合肥の城を、捨てる!?
■ 合肥の城を、捨てる!?
合肥の城を、捨てる!?
曹休の死後、対呉戦線の責任者となったのは満寵(まんちょう)という武将でした。この人、知名度はそこそこながら、三国志ファンの間で特に人気があるわけでもなさそうですよね。しかし彼もまた、なかなかの人物だったのです。
しばらくの間、魏への服属と反抗を繰り返してきた孫権ですが、徐々に力をつけてきました。そして229年、孫権は呉王朝を創建し、ついに皇帝の座へとのぼったのです。満寵はこうして国力を増した呉と対峙しますが、万事に用心深く対処し、相手に付け入るスキを与えませんでした。
しかし何度撃退しても、孫権による侵略はやむことがありませんでした。その要因としては、まず合肥が孫権側から見て、とても攻めやすい場所にあったことが挙げられます。呉から合肥までの途上には長江があり、さらには合肥が湖に面していたため、船を使ってスピーディーに攻め寄せることができたのです。
さらに合肥は、魏国の他の大都市と大きく離れているため、魏の援軍がやってくるまでとても時間がかかりました。そのため、スピーディーに進軍してくる呉軍によって、すぐに包囲されてしまう傾向があったのです。
合肥の立地条件では、今後呉の侵略を防ぐのは難しい―――満寵はそう考えました。
そして彼は、ある大きな結論にたどりついたのです。
「合肥を、捨てるべきだ」
「合肥新城」 その遠大なる構想
■ 「合肥新城」 その遠大なる構想
「合肥新城」 その遠大なる構想
満寵の構想は、合肥城から遠く西北に30里はなれた場所に「合肥新城」を築くというものでした(つまりは合肥を廃し、別の場所に都城を建設するということです)。
こうすれば、呉軍は新城に着くまで陸路を進まなくてはならなくなります。呉軍にとって攻めづらくなる一方、魏軍としてはずっと守りやすくなるわけです。
さらには最寄りの大都市・寿春(じゅしゅん)との距離もグッと近くなるため、有事において援軍がすぐに駆けつけられるようにもなります。
とはいえ、これだけ大掛かりなことをするには、朝廷の賛成と、皇帝の許可を得なくてはなりません。案の定、有力者のひとり蒋済(しょうさい/注)が、こう反対しました。
「そのような策は、天下に魏が弱いと示すようなものであり、賊軍(呉軍)が攻めてくるからといって城を壊すとは何事でありましょうか。
一度そのような事をすれば、さらに敵の侵略を招き、領土を大きく失うことになりましょう」
蒋済の意見も、一理ありました。合肥は魏軍にとってただの防衛拠点ではなく、張遼ら名だたる勇将たちが命がけで守りぬいた、特別な場所です。その合肥城を廃し、まるで敵から逃げるように拠点を移すのですから、将兵の士気が低下することも考えられます。
また合肥城を廃することは、魏王朝の世間的な体面にも影響しかねない話でした。大国である魏が、呉軍を恐れて逃げているような印象を与えるのは、好ましいことではなかったのです。
(注)蒋済(しょうさい)……魏の武将・政治家。曹操軍が関羽の侵攻を受けた際は、孫権にその背後を突かせるよう献策し、危機回避に貢献した。気骨のある人物としても知られ、皇帝に対しても直言をはばからなかったという。
合肥新城が孫権を蹴散らした
■ 合肥新城が孫権を蹴散らした
合肥新城が孫権を蹴散らした
こうして根強い反対論に直面した「合肥新城構想」でしたが、満寵はあきらめませんでした。彼は皇帝に上奏(じょうそう/注)し、「合肥新城」の利点を、孫子の兵法(注)の理論にのっとって説明しました。そうして2代皇帝・明帝(注)も、満寵の主張に理ありと判断し、合肥新城の築城を認めたのです。
(注)上奏(じょうそう)……皇帝に対して意見を申し述べること。
(注)孫子の兵法(そんしのへいほう)……孫子とは、中国・春秋時代の武将である孫武(そんぶ)、または彼の記した兵法書を指す。彼が著書で唱えた軍事理論を、孫子の兵法という。
(注)魏の明帝……魏の2代皇帝で、名は曹叡(そうえい)。曹操の孫で、文帝(曹丕)の子。その治世においては、蜀の諸葛亮、呉の孫権らの侵攻を退けている。自ら親征して将兵を奮起させるなど、英邁な資質があった。反面、宮殿の造営などの土木工事を盛んに行い、財政を悪化させ、民に負担を強いた面もあった。
そして233年、孫権がさっそく合肥新城に攻めてきました。しかし従来の合肥城とちがい、合肥新城は水路から離れていたので、すぐには城に向かってきません。それでも満寵は、孫権が必ず攻め寄せてくると考え、その進路に伏兵(ふくへい)を置いておきました。案の定、孫権は上陸して城に向かってきたため、満寵の伏兵に叩きのめされました。合肥新城を、水路から遠い場所に築城したからこそ、この作戦が上手くいったのです。
翌234年、孫権がさらなる大軍を率いて攻め込んできました。この時ばかりは満寵も弱気になり、合肥新城を放棄し、北方の大都市・寿春で迎え撃つよう皇帝に意見しました。しかし皇帝はこれを許さず、合肥新城を死守するよう厳命したのです。
こうして満寵は、大軍撃退のための策を講じます。彼は風の強い日を選び、呉軍の風上から火をかけさせました。これにより呉軍の攻城兵器を焼き払ったうえ、孫権の甥である孫泰(そんたい)を討ち取る戦果をあげました。孫権は結局、またも合肥新城を攻めきることができず、撤退を余儀なくされたのです。
諸葛亮の甥っ子も返り討ち!
■ 諸葛亮の甥っ子も返り討ち!
諸葛亮の甥っ子も返り討ち!
合肥新城を築いた満寵は、242年に死去します。
その後、時は流れて253年。孫権の死後、呉の実権を握った諸葛恪(しょかつかく/注)が攻めてきました。
この時はさすがの合肥新城も落城寸前まで追い込まれ、城壁の一部を破壊されてしまいます。しかしここで城内の武将の一人が、呉軍に対して申し出たのです。
「機が来れば呉軍に寝返るので、それまで攻撃を止めてくれ」
諸葛恪はこの言葉を信じ、一時攻撃の手を止めました。しかし寝返りの約束はウソで、城内の魏軍は敵の攻撃が止まったスキに、城壁を修復してしまったのです。
怒った諸葛恪は再度城を攻めますが、合肥新城を落とすことはできず、退却したのです。
(曹休の時もそうですが、魏と呉の戦いでは「偽りの降伏」が策略としてよく出てきますね)
こうして合肥新城は、何度となく攻め寄せた呉軍を、ことごとく撃退しました。
張遼が命を賭けて守った合肥は、満寵による「合肥新城」への移転によって、さらに強力な防衛拠点へと生まれ変わったのです。
(注)諸葛恪(しょかつかく)……呉の功臣・諸葛瑾(しょかつきん)の子で、蜀の諸葛亮の甥。幼い頃から才人として知られ、孫権の死後は呉の実権を掌握する。252年、魏の侵攻軍を迎撃して大勝。翌253年には自ら合肥新城を攻めるも失敗し、多大な犠牲を生んだ。その後は専制政治により衆望を失い、暗殺された。
やはり張遼は偉大だった
■ やはり張遼は偉大だった
やはり張遼は偉大だった
ここまで、張遼の武将人生と、彼の死後の戦局について見てまいりました。
張遼と満寵―――合肥を守ったふたりをあえて比較するなら、張遼は敵を圧倒する超人であり、満寵は(超人ではないものの)堅実に戦う名将だったといえるでしょう。
もともと合肥は水路で呉軍に攻め込まれやすく、魏にとっては守りにくい場所でした。そこを張遼が、超人的な武勇で守り抜いてきたのです。
それに対して満寵は、超人でなくても守りぬけるよう、合肥を遠く西北に移し「合肥新城」を造りました。敵にとってはアクセスが難しく、味方にとってはすぐに援軍を得やすい環境を作ることで、張遼のような超人でなくても守りぬけるよう、新たな防衛拠点を完成したのです。
満寵は張遼の守った合肥を完全に造り変え、「超人でなくても守り抜ける」防衛システムを構築しました。
裏を返せば、それは「超人」張遼の偉大さの証明でもあったと思うのです。