大将軍の何進から招聘を受ける
■ 大将軍の何進から招聘を受ける
大将軍の何進から招聘を受ける
張紘、字は子綱。徐州の広陵郡で153年に誕生しています。曹操や孫堅よりも二つほど年上ということです。ちなみに「二張」としてよくペアで語られる相棒の張昭は156年の生まれですから、張昭よりも張紘の方が年上ですね。
若い頃に都の洛陽で遊学していたといいますから富豪の生まれだったのではないかと思います。推察するにおそらく名士の出自ではないでしょうか。
都から戻った張紘は広陵郡の太守を務めていた趙昱によって孝廉に挙げられます。さらに官僚候補として茂才にも推薦されました。三公府から招聘を受けています。張紘を召し出したいと考えたのは、大将軍の何進、太尉の朱儁、司空の荀爽ですから張紘の名は広く知られていたのでしょう。
隠棲の張紘を直接口説く
■ 隠棲の張紘を直接口説く
隠棲の張紘を直接口説く
朝廷から直接召し出されたにも係わらず、張紘はまったく応じませんでした。漢王朝の衰退ぶりがよくわかっていたからではないでしょうか。
その後、張紘は戦乱を避けて江東に移り住んでいます。徐州で起こった大きな戦乱といえば193年の曹操の侵略です。大勢の民衆も曹操軍に虐殺されました。
こうして見てみると40歳になっても張紘は表舞台で活躍していません。学者として名は知れ渡っていたようですが、実績はまったくない状態です。
そんな張紘に直接会って口説き落とした人物がいます。それが「小覇王」こと孫策でした。
タイミングとしては孫策が曲阿の劉繇を倒し、揚州南部を攻略していた頃のことではないでしょうか。張紘は母親の喪中の最中でした。孫策が直接訪れたことで、ついに張紘は重い腰をあげます。劉備が諸葛亮を口説き落とした「三顧の礼」の原型ですね。
丹陽郡を中心に勢力を伸ばす
■ 丹陽郡を中心に勢力を伸ばす
丹陽郡を中心に勢力を伸ばす
張紘は孫策に対し、丹陽郡を拠点にして勢力を拡大していく方針を進言しています。そして丹陽郡の平定に向かう孫策に従います。孫策は張紘を正議校尉に任じました。部隊の司令官です。直接兵を指揮したかどうかは不明ですが、このとき張紘は陣頭に立とうとする孫策を諫めています。「つまらぬ敵の前に軽率に自身をさらしてはならぬ」というものでした。孫策の父親の孫堅は確かにこれが原因で、戦場で命を落としています。ちょうど父親ほども年が離れている張紘のアドバイスを、はたして孫策は素直に聞いたのかどうか・・・その後の黄祖との戦いにおいても孫策は戦場に出撃し、敵陣に攻撃を仕掛けています。
朝廷に仕える
■ 朝廷に仕える
朝廷に仕える
199年に孫策は張紘を許都に派遣します。朝廷に上奏するためです。おそらくは孫策が江夏郡の太守・黄祖を打ち破った戦勝報告だと思われます。
盧江郡の太守・劉勲は皇帝を僭称した袁術の配下でしたから討伐は必然としても、その流れから黄祖を攻めるのには大義名分がありません。
孫策は上奏し、朝廷の神威が遠く辺境の地に及んだのであり、そのおかげで罪人を討ちとって忠義の一端を示すことができたと報告しています。
張紘の上奏が巧みだったのか、その名が知れ渡っていたからなのか、曹操は張紘を引き留めて侍御史に任じています。法務官です。孔融ら一流の名士たちはこぞって交際を求めてきたと記されています。
かつて徐州を支配した呂布も張紘を招こうと試みましたが、このときは孫策が断りの書状を代わりに書いています。しかし、さすがに曹操に直接命じられると断りきれなかったようです。形式上では漢王室に仕えていることになっていますが、その実、張紘は曹操の配下になってしまいました。
曹操に進言し、江東侵略を諫める
■ 曹操に進言し、江東侵略を諫める
曹操に進言し、江東侵略を諫める
曹操と孫策はこのとき婚姻外交を進めており、同盟を結んでいるような状態になっています。張紘は許都にあって、常に孫策の功績と漢王室に対する忠義について語っていたようです。一時は袁術の配下だった孫策です。疑いの目も向けられていたことでしょう。孫策を擁護するために張紘は許都に残ったのかもしれません。
しかし孫策は直後に刺客によって負傷し、そのまま亡くなってしまいます。曹操はこの機会に江東を攻めて孫権を討とうとしました。それを諫めたのが張紘です。
「人の死に乗じるのは礼儀知らずであり、失敗すれば、友誼を壊し、怨みを結ぶ。むしろ今こそ厚遇すべきだ」と主張しました。
曹操はその言葉を聞いて孫権を討虜将軍に推挙し、会稽郡の太守に任じました。そして張紘を会稽東部都尉に任じて、孫権のもとに出向させたのです。曹操は張紘の進言に従い、江東への侵攻を取りやめたのでした。
孫権の補佐役
■ 孫権の補佐役
孫権の補佐役
孫権の補佐役として張紘に期待を寄せていた一人に孫権の母親がいます。呉夫人です。呉夫人はたびたび張紘に手紙を書いて、孫権をよろしく補佐してほしいと依頼しています。そのたびに張紘も丁寧に返書していたそうです。
孫権も大切な方針を練るときや、外交文書の作成や対外政策に関してはいつも張紘に相談しています。「二張」がそろって活躍したのがこのときです。孫権が江夏郡を攻める際には留守を任されています。孫権の家臣の中には張紘は曹操に通じていると危惧する者もいましたが、孫権は張紘を信じて疑いませんでした。
まとめ・建業への遷都を進言
■ まとめ・建業への遷都を進言
まとめ・建業への遷都を進言
208年に赤壁の戦いが起こると、曹操と孫権は敵対関係となります。周瑜が荊州を攻め、孫権が合肥を攻めるという二方面からの軍事行動が行われたのです。
孫権は張紘を長史にとりたてて随行させています。このとき、孫権が軽騎兵を率いて敵陣を攻めようとしたので、それは部将の仕事であって主将のなすべきことではないと諫めています。孫権はアドバイスどおりに陣頭に立つのをやめました。
帰還した翌年も合肥への出兵にこだわる孫権に、ひとまず将兵を休ませ、農業を盛んにし、人材を登用して内政に重視すべきだと進言しています。ここでも孫権は張紘の言葉を聞き入れ、出兵をとりやめています。
さらに張紘は、秣陵に遷都すべきだと主張しています。かつて孫策に進言したのと同様、丹陽郡が攻守の要であることを孫権にも説いたのです。
これはその後、劉備が呉を訪れたときにも孫権に勧めており、孫権は「智者は同じことを考えるものだ」と納得して秣陵に遷都し、建業と名を改めています。
張紘が病没したのは、ちょうどこのときです。張紘は呉の下地を造り上げるのに大きな功績を残したといえるのではないでしょうか。