若き日の孫堅
■ 若き日の孫堅
若き日の孫堅
孫堅、字は文台。揚州呉郡富春県に生まれました。父親の名前は記録には残されていません。名門の生まれでないことは確かです。「孫子の兵法」で有名な孫武の子孫と自称していますが、定かではありません。
代々呉の役人の家柄であったと「呉書」では裴松之が注釈をつけています。孫堅を身籠る前には、孫家の墓に怪しい光がのぼり、五色の雲気は天まで達して数里にわたって広がったそうです。「孫家興隆の瑞兆」と噂されました。
孫堅は17歳にして、上陸してきた胡玉という海賊団を、官兵を率いているように見せかけて動揺を誘い、退散した後を追って首を獲っています。郡守はこの武勇伝を聞いて孫堅を召し出し、郡尉に任じました。17歳にして警察署長になったのです。
許昌という男が陽明皇帝と称し、一万の軍勢を率いて句章県で反乱を起こした際には、孫堅は千人あまりの義勇兵を率い、各郡県の官兵と協力してこれを撃ち破りました。
州刺史は朝廷にこの功績を上申し、孫堅は県丞(副知事)に任命されたのです。
黄巾との戦い
■ 黄巾との戦い
黄巾との戦い
孫堅が29歳の頃、184年に太平道の教主である張角が「黄巾の反乱」を起こします。
漢王朝の皇帝である霊帝は、中郎将の朱儁にこの討伐を命じました。朱儁は孫堅を軍務副官(佐軍司馬)に任命して黄巾の討伐に出撃しています。当時の孫堅は徐州の下邳県で丞を務めていましたが、呉郡から孫堅を慕って多くの若者が同行しており、さらに商人や遊民から兵を募り、朱儁に従って豫州の汝南郡、潁川郡の黄巾を撃ち破ります。敵城の宛城を包囲した際には先頭に立って城壁を乗り越えたといいます。
大将が先頭に立って戦う。このスタイルが孫堅から孫策に受け継がれていくことになるのです。
涼州の反乱
■ 涼州の反乱
涼州の反乱
孫堅は遥か西にある涼州の戦場でも活躍しています。31歳の頃です。
涼州で辺章と韓遂が反乱を起こしました。中郎将の董卓はこれを平定できず、霊帝は司空の張温を車騎将軍代行に任命して討伐を命じました。このとき、張温も朱儁同様に孫堅を従えていくことを希望しています。孫堅は張温の参謀として同行しました。
長安で董卓と合流した際には、孫堅は董卓を斬るべきだと進言します。成果も出せず、勅命をもって長安へ呼び寄せても董卓はわざと遅参していたからです。しかも責任を追及したところで反抗的でした。
ここで孫堅の進言どおりに張温が董卓を処刑していたら時代は変わったことでしょう。
しかし張温はためらいました。
その後、涼州の反乱軍は張温率いる大軍の来襲を知って降参します。官軍の勝利により、董卓の罪は棚上げされましたが、董卓の責任を追及して斬罪すべきだと言い放った孫堅は、皆に感服されたといいます。
さらに名が知れ渡ることとなり、孫堅は審議官(議郎)に出世しました。
荊州の反乱
■ 荊州の反乱
荊州の反乱
今度は荊州で反乱が発生します。荊州の長沙郡で、区星という賊の首領が一万の軍勢で暴れまわりました。霊帝は急遽、孫堅を長沙郡の太守に任命します。数々の功績によって孫堅はついに知事になったのです。
孫堅はやはり戦場では先頭に立って反乱軍を攻めました。わずか一ヶ月で平定します。
さらに荊州南部の零陵や桂陽でも賊徒が反乱を起こします。孫堅は越権行為であることを指摘されながらも郡境を越えてこの反乱を鎮めました。このとき荊州の刺史を務めていたのは王叡で、氏素性のわからぬ単なる武官として孫堅を侮蔑しています。
荊州三郡で発生した反乱はすべて孫堅によって鎮圧されたのです。
霊帝は孫堅の越権行為は不問にし、その功績を認めて烏程侯に封じました。
董卓との戦い:荊州進軍
■ 董卓との戦い:荊州進軍
董卓との戦い:荊州進軍
やがて霊帝が崩御し、董卓が洛陽に入り朝廷を掌握します。暴勇・董卓の専制政治が始まったのです。朝廷でも董卓によって多くの血が流されることになります。
各地で群雄が立ち上がります。孫堅も長沙郡から兵を挙げますが、この機会に恨みのある荊州刺史である王叡を殺しました。
荊州を進軍する間に兵は増え、数万に達したといいます。
孫堅はさらに南陽郡の太守である張咨もまた処刑しています。呉書の裴松之の注釈によると張咨は孫堅を隣郡の一太守と侮り、兵糧の供出命令に従わなかったそうです。同じ太守ですから孫堅の命令に応じる必要などないのですが、実は孫堅は袁術の上奏によって中郎将代行となっていたのです。袁術にはそれだけの名声と権力、人脈があったようですね。張咨はそれを知らずに兵糧の供出を断ったようです。
董卓との戦い:洛陽一番乗り
■ 董卓との戦い:洛陽一番乗り
董卓との戦い:洛陽一番乗り
孫堅は魯陽で袁術と会見します。ここで袁術はさらに上奏して孫堅を、破虜将軍代行並びに豫州刺史に任命しました。袁術の口約束に過ぎない話ですが、孫堅はついに州刺史まで登りつめたわけです。異例の大出世といって間違いありません。孫堅は、四世三公を輩出した名門袁氏嫡流である袁術の信任を受けるというさらなる出世の大チャンスを掴んだことにもなります。
孫堅は袁術の先鋒として洛陽に進撃していきました。
梁県では大敗しますが、態勢を立て直し、陽人の地で敵の総司令官である華雄を討ちました。
袁術と孫堅を離間させようとする動きもあり、袁術は疑念を抱き兵糧の輸送を中断しましたが、孫堅が直接説得して疑いを晴らしています。
さらに董卓は孫堅とは和睦しようと使者を送っていますが、孫堅ははっきり断っています。
やがて都である洛陽に近づいたとき、董卓は都をすべて焼き払い西の長安へと遷都したのです。
孫堅は洛陽に一番乗りし、董卓があばいた皇室の墓陵を修復したといいます。伝国の璽を偶然手に入れたといわれるのはこのときのことです。伝国の璽とは、秦の皇帝の玉璽で漢王朝になってからも代々受け継がれていました。しかしこれには諸説あり、後に呉が晋に降伏する際に伝国の璽を差し出していないことから、孫堅は手に入れていなかったのではないかともいわれています。
まとめ・孫堅の死
■ まとめ・孫堅の死
まとめ・孫堅の死
荊州刺史である王叡を孫堅が殺したことで、その後釜に皇族の劉表が任命されました。
荊州全域を手中に収めようと考えた袁術は、孫堅に命じて劉表を攻めます。劉表は有力な豪族である蔡瑁と結び、軍師として蒯越を迎え、荊州北部に勢力を根付かせていました。
孫堅はやはり先頭に立って劉表と戦います。しかしこれが仇となったのです。黄祖の部下の矢を受けたとも、呂公の部下が投げ落とした石が命中して頭が砕けたとも伝わっていますが、どちらにせよ前に出過ぎたために命を落としたことに違いはないでしょう。
こうして武勇で出世してきた「江東の虎」こと孫堅は37歳の若さで戦死したのです。