・孫登

太子・孫登

太子・孫登

孫権の跡を継ぐとされていたのは太子である孫登でした。正妻の子ではありませんでしたが、とても聡明で人望もあったようです。関羽の娘と政略結婚をするという話題もありましたが、最終的には周瑜の娘を妻に迎えています。呉の重臣の子息たちがその学友となっています。大将軍・諸葛瑾の息子である諸葛恪、輔呉将軍・張昭の息子である張休、丞相・顧雍の孫である顧譚、偏将軍・陳武の庶子である陳表らが幼い頃から孫登の側近となりました。寝食を共にし、君臣の礼を超えた交わりだったと伝わっています。孫権亡き後は孫登を中心に彼らが呉を盛り立てていく予定だったのです。しかし孫家の運命が孫登にも襲い掛かります。孫登は33歳の若さで病没してしまうのです。241年のことでした。ここから孫権はなおも10年以上生き続けることになりますが、呉の歯車は大きく狂っていきます。

後継者争い

後継者争い

後継者争い

どこの国でも後継者争いというのは大きな問題となります。かつて袁紹の後継者を巡って長子の袁譚と三子の袁尚が争い、曹操につけ入られて亡んでいます。劉表の後継者を巡っても劉琦と劉琮が揉めています。曹操ですら後継者問題では揺れ動いています。曹丕や曹植は骨肉の争いを演じました。劉備(玄徳)も後継者争いが起こらないように事前に養子の劉封を粛清したといわれています。

孫権もまた孫登の死後、後継者を巡って悩んでいます。そしてそれが呉を真っ二つに割る事態を生むのです。呉は後継者争いのために弱体化してしまいます。なぜ名君と呼ばれる孫権がこのような事態を招いてしまったのでしょうか。

日本では同じような事例で豊臣秀吉があげられます。豊臣秀頼に後を継がせたいがために、すでに後継者に指名していた豊臣秀次を自害させています。こうして豊臣家は内側から崩壊していくのです。そして徳川家康に台頭する隙を与えてしまいます。孫権、豊臣秀吉の両者に共通するのは老齢です。

二宮の変

二宮の変

二宮の変

孫登の死後、太子になったのは孫和でした。これは孫登の遺志でもあったようです。孫和自身に大きな問題はありませんでしたが、孫権は同時期に異母弟の孫覇を魯王とし、孫和と同じような待遇をしたのです。そのために孫権の家臣は孫和派と孫覇派に分かれて政争するようになってしまいます。孫和派は太子の座を守るため、孫覇派は孫和の太子を廃立しようと奔走します。

孫和派は、代表格に陸遜、他にも諸葛恪や顧譚、張休などがいました。孫覇派には、代表格に全琮、他に歩隲、孫峻などがいました。陸遜などは讒言によって心痛のあまりに亡くなったとされていますし、顧譚や張休なども左遷させられています。陸遜が病没したのが245年、翌年には全琮が右大司馬、歩隲が丞相となるも247年には両者共に亡くなっています。この時期がまさに呉の混迷期です。皇帝である孫権に往年のキレはありません。常識的な判断力さえ失っていたのではないかと思われています。陸遜はその犠牲者といえるでしょう。

太子・孫亮

太子・孫亮

太子・孫亮

孫権は250年に事態の鎮静化を図るために243年に生まれたばかりの孫亮を太子に指名します。そして孫和を太子から廃し幽閉しました。逆らうものには孫権は容赦をしていません。異を唱える孫和派の多くが処刑されています。一方の孫覇は自害させられています。孫覇派の多くが誅殺されました。こうして呉を支えた有力な家臣たちの血が多く流された末に、孫権は病没し、10歳の孫亮が皇帝に即位することになるのです。多くの人材を失い、はたして呉はどれほどの戦力ダウンとなったのでしょうか。

孫権は幼少の孫亮の後見役を諸葛恪、孫峻、滕胤に託しています。太傅となった諸葛恪は呉の柱として、来襲する魏軍を迎撃するなどの活躍を見せますが、専横を恨まれ、また合肥新城への侵攻も失敗に終わり孫峻に誅殺されます。孫峻は諸葛恪に代わり権力を握り、これを一族の孫綝に引き継ぎます。滕胤もまた孫綝に滅ぼされ、皇帝の孫亮は廃されました。三代目の皇帝に即位した孫休は、今度は逆に孫綝を誅殺しています。

このように孫権の晩年から呉では内紛に次ぐ内紛で、ボロボロになっていきます。やがて蜀が魏に滅ぼされ、呉は単独で魏に対することになりますが、当然のように対抗できるような力は残されていませんでした。

まとめ・ラストエンペラー孫皓

まとめ・ラストエンペラー孫皓

まとめ・ラストエンペラー孫皓

孫休の病没後、孫皓が四代目皇帝に即位することになります。264年のことです。そして翌年には魏が滅び、司馬炎が皇帝に即位して晋が誕生するのです。もはや呉の滅亡は時間の問題でした。愚者も賢者も呉が亡ぶことは予想していたことだと記されています。そんな雰囲気を察していたからなのか、それとも不遇な生い立ちのためなのか、最後の皇帝となる孫皓は董卓に匹敵する暴君でした。少しでも落ち度のある家臣の顔の皮を剥いだり、目をえぐったりしたそうです。こうして280年、呉は晋の大軍の前に降伏し、天下は統一されることになります。

呉の節目はまさに241年の太子・孫登の死です。もし仮に孫権がここまで長命ではなく、孫登に皇帝を譲り、かつ孫登が短命でなかったとしたら、呉はもっともっと栄えていたことでしょう。歴史に「もし」を考えても仕方ないのですが、それにしても孫権の晩年が実に残念です。この内紛の嵐が、晋の天下統一の手助けになったことは間違いありません。三国志の後半が急激に盛り下っていく原因はここにあるのかもしれません。





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