三国志・領地を支配するシステムはどうなっていたのか!?

三国志・領地を支配するシステムはどうなっていたのか!?

三国志を読むとよく登場してくる刺史や太守などの官職をまとめ、三国志時代の統治システムについて触れています。これを知ると三国志の世界が広がります。


天下統一への道のり

天下統一への道のり

天下統一への道のり

天下を統一するとは、全土を支配下に置くことです。
もちろん直接的な支配もありますが、降ってきた群雄に領地の支配を任せる間接的な支配もあります。何もすべての領地を侵略し、あらゆる群雄を討ち取る必要はありません。
日本では天下統一を果たした豊臣秀吉は多くの大名を降参させ、支配下に置いています。天下を統一しても直轄地は徳川家康よりも少なかったそうです。
日本に比べて中国は広いですから、天下を統一するのはたいへんな作業になります。はたして、三国志が幕開けする後漢の時代は領地をどのようにして管理・支配していたのでしょうか。三国志の本を読み始めた方は「太守」や「刺史」という馴染みのない言葉を聞いて戸惑ったかもしれません。今回はそんな役職についても触れていきます。これを知ると三国志の世界はぐっと広がりますよ。

現在の中国の行政区画

現在の中国の行政区画

現在の中国の行政区画

日本は大まかに分けると、北海道、本州、四国、九州に分けられます。もっと細かく分けると府や県になりますね。この制度は明治維新の時の廃藩置県によります。県が置かれる前は、日本は藩に分かれていました。薩摩藩(鹿児島県)や長州藩(山口県)、土佐藩(高知県)や会津藩(福島県)などが有名です。
中国は現在は「省」に分かれています。河北省や四川省など耳に馴染みがあるのではないでしょうか。省の他にも「直轄市」と「自治区」などに水平分割しています。最もメジャーな「北京市」は省に属していません。「上海市」や「重慶市」も同様です。「チベット自治区」や「内モンゴル自治区」「新疆ウイグル自治区」などもニュースで聞いたことがあるのではないでしょうか。

後漢の時代の行政区画

後漢の時代の行政区画

後漢の時代の行政区画

後漢の頃は中国は13の「州」に分かれています。簡単にご紹介しましょう。
○幽州:最も北にある州です。群雄割拠していた頃は公孫瓚が支配していたことで有名です。
○幷州:幽州の西にあります。三国志最強の武将である「呂布」の生まれた場所です。
○冀州:州都である鄴は「袁紹」の本拠地であり、その後は「曹操」の本拠地となりました。
○青州:曹操がここから発生した黄巾の残党を退治し、「青州兵」を組織したことで有名です。
○兗州:曹操の最初の支配地です。呂布と支配権を争いました。
○徐州:「諸葛亮」の生まれた場所です。曹操が大虐殺を行った場所としても有名です。
○豫州:曹操が後漢皇帝を迎え遷都した許都があります。「荀彧」をはじめとする名士が多く誕生した場所でもあります。
○涼州:最西端の州です。曹操と雌雄を決した「馬超」の本拠地です。
○司隷:後漢の都のあった洛陽や長安を含む中央一帯をそう呼びます。
○荊州:群雄の一人である「劉表」が支配していた場所です。その後は曹操、「劉備(玄徳)」、「孫権」が激突する三国志の舞台となります。
○揚州:異民族である山越が多く暮らしていた場所です。呉の本拠地となります。
○益州:険しい山々に囲まれた天然の要塞で、蜀の本拠地となります。
○交州:群雄の一人である士燮が支配していました。現在のベトナム北部も含みました。

刺史と州牧の違い

刺史と州牧の違い

刺史と州牧の違い

州の管理者は「刺史」という役職者です。監察官として中央から派遣されました。刺史は州府で州の行政を担当しましたが、軍権は与えられていませんでした。後漢の末期といえば黄巾の乱など反乱が相次いだ時代です。反乱によって殺された刺史も数多くいます。
そこで軍権も持った州の統治者が必要になりました。提案したのは皇族の「劉焉」です。劉焉は軍権を有する刺史すなわち「州牧」となりました。ちなみに漢王朝では刺史と州牧は何度も変更、改称されています。時代によっては刺史と呼んだり、州牧と呼んだりしているわけです。劉焉が州牧となってからも刺史と州牧は並立し任命されたりしています。
しかし、この軍事力を持っている州牧の誕生が群雄割拠につながっていくのです。冀州牧の袁紹や兗州牧の曹操、徐州牧の「陶謙」などが勢力を伸ばしました。

太守って何だろう

太守って何だろう

太守って何だろう

それでは「太守」とはどんな役職なのでしょうか。13の州をさらに細かくしたのが「郡」であり、郡をさらに細かく分けたのが「県」です。地方行政の実質的な指導者は郡を管理する「太守」でした。
例えば悪逆非道を尽くした権力者「董卓」打倒に立ち上がった諸侯を紹介すると、陳留郡太守の「張邈」や東郡太守の「橋瑁」、河内郡太守の「王匡」、広陵郡太守の「張超」などがいます。袁紹も当時は渤海郡の太守でした。軍権を有していた点が刺史との違いでしょう。
県の監督者は「県令」です。あの曹操も当初は頓丘県の県令でした。劉備も高唐県の県令を務めていましたし、孫権も若い頃は陽羨県の県令(県長と記されています)でした。
太守も県令も皇帝が直接任命していますので、県令は太守の命令を受ける立場にはありません。

相って何?

相って何?

相って何?

詳しく三国志を読んでいくと刺史でも州牧でも太守でも県令でもない「相」という役職が登場します。例えば曹操の盟友でもあった「鮑信」は済北相として紹介されていたりします。実は郡には特別なものがあり、それが「国」です。皇族が諸侯王として領有する郡は国と呼ぶのです。兗州を例にあげると、済北国の他に東平国、任城国があります。徐州にも琅邪国、彭城国、下邳国とあります。国には太守は置かず、皇族の代行として相が中央から派遣されて太守と同じように行政を担当しました。
高祖劉邦以来、王国としての領地を所有することが許されているのは皇族だけです。しかし後漢末期に初めて臣下の身分で王になった男がいます。それが曹操です。

まとめ

まとめ

まとめ

皇帝の皇子たちが王として各地に配置され、その結果、漢帝国には王国がいくつも誕生しました。後漢末期には諸侯王の領地支配は廃れていましたが、曹操が復活させます。臣下しては初めてのことになりますが、216年に曹操は魏公から魏王になり、魏の建国を正式に認められました。曹操の腹心のひとりである荀彧は、それらの曹操の動きを止めようとしましたが実現できずに自害しています。それに対抗するように219年、劉備(玄徳)は漢中を平定し、漢中王を自称します。こうして本格的な三国志の時代を迎えることになるのです。
今後、三国志を読まれる時の参考にしていただければ幸いです。





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