三国志・徹底的に関羽に立ち向かった龐徳(ほうとく)の生き様

三国志・徹底的に関羽に立ち向かった龐徳(ほうとく)の生き様

曹操に仕えたのがわずか5年ほどにもかかわらず強烈なインパクトを放った勇将「龐徳」。今回はそんな龐徳の壮絶なる生き様をご紹介いたします。


龐徳の生い立ち

龐徳の生い立ち

龐徳の生い立ち

龐徳、字は令明。涼州南安郡狟道県の出身です。南安郡とは涼州の中でも比較的益州に近く、228年の諸葛亮の北伐の際には蜀に呼応しています。従弟の龐柔は漢中の張魯に仕えた後は蜀の劉備に仕えています。龐徳自身は若くして郡や州の役人として活躍しました。190年に涼州の群雄の一人である馬騰が、長安に遷都した董卓に出仕し、羌や氐といった異民族を討伐して偏将軍に任じられていますが、龐徳はこの頃から馬騰に従ったのではないかと思われます。ちなみに「三国志演義」では馬騰は西涼太守として反董卓連合に参加した十七諸侯の一人に数えられていますが、創作であり、関西を拠点にしていた馬騰は董卓側でした。同じく関西出身の英雄・皇甫嵩も嫌々ながら董卓についています。

202年の袁氏との戦いでの武功

202年の袁氏との戦いでの武功

202年の袁氏との戦いでの武功

202年5月には河北の覇者であった袁紹が病没しています。そして袁紹の遺児である袁譚・袁尚と曹操の軍が衝突することになるのです。袁尚は幷州刺史の高幹、河東郡太守の郭援に命じて平陽城を目指して侵攻させます。このとき馬騰は高幹、郭援に呼応して曹操に対抗しようとしていましたが、配下の傅幹が「逆徳の袁氏につき、順徳の曹氏に歯向かえば、朝廷より討伐の詔が発せられるでしょう。しかし今、この曹操の危機を救うことができれば功名は比類なきものになります」と進言しました。馬騰はその助言に従い、高幹、郭援を討つべく馬超と龐徳に一万の兵を与え出撃させました。馬超は脚に矢を受けて負傷していますが、龐徳は渡河してくる郭援を迎撃し、その首を刎ねています。この武功により龐徳は中郎将に任ぜられました。この頃からすでに龐徳は曹操に貢献していたのですね。

205年の高幹との戦いでの武功

205年の高幹との戦いでの武功

205年の高幹との戦いでの武功

曹操に降伏していた幷州の高幹が反乱を起こします。高幹は曹操が幽州の烏恒討伐のために留守をした隙に鄴を落とそうと考えたのです。高幹は用意周到に周辺の勢力に呼応するよう事前に取り付けています。弘農では黒山党の張白騎が暴れ出しました。曹操からの援軍要請に応えた馬騰は、龐徳を従えて出陣します。龐徳は攻める度に敵陣を陥落させ、張白騎の討伐に成功しました。こうして武勇は馬騰軍随一という名声を得るのです。もちろん馬超の武勇も尋常ではありませんでしたが、介添役の龐徳が馬超の背後を守っているからこそ馬超は力を発揮できているとも評されています。馬超よりも龐徳の方が強いという見方が一般的だったのではないでしょうか。その名が曹操にも届いていたのは間違いないでしょう。

211年の曹操との戦い

211年の曹操との戦い

211年の曹操との戦い

211年に馬超は韓遂と組んで曹操と戦うことになります。馬超を盟主として関中の軍閥は立ち上がりました。その数は五万とも十万ともいわれています。曹操も二十万の兵を率いて迎撃に出陣しました。曹操は黄河を北に渡河し、回り込んで馬超を攻めようと試みますが、見抜かれて曹操が渡河するタイミングを狙われます。警護役の許褚の活躍により曹操は危機的状況を逃れましたが、一発大逆転のこの作戦を練ったのが龐徳だったともいわれています。馬超軍は善戦しますが、軍師・賈詡の策略により馬超と韓遂の関係が分断され、内紛により馬超は敗れ去りました。そして馬超と龐徳は漢中の張魯のもとに落ち延びていくのです。

曹操の家臣となる

曹操の家臣となる

曹操の家臣となる

張魯のもとにいた馬超は突如、妻子を置いて出奔します。益州牧の劉璋を包囲した劉備に降ったのです。龐徳は馬超に従うことはせず、引き続き張魯のもとに留まります。果たしてどのようなやり取りが龐徳と馬超の二人の間にあったのか。そこについては謎になっています。馬超は劉備に降り、張魯は215年に曹操に降伏しました。龐徳もまたこのときに曹操に降っています。曹操は龐徳の武勇を知っていましたから、立義将軍に任じ、関門亭侯三百石を与えて厚遇しました。

荊州の防備

荊州の防備

荊州の防備

218年に荊州南陽郡の侯音が関羽に内通し反乱を起こします。重税に苦しんでいた南陽郡の民衆には侯音を支持する者が多かったようです。侯音は関羽の援軍を期待して宛城に籠城しますが、樊城の曹仁、龐徳に攻められて落城、処刑されています。龐徳はそのまま樊城で関羽に備えます。
三国志演義では曹仁の援軍のために于禁を主将に、龐徳を副将にして七万の兵を送り出しています。このとき龐徳は自宅で棺桶を作らせており、「この棺桶には関羽かわたしかどちらかが入ることになる」と覚悟を表しました。
三国志正史では曹仁と共に樊城にいることになっていますが、「国の御恩を受けた。わたしはそれに対して命を懸けて義を行う。今年関羽を殺さなければ、わたしが関羽に殺されるだろう」と三国志演義と似たようなことを語っています。どちらにせよ、関羽を倒す意気込みに満ちていますね。

関羽との決戦

関羽との決戦

関羽との決戦

219年に関羽は樊城を攻めました。龐徳は樊城の北に布陣していましたが、漢水が大雨のために氾濫します。三国志演義では関羽が上流に兵を出して堤防を切り崩して于禁と龐徳を水攻めにしたと記されています。関羽が軍船を前もって用意していたことに間違いはないようです。于禁や龐徳には船がありませんでした。ほとんど抵抗することもできません。于禁はすぐに関羽に降伏しました。しかし龐徳は降伏しようとする部下を斬り捨てて最後まで抵抗を続けます。やがて水中に落ちたところを捕縛されました。

まとめ・龐徳の死

まとめ・龐徳の死

まとめ・龐徳の死

関羽は龐徳の従弟やかつての主君である馬超が劉備のもとにいることから降伏を勧告しますが、賊将にはならぬと答えて処刑されました。曹操はその忠義を称え、曹丕の代になって「壮侯」と諡をしています。四人の子供全員に爵位と領地を与えました。さらにその忠義が高く評価され、龐徳はわずか5年ほどしか曹操には仕えていないのにもかかわらず、功臣二十名に選ばれています。そして三国志正史にも列伝がたてられたのです。

ちなみに父親の覚悟を聞いていた龐徳の末子・龐会は中衛将軍に任じられ、263年に鍾会の蜀侵攻に従い蜀の滅亡に貢献します。そして龐会は成都に入り、関羽の血縁者を徹底的に探し出して皆殺しにしたのです。父親の仇を討ったわけですが、これにより関羽の子孫は途絶えたとされています。





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