「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(3) 危機管理も完璧だった男

「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(3) 危機管理も完璧だった男

若き日の張遼は、丁原、董卓、呂布といった猛将たちに仕えました。しかしこれらの主人たちは皆、志半ばにして討たれてしまい、張遼はそのつど新たな主人に仕えなくてはならなかったのです。呂布が滅んだ後、張遼は曹操に仕えます。後に魏王朝の始祖となるこの男こそ、張遼にとって運命の主人だったのです。


曹操も絶賛! 華北で快進撃

曹操も絶賛! 華北で快進撃

曹操も絶賛! 華北で快進撃

西暦200年、曹操は華北の大勢力であった宿命のライバル・袁紹(えんしょう)を破り、後漢末の第一人者としての地位を確立します(官渡の戦い)。その後まもなく袁紹は死去したため、曹操はその息子たちを相手に、華北平定の戦いを起こしました。
ここで張遼が大活躍します。袁紹の息子たちの軍勢をたびたび破り、さらには華北各地の勢力を撃破し、あるいは説得して曹操に帰順(きじゅん)させたりしました。先にも例を挙げたように、張遼は(意外にも)交渉で敵を味方につけるのを得意としていました。やはり乱世を長く生き抜くためには、戦わずして敵を味方につけていくことも、リスクや損害を減らすために必要だったのでしょう。ただ戦いに強いだけではなく、対人関係やコミュニケーションにおいても優秀だったからこそ、張遼はこの先も長く戦い、歴史に勇名を残せたのです。

華北における張遼のめざましい戦いぶりは、曹操にも高く評価されました。曹操は帰還した張遼を自ら出迎えて、自ら手を引いて車(馬車)への同乗を許したといいます。当時の君臣の関係を考えれば、まさに破格のあつかいと言えるでしょう。まさにこのふたり、君臣の相性がピッタリだったのです。

異民族を討伐 張遼の本領発揮

異民族を討伐 張遼の本領発揮

異民族を討伐 張遼の本領発揮

その後も曹操の華北平定は進み、張遼は袁氏の残党はもちろん、異民族とまで戦うことになります。
曹操によって追いつめられた袁紹の息子たちは、烏桓(うがん)という異民族を頼りました。中国(漢民族の支配領域)の北側にいた烏桓は、現在の中国・内モンゴル自治区の辺りで勢力を張っていた民族です。彼らは騎馬での戦いに優れており、漢民族にとってあなどれない強敵だったのです。
袁氏の残党が、烏桓と組んで攻め寄せてくれば、曹操の華北支配は危ういものとなります。曹操は烏桓の征伐を決意し、張遼もそれに従軍することになりました。

ここで、張遼の出身地について思い浮かべた方もいらっしゃるでしょう。そう。張遼は并州(へいしゅう)の出身であり、北方の騎馬民族と接する地域で育ちました。よって烏桓の騎馬を使った戦い方についても、よく知っていたのです。烏桓征伐に張遼が起用されたのは、まさに適材適所の人選だったのです。

烏桓は曹操軍の来襲を予期しており、要所の守りを固めていました。そこで曹操は、いったん撤退するかのように見せかけて、抜け道を通って回り込み、敵の背後を襲う作戦を立てました。この作戦は見事に的中し、烏桓は曹操が退却するものだと思って油断していたのです。
そして曹操軍が烏桓の軍勢の近くに迫ったとき、両軍は突然出くわしました。
予定にはない敵軍との遭遇(そうぐう)でしたが、このとき張遼は、曹操に断固として戦うことをすすめます。闘志をみなぎらせる張遼に、曹操も感じるものがあったのでしょう。自分の旗を張遼に授けたうえで、敵を討ち果たすように命じます。張遼はこの期待にこたえて奮戦し、曹操軍は烏桓を打ち破ります。こうして曹操の華北支配は、磐石(ばんじゃく)となったのです。

曹操、ますます張遼を重んじる

曹操、ますます張遼を重んじる

曹操、ますます張遼を重んじる

張遼たちの勝利は、中国の歴史そのものにも影響を与えるものでした。漢民族は中国の中心地域を支配していたものの、異民族の攻撃に苦しむことも多くありました。漢の高祖・劉邦(りゅうほう/注)ですら、やはり北方の異民族である匈奴(きょうど/注)に苦戦し、屈辱的な講和を結ばざるを得なかったのです。いまも残る「万里の長城」は、漢民族が北方の騎馬民族の侵入を防ぐために作られたものでした。あんな大掛かりなものをこしらえるほど、漢民族は異民族を恐れていたのです。

(注)劉邦(りゅうほう)……漢(前漢)の初代皇帝。低い身分から身を起こし、秦の打倒に参加した。秦の滅亡後は項羽(こうう)との戦いを制し、中国の支配者となった。匈奴との戦いでは苦戦した。
(注)匈奴(きょうど)……中国の北方に存在した遊牧民族。モンゴル平原を中心とした地域で、大きな勢力を誇った。

漢民族にとって、北方の異民族は恐るべき敵であり、そのひとつである烏桓の打倒は、中国の安定にとって大きな意味を持つ出来事でした。張遼はその重要な戦役で活躍し、またもや武将として勲功をあげたのです。

ともあれ、ここまで張遼の事跡を見てみると、曹操に非常な特別あつかいを受けているのが分かります。烏桓との戦いでは曹操の軍旗を授けられていますが、合戦における大将の旗は、大将の存在そのものを示す重要なものです。それを張遼に預けるのですから、曹操が彼に寄せた信頼のほどがうかがえます(他にも先に述べたように、曹操の車に同乗することを許されています)。
曹操の張遼に対するあつかいは、まさに破格の待遇といえました。そして張遼自身に、曹操の期待にこたえるだけの力量があったことは、その後の歴史が証明しています。

名将ならではの危機管理

名将ならではの危機管理

名将ならではの危機管理

華北を平定したあとは、南がターゲットになります。曹操はきたるべき南方での戦いに備え、張遼を要所に駐屯(ちゅうとん)させました。
このとき事件が起きます。ある日の夜中、張遼の率いる軍の中で反乱が起き、いたるところに放火して回ったのです。全軍が大混乱におちいり、皆があわてふためきます。しかし張遼は落ち着いたもので、周囲の者にこう言いました。

「全軍が反乱を起こしたわけではない。ごく少数の者が騒動を起こして、我々を混乱させようとしているだけだ」

張遼は、反乱の意思が無い者には動かずに座っているように命じました。そうして自身は数十人の親衛隊を率いて、動じることなく本陣に立ち続けました。張遼の落ち着いた対処と、堂々たる威厳によって、軍の動揺はすぐにしずまります。やがて反乱の首謀者がとらえられ、処刑されました。
反乱の騒ぎが起きたとき、張遼はその声をよく聞いていたのでしょう。小数の者が叫びながら、陣中に火を放ち、騒動を起こそうとしただけなのを、即座に見抜いたのです。
軍を率いている以上、いつ不測の事態が起きるか分かりません。そんな状態でも落ち着いて状況判断をし、危機に対処する能力こそ、武将に何よりも求められるものでしょう。張遼はさすが、曹操に認められるだけの武将だったのです。

敵の説得工作から、異民族対策、反乱への危機管理など、張遼が幅広く活躍しているのが分かりますね。次回は彼の名将ぶりを、さらにご紹介します。





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