弟・諸葛亮と分かれて暮らすことになる
■ 弟・諸葛亮と分かれて暮らすことになる
弟・諸葛亮と分かれて暮らすことになる
諸葛瑾、字は子瑜。徐州琅邪国陽都県の生まれです。祖先は司隷校尉を務めたほどの士大夫であり、父親は地方官吏だったものの、諸葛家は名士に名を連ねる家柄といえるでしょう。(もともとは諸葛ではなく葛という姓だったそうです。陽都県に移り住んでから諸葛という姓に変えています)
諸葛瑾も若い頃に洛陽の都に遊学し、「詩経」「書経」「春秋左伝」などを学んでいます。
しかし家庭は厳しい状況でした。母はかなり早い段階で亡くなっており、継母がいるものの、父も諸葛瑾が成人する前に亡くなっています。
さらに黄巾の反乱などといった戦乱も絶えず、故郷を離れることを決意することになります。弟二人と妹は叔父の諸葛玄が養ってくれることとなり、荊州へ向かいました。しかし義姉である未亡人の面倒はみられないということで諸葛玄に断られ、諸葛瑾は継母を連れて呉郡の曲阿へ移り住むことになったのです。こうして、諸葛瑾と諸葛亮、二人の兄弟は離れ離れで暮らすことになりました。
孫権に仕える
■ 孫権に仕える
孫権に仕える
江東を平定した孫策が急逝し、弟の孫権が跡を継ぐことになります。曲阿には孫権の姉婿である弘咨という人物がおり、弘咨に才能を認められていた諸葛瑾は孫権に推挙されることになります。孫権は諸葛瑾に会い、魯粛と同列の賓客として迎えたそうです。孫権は諸葛瑾を長史に任じています。事務副官ですね。孫権は一目見て諸葛瑾のことを気に入ったわけです。その後は中司馬に任じられています。将軍府の属官です。こうして諸葛瑾は孫権の重臣になっていきます。
諸葛瑾の神対応の説得術
■ 諸葛瑾の神対応の説得術
諸葛瑾の神対応の説得術
諸葛瑾はとても立派な容姿をしていたそうです。さらに寛容さと奥ゆかしさを持っていました。張昭などの長老たちに対しても、君主である孫権に対しても自己の主張はしっかり行いますが、決して露骨に伝えることはしませんでした。断定的な表現を避け、「こういう方法もいいかもしれませんね」と柔らかく伝えました。相手が興味を示さない場合は、自己の主張に固執することをせずに他の話題に転じ、少しずつ本来の話題に戻して自らの主張を展開するのです。実に時間のかかる手法ですが、孫権ですらこのやり方でこられると大抵は認めざるをえなくなったといいます。周瑜や魯粛にしてみるとかなりまどろこしかったでしょうが、その手腕はしっかりと認めていたようです。
孫権と諸葛瑾の関係はとても息のあったもので、「神交」とも呼ばれています。絶大な信頼を得ていた証でしょう。
家臣の不手際に対して孫権が腹をたてて重刑を科そうとした際に、多くの臣下が弁護しましたが、火に油の状態でした。しかし最後に、何も口を開こうとしない諸葛瑾を指名し、発言を求めました。
諸葛瑾は平伏し、「互いに流浪の境遇から殿に救っていただき、新しい生き方を与えていただいてもらったにもかかわらず、互いに励まし合って恩に報いるどころか、恩にそむいて罪を犯してしまいました。わたしがお詫びを申し上げようにももはや手遅れ、それで何もいえなかったのです」と答えました。
孫権は悲し気な表情を浮かべ、諸葛瑾の顔を立てて、その家臣の罪を許したといいます。
死すとも変わらぬ誓い
■ 死すとも変わらぬ誓い
死すとも変わらぬ誓い
関羽の討伐に従軍して功績のあった諸葛瑾は、綏南将軍、南郡の太守となります。孫権の配下には諸葛瑾が劉備と通じているという噂を流す者がおり、陸遜が上奏してそれを否定しています。
孫権は「諸葛瑾とは長く事業を取り組んできており、肉親以上の間柄だ。たがいによく気心を知っている。これまでも中傷するような上奏文を受け取ってもすぐに封をして諸葛瑾に渡してきた。他人の言葉で隙間が生じるようなことはない。この上奏文も封をして諸葛瑾に見せ、陸遜の心遣いを伝えよう」と答えたそうです。
どんな内容を孫権に吹き込んでも、孫権は「諸葛瑾とは死すとも変わらぬ誓いを交わした仲だ。諸葛瑾が私を裏切るはずがない」とまったく意に介していません。
ここまで主君に信用される家臣も珍しいのではないでしょうか。
諸葛瑾は222年に左将軍、公安の督となり、節を与えられ、宛陵侯に封じられました。
長子・諸葛恪への懸念
■ 長子・諸葛恪への懸念
長子・諸葛恪への懸念
諸葛瑾は武官として出撃する機会が多くなります。孫権が合肥を攻めるのに対し、諸葛瑾は荊州方面の攻略を担当しました。江陵の援軍の他、襄陽への侵攻も担当しています。襄陽を巡る戦いでは、魏の司馬懿に敗れたこともありました。
229年に孫権が皇帝に即位すると諸葛瑾は大将軍・左都督・豫州牧に任じられます。
軍務中心で、その後も魏の荊州への侵攻を繰り返しています。
大将軍にまで順調に出世した諸葛瑾にも、ただひとつ懸念していることがありました。それが長子の諸葛恪です。とても優秀で、幼少のころから将来を嘱望され、太子である孫登の学友として遇されたほどでした。しかし父親の諸葛瑾は才能よりもその人柄に不安を抱き、「我が家を興すどころか、一族を根絶やしにしてしまうだろう」と嘆きました。
陸遜も諸葛恪の「上司に反抗的であり、部下をさげすむ性格」、その傲慢さを正そうとしましたが、あまり効果はなかったようです。孫権の寵愛を受けていたことも慢心を生んだのでしょう。
まとめ・諸葛瑾の死
■ まとめ・諸葛瑾の死
まとめ・諸葛瑾の死
孫権から突出した信頼を得ていた諸葛瑾は241年に没しました。遺言によって諸葛瑾の亡骸は白木の棺に普段着のままおさめられ、簡素な葬儀が行われました。諸葛瑾らしい最期ですね。
その後、長子・諸葛恪も大将軍に昇進し、荊州の総司令官となりました。孫権が没すると太傅に就任し、絶頂期を迎えますが、魏との戦で失敗して支持を失います。帰国後、増長していた諸葛恪は多くの下僚に問責と懲罰を加え、憎まれるようになりました。そして武衛将軍の孫峻によって酒宴の場で誅殺されたのです。諸葛瑾の不安が的中し、呉に住む諸葛瑾の子孫はことごとく処刑されたわけです。蜀の諸葛亮のもとに養子に出していた諸葛喬だけが唯一生き残ってその血統を後世まで残したと伝わっています。
諸葛瑾の謙虚さが諸葛恪に受け継がれていれば、このような事態にはならなかったでしょう。諸葛瑾にしても子育ては難しかったのですね。実に残念な話ですね。