三国志・孫策・孫権の父親・孫堅は袁術の配下だったのか!?

三国志・孫策・孫権の父親・孫堅は袁術の配下だったのか!?

三国志の英雄・孫権の父、「江東の虎」孫堅。その武勇は全土に知れ渡るほどでした。董卓すらも孫堅だけは恐れたといいます。今回はそんな猛将・孫堅について触れていきましょう。


若き日の孫堅

若き日の孫堅

若き日の孫堅

孫堅、字は文台。揚州呉郡富春県に生まれました。父親の名前は記録には残されていません。名門の生まれでないことは確かです。「孫子の兵法」で有名な孫武の子孫と自称していますが、定かではありません。
代々呉の役人の家柄であったと「呉書」では裴松之が注釈をつけています。孫堅を身籠る前には、孫家の墓に怪しい光がのぼり、五色の雲気は天まで達して数里にわたって広がったそうです。「孫家興隆の瑞兆」と噂されました。
孫堅は17歳にして、上陸してきた胡玉という海賊団を、官兵を率いているように見せかけて動揺を誘い、退散した後を追って首を獲っています。郡守はこの武勇伝を聞いて孫堅を召し出し、郡尉に任じました。17歳にして警察署長になったのです。
許昌という男が陽明皇帝と称し、一万の軍勢を率いて句章県で反乱を起こした際には、孫堅は千人あまりの義勇兵を率い、各郡県の官兵と協力してこれを撃ち破りました。
州刺史は朝廷にこの功績を上申し、孫堅は県丞(副知事)に任命されたのです。

黄巾との戦い

黄巾との戦い

黄巾との戦い

孫堅が29歳の頃、184年に太平道の教主である張角が「黄巾の反乱」を起こします。
漢王朝の皇帝である霊帝は、中郎将の朱儁にこの討伐を命じました。朱儁は孫堅を軍務副官(佐軍司馬)に任命して黄巾の討伐に出撃しています。当時の孫堅は徐州の下邳県で丞を務めていましたが、呉郡から孫堅を慕って多くの若者が同行しており、さらに商人や遊民から兵を募り、朱儁に従って豫州の汝南郡、潁川郡の黄巾を撃ち破ります。敵城の宛城を包囲した際には先頭に立って城壁を乗り越えたといいます。
大将が先頭に立って戦う。このスタイルが孫堅から孫策に受け継がれていくことになるのです。

涼州の反乱

涼州の反乱

涼州の反乱

孫堅は遥か西にある涼州の戦場でも活躍しています。31歳の頃です。
涼州で辺章と韓遂が反乱を起こしました。中郎将の董卓はこれを平定できず、霊帝は司空の張温を車騎将軍代行に任命して討伐を命じました。このとき、張温も朱儁同様に孫堅を従えていくことを希望しています。孫堅は張温の参謀として同行しました。
長安で董卓と合流した際には、孫堅は董卓を斬るべきだと進言します。成果も出せず、勅命をもって長安へ呼び寄せても董卓はわざと遅参していたからです。しかも責任を追及したところで反抗的でした。
ここで孫堅の進言どおりに張温が董卓を処刑していたら時代は変わったことでしょう。
しかし張温はためらいました。
その後、涼州の反乱軍は張温率いる大軍の来襲を知って降参します。官軍の勝利により、董卓の罪は棚上げされましたが、董卓の責任を追及して斬罪すべきだと言い放った孫堅は、皆に感服されたといいます。
さらに名が知れ渡ることとなり、孫堅は審議官(議郎)に出世しました。

荊州の反乱

荊州の反乱

荊州の反乱

今度は荊州で反乱が発生します。荊州の長沙郡で、区星という賊の首領が一万の軍勢で暴れまわりました。霊帝は急遽、孫堅を長沙郡の太守に任命します。数々の功績によって孫堅はついに知事になったのです。
孫堅はやはり戦場では先頭に立って反乱軍を攻めました。わずか一ヶ月で平定します。
さらに荊州南部の零陵や桂陽でも賊徒が反乱を起こします。孫堅は越権行為であることを指摘されながらも郡境を越えてこの反乱を鎮めました。このとき荊州の刺史を務めていたのは王叡で、氏素性のわからぬ単なる武官として孫堅を侮蔑しています。
荊州三郡で発生した反乱はすべて孫堅によって鎮圧されたのです。
霊帝は孫堅の越権行為は不問にし、その功績を認めて烏程侯に封じました。

董卓との戦い:荊州進軍

董卓との戦い:荊州進軍

董卓との戦い:荊州進軍

やがて霊帝が崩御し、董卓が洛陽に入り朝廷を掌握します。暴勇・董卓の専制政治が始まったのです。朝廷でも董卓によって多くの血が流されることになります。
各地で群雄が立ち上がります。孫堅も長沙郡から兵を挙げますが、この機会に恨みのある荊州刺史である王叡を殺しました。
荊州を進軍する間に兵は増え、数万に達したといいます。
孫堅はさらに南陽郡の太守である張咨もまた処刑しています。呉書の裴松之の注釈によると張咨は孫堅を隣郡の一太守と侮り、兵糧の供出命令に従わなかったそうです。同じ太守ですから孫堅の命令に応じる必要などないのですが、実は孫堅は袁術の上奏によって中郎将代行となっていたのです。袁術にはそれだけの名声と権力、人脈があったようですね。張咨はそれを知らずに兵糧の供出を断ったようです。

董卓との戦い:洛陽一番乗り

董卓との戦い:洛陽一番乗り

董卓との戦い:洛陽一番乗り

孫堅は魯陽で袁術と会見します。ここで袁術はさらに上奏して孫堅を、破虜将軍代行並びに豫州刺史に任命しました。袁術の口約束に過ぎない話ですが、孫堅はついに州刺史まで登りつめたわけです。異例の大出世といって間違いありません。孫堅は、四世三公を輩出した名門袁氏嫡流である袁術の信任を受けるというさらなる出世の大チャンスを掴んだことにもなります。
孫堅は袁術の先鋒として洛陽に進撃していきました。
梁県では大敗しますが、態勢を立て直し、陽人の地で敵の総司令官である華雄を討ちました。
袁術と孫堅を離間させようとする動きもあり、袁術は疑念を抱き兵糧の輸送を中断しましたが、孫堅が直接説得して疑いを晴らしています。
さらに董卓は孫堅とは和睦しようと使者を送っていますが、孫堅ははっきり断っています。
やがて都である洛陽に近づいたとき、董卓は都をすべて焼き払い西の長安へと遷都したのです。
孫堅は洛陽に一番乗りし、董卓があばいた皇室の墓陵を修復したといいます。伝国の璽を偶然手に入れたといわれるのはこのときのことです。伝国の璽とは、秦の皇帝の玉璽で漢王朝になってからも代々受け継がれていました。しかしこれには諸説あり、後に呉が晋に降伏する際に伝国の璽を差し出していないことから、孫堅は手に入れていなかったのではないかともいわれています。

まとめ・孫堅の死

まとめ・孫堅の死

まとめ・孫堅の死

荊州刺史である王叡を孫堅が殺したことで、その後釜に皇族の劉表が任命されました。
荊州全域を手中に収めようと考えた袁術は、孫堅に命じて劉表を攻めます。劉表は有力な豪族である蔡瑁と結び、軍師として蒯越を迎え、荊州北部に勢力を根付かせていました。
孫堅はやはり先頭に立って劉表と戦います。しかしこれが仇となったのです。黄祖の部下の矢を受けたとも、呂公の部下が投げ落とした石が命中して頭が砕けたとも伝わっていますが、どちらにせよ前に出過ぎたために命を落としたことに違いはないでしょう。
こうして武勇で出世してきた「江東の虎」こと孫堅は37歳の若さで戦死したのです。





この記事の三国志ライター

関連する投稿


三国志・孫堅、孫策、孫権三代に仕えた名将・黄蓋の一流統治術

孫家三代に仕え、赤壁の戦いでは大勝利をもたらした名将・黄蓋。武勇もさることながら、領地の統治に関しても一流の手腕を発揮しています。今回は呉の黄蓋をご紹介いたします。


孫堅とその息子たちが歩んだ軌跡。そして「呉」滅亡の経緯とは

孫家が築き上げた「呉」。三国志演義といえば魏と蜀の衝突が大きく映りますが、孫家もまた波瀾な人生を歩んでいます。呉は、孫権の孫・孫皓によって滅亡へ。しかし、孫堅や孫策らのエピソードを知ることで、呉への思い入れが強まるかもしれません。あまり登場しない孫翊・孫匡・孫朗もちょっとご紹介します。


結局どうなったの?「陽人(虎牢関)の戦い」とその後の真実

虎牢関の戦いとも呼ばれる「陽人の戦い」。袁紹ら諸将は、暴君・董卓への反乱を起こします。悪を征することは美徳とされていますが、この戦後をご存知でしょうか?三国志を飾る戦いの1つを、史実ベースでご紹介します。


三国志演義の君主たちと関わりのある劉表一家。長坂の戦いに至るまで

荊州の長官・劉表とその家族は、三国の君主たちとは関わりがあるといっても過言ではありません。長坂の戦いに至るまでの出来事をご紹介します。


三国志の主君たちが死んだ理由を考察してみる。

三国志には魏、呉、蜀をはじめとして多くの国がありますが、それぞれのリーダーとなった人物たちはどのような最期を迎えたのでしょうか?今回は三国志の時代にそれぞれの国を支えたリーダーたちの最期について紹介したいと思います。


最新の投稿


春秋戦国時代 伍子胥の人生について

伍子胥(ごししょ)は、中国の春秋時代に活躍した楚の武人です。彼の本名は員(うん)で、楚の平王によって父と兄が殺されたため、復讐を誓いました。彼は呉に亡命し、楚との戦いで、ついに復讐を果たしました。しかし、後に呉王夫差が越王勾践を破った際、降伏を許そうとする夫差に反対し、意見が受け入れられず、自害させられました。


孫氏の兵法の孫武(そんぶ)とは?

『孫氏の兵法』における「孫氏」とは、古代中国の軍事思想家である孫武です。兵法書『孫子』を著し、戦争や軍事戦略に関する理論を全13篇から構成。特に「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」が有名で、戦争を避けることが最も優れた戦略であると説いています。 参考:ドラマ 孫子兵法 ‧


『キングダム』における羌瘣とは?

羌瘣は、漫画『キングダム』に登場する架空のキャラクターです。彼女は羌族出身の少女で、精鋭の暗殺者集団「蚩尤(しゆう)」に属していました。彼女は、原作、映画においても非常に魅力的なキャラクターです。その環境や周辺を史実を参考に紐解いてみます。


赤兎馬とは? 三国志初心者必見 三国志における名馬の物語

赤兎馬とは、三国志演義などの創作に登場する伝説の名馬で、実際の存在については確証がなく、アハルテケ種がモデルとされています。体が大きく、董卓、関羽、呂布など、三国時代の最強の武将を乗せて戦場を駆け抜けました。


春秋戦国時代 年表 キングダム 秦の始皇帝の時代の始まり

キングダム 大将軍の帰還 始まりますね。楽しみにしていました。 今回は、秦の始皇帝「嬴政」が、中華統一を果たす流れについて記述しようと思います。映画、キングダムのキャストの性格とは若干違うかもしれませんが、参考程度に読んでみてください。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング