孫堅とその息子たちが歩んだ軌跡。そして「呉」滅亡の経緯とは

孫堅とその息子たちが歩んだ軌跡。そして「呉」滅亡の経緯とは

孫家が築き上げた「呉」。三国志演義といえば魏と蜀の衝突が大きく映りますが、孫家もまた波瀾な人生を歩んでいます。呉は、孫権の孫・孫皓によって滅亡へ。しかし、孫堅や孫策らのエピソードを知ることで、呉への思い入れが強まるかもしれません。あまり登場しない孫翊・孫匡・孫朗もちょっとご紹介します。


孫家が築き上げた呉とは

孫家が築き上げた呉とは

孫家が築き上げた呉とは

呉は、かの有名な「赤壁の戦い」で大活躍した国。孫家が国を治めていたことから、「孫呉」とも呼ばれています。赤壁の戦いでは軍師・周瑜が蜀の諸葛亮と手を組み、精鋭兵を束ねる魏を見事撃退しました。
蜀や魏と大きく異なる点は、君主が早々と変わることでしょう。

呉は海に隣接しています。首都は建業。建業はのちに建康と名付けられましたが、現在は南京市と呼ばれています。

初期は袁家の配下として、三分したばかりの頃は蜀か魏のどちらかに与することが多いです。これは史実・三国志演義ともに共通しています。
ゲームでは美男美女で構成されていることが多いため、何となく印象に残っているという方もいるかもしれません。

孫家と因縁深い袁家とは

孫家と因縁深い袁家とは

孫家と因縁深い袁家とは

天下が三分される前に存在していた名門貴族。4代にわたってエリート官職として勤めていましたが、後継者争いで分裂し、そのまま滅亡します。

袁紹(えんしょう)
三国志における袁家の君主。反董卓軍のリーダーを務めていました。曹操(魏)の幼馴染でもあります。
皇帝の証とされる「玉璽」をめぐって孫堅と対立していましたが、曹操との戦いに敗北したショックで病死しました。

袁術(えんじゅつ)
袁紹の弟。
孫策から玉璽を受け取ったあと、民から税をかき集めて優雅に暮らしていました。そんな暴走によって孤立したため袁紹を頼ろうとしましたが、道中で蜀の劉備(玄徳)に命を絶たれます。

江東の虎と称された孫堅

江東の虎と称された孫堅

江東の虎と称された孫堅

孫子兵法で有名な孫武の子孫。孫堅の息子は5人いました。
17歳の頃、立ち寄った地域が海賊に荒らされている場面に遭遇。大軍を引き連れているかのように見せかけ、海賊を追い払ったことでキャリアアップします。

その後も、三国志最初の戦争「黄巾の乱」やそれ以前の宗教的な反乱でも鎮圧に成功しました。
黄巾の乱が終わると、董卓が実権を握って好き放題に暴れます。孫堅は反董卓軍に参加し、袁術の支援を経て董卓の戦力を削りました。

少年時代からの功績によって、孫堅は「江東の虎」と称されるようになります。

玉璽入手後の暗雲

玉璽入手後の暗雲

玉璽入手後の暗雲

虎牢関の戦いを終えたあと、孫堅は井戸の中から「伝国の玉璽」を入手。この玉璽は、秦の始皇帝(初めて中国統一に成功した人)が造ったスタンプです。
「このことは内緒だ」と部下に伝えた孫堅ですが、一部の部下が袁紹に言いふらしてしまったのです。

三国時代の玉璽は、名声を得るための貴重品です。名族(袁家)なら尚更ほしかったのでしょう。

これに怒った袁紹は、孫堅の失脚を狙うために他国の劉表に吹聴しました。一方、孫堅が本拠地に向かう際、劉表からの攻撃を受けます。悔しがった孫堅は劉表を追いましたが、時はすでに遅し。劉表の配下がしかけた矢の雨と落石によって、孫堅は帰らぬ人となりました。

独立を果たした長男・孫策

独立を果たした長男・孫策

独立を果たした長男・孫策

孫堅の長男。彼は、絶世の美女・大喬の夫としても有名です。
孫堅と同じく17歳の頃に転換期を迎えましたが、孫策の場合は孫堅の死を目の当たりにしたことから始まります。

孫策は袁術の配下として力を蓄えたあと、玉璽を袁術に譲ります。孫家の名誉を取り戻すため、友人の周瑜らとともに独立を果たしました。

初めは実績を持たない孫策でしたが、戦勝を重ねつつ他国の猛将を招き入れたことで更なる高みに挑みます。そして呉の本拠地となる建業を制したことで、「小覇王」と名乗りました。

于吉が孫策に見せた悪夢

于吉が孫策に見せた悪夢

于吉が孫策に見せた悪夢

孫策の次の目標は、大司馬(軍を仕切る官職のこと)になることでした。朝廷に申し出る孫策ですが、同じく野望を持つ曹操に妨害されてしまいます。
さらに、孫策は狩りの途中で暗殺者に攻撃されて重傷を負います。

そんな時期、ある道士の存在が呉の中で話題になっていました。
彼の名は于吉。不思議な力で病気を治す道士でしたが、孫策が邪教の根源を理由に殺してしまったのです。
それから孫策は毎日于吉の幽霊を見るように。鏡に映った于吉を見た直後、すべての傷口が裂けて死んだといいます。

辛いことが重なれば、どんな人も余裕が持てなくなります。孫策の場合は野望を妨げられる苛立ちもあって、于吉が許せなかったのかもしれません。

呉の基盤を固めた次男・孫権

呉の基盤を固めた次男・孫権

呉の基盤を固めた次男・孫権

孫堅の次男にして孫策の弟。父と兄の死を乗り越えた、呉の初代皇帝です。

君主になった頃、孫権は魏からの襲撃に懸念していました。
周瑜に相談したところ、同じく魏に苦しめられた蜀と同盟を結ぶことに。これが赤壁の戦いにつながります。
このとき、妹の孫夫人に劉備(玄徳)と政略結婚するよう仕向けました。

赤壁では主に周瑜が仕切っていましたが、もし孫権が周瑜に相談しなかったら、この戦いは起こらなかったでしょう。仮に別の戦いが起きたとしても、今ほど歴史に大きく残らなかったかもしれません。

愛馬とともに川を飛び越えた孫権

愛馬とともに川を飛び越えた孫権

愛馬とともに川を飛び越えた孫権

孫権は、合肥(魏の所有地)を落とすため次々と城を落としました。
しかし、魏の猛将たちによって橋を落とされたことで、事態は一変します。

これによって孫権に後がないと思われますが、彼はあることを決意。愛馬と共に大きな川を飛び越えたのです。

本来の合肥攻略は、諸葛亮(蜀)が魏と呉を戦わせるために考案したものです。しかし、攻略に成功すれば呉にとっても土地や勢力の拡大につながったのです。
そのため、孫権は例年のように合肥を狙っていました。実際では魏の返り討ちが有名ですが、この一連から孫権の粘り強さが窺えます。

三国志屈指の男勝り・孫夫人

三国志屈指の男勝り・孫夫人

三国志屈指の男勝り・孫夫人

孫策らの妹。武芸に長けていた女傑です。劇やゲームでは「孫尚香」と呼ばれることもあります。実在した人物ですが、今もなお詳細がはっきりしていません。

赤壁の戦い前に同盟した呉と蜀は、同時に孫夫人と劉備(玄徳)の政略結婚も果たしました。
この頃、身分の高い人は一夫多妻であることが一般的です。それは劉備(玄徳)も同じで、別の妻との間で生まれた息子「劉禅」が存在していました。
劉備(玄徳)が首都・成都を制圧したあと、孫夫人は劉禅を連れて帰ろうとします。
劉備(玄徳)の部下は劉禅の奪回に成功。呉に帰ったあと、孫夫人がどうなったかは不明のままです。

諸葛亮も怯えた孫夫人

諸葛亮も怯えた孫夫人

諸葛亮も怯えた孫夫人

さて、孫夫人といえばどんな印象がありますか?

孫夫人はたいへん気性が激しかったようです。劉備(玄徳)との結婚後も、蜀でわがままぶりを発揮。侍女たちも常に薙刀を構えていたことから、劉備(玄徳)は部屋に入るたびに怯えていました。
同じく孫夫人に怯えていた諸葛亮は、「孫権の強さには孫夫人の脅威がある」という言葉を残しています。冷静沈着な諸葛亮も怖がるくらい、相当強気な女性だったのでしょう。

周囲の人々を困らせてはいけませんが、性別にとらわれない強さを取り入れたいものです。

演義での孫夫人

演義での孫夫人

演義での孫夫人

演義での孫夫人は、劉備(玄徳)に献身的だったそうです。劉備(玄徳)との仲は円満でしたが、こちらでは悲劇的な要素を含んでいます。

政略結婚をさせたにも関わらず、孫権は劉備(玄徳)が留守のうちに荊州(蜀の所有地)を奪おうと企てます。これがきっかけで、孫権と劉備(玄徳)の関係が険悪に。

のちに孫権は部下の策に従い、「母が病だ」と偽ることで孫夫人を連れ戻します。孫夫人はその後の戦いによって「劉備(玄徳)が戦死した」という誤報を聞いたため、長江に身を投じました。

演義でも気の強さは健在。劉備(玄徳)とともに呉を脱出して荊州に向かう際、孫権からの追っ手を一喝で引き下がらせたことがあります。

一方、孫翊・孫匡・孫朗は・・・

一方、孫翊・孫匡・孫朗は・・・

一方、孫翊・孫匡・孫朗は・・・

孫堅の息子といえば孫策と孫権が代表的ですが、彼らの弟3人はどんな人生を送っていたのでしょうか。

孫翊(そんよく)
孫策と同じくらい武勇に優れていたため、地方警察のような役割を任じられます。しかし、傲慢かつ酒癖が悪かったため、部下に何度も怒られていました。

孫匡(そんきょう)
孫翊の弟。赤壁の戦いが起こる8年前、呉と魏が同盟を結んだことがありました。そのときに孫匡は曹操の姪と政略結婚しています。

孫朗(そんろう)
孫堅の第5子。蜀と呉が激戦を繰り広げた1年後(夷陵の戦い後)、魏の武将が攻め入る事件が起きます。孫朗が防衛中に誤って軍事資材を燃やしてしまったため、孫権によって王族の籍から外されました。

暴君と化した末帝・孫皓

暴君と化した末帝・孫皓

暴君と化した末帝・孫皓

孫権の孫。第4代目にして呉最後の皇帝にあたります。
三国志の中で最も存続していたのは呉ですが、内部はほとんど機能していなかったそうです。

孫晧の父は孫権の後継者候補として選ばれていました。しかし、後継者をめぐる争いに巻き込まれて余所の地へ追放。王位を奪われた父は、自殺に追い込まれました。そんな争いを目の当たりにした孫晧は、23歳のころに即位します。

即位したばかりの頃は、家臣だけでなく民をも思いやる人物だったそうです。しかし、位が上がるにつれて粗暴な君主に。宦官の言葉だけを信じて、皇族や家臣を殺すようになりました。

ある時に他国が侵略するものの、人々の心が離れていった呉はそのまま滅亡しました。

悲劇と共に刻まれた孫家の歴史

悲劇と共に刻まれた孫家の歴史

悲劇と共に刻まれた孫家の歴史

呉の原点は、孫堅の勇敢な少年時代にあると感じます。困難に負けない孫家の強さは、三国志を盛り上げる要素の1つです。

一方で、国を存続させるためにあらゆるものを犠牲にしているとも取れます。父の宝(玉璽)を他国に譲る孫策、妹に政略結婚させる孫権、そして人々の希望を奪った孫晧。戦いには犠牲がつきものですが、どんな人も心の傷を背負ったはずです。

二次創作では蜀に次いで印象的な武将が多くいる孫呉。始まりから滅亡への経緯を知ることで、悲壮感がより際立つでしょう。





この記事の三国志ライター

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